第2話

 そうして週末。

 土曜日。


「では、少し出かけてきます」


 そう僕が告げた相手は蓮見氏だった。


 彼はリビングのソファにゆったりと座り、A4サイズの紙の束に目を通していた。何を読んでいるのだろうか。そこまで真剣といった様子はなく、さらっと流しているだけのように見える。


「ああ、気をつけて行ってきなさい」


 だからか、すぐに顔を上げ、答えた。きっと真剣に読むべきものならリビングではなく、自室で読んでいることだろう。


「ところで、蓮見先輩はどうしたんですか? 姿を見てませんが」


 僕は二階に目を向けた。何度か部屋の前を通ったが、どうも気配を感じなかった。


「紫苑なら少し前に出かけたよ」

「そうでしたか」


 遊びにいくなんてひと言も言ってなかったけどな。……まぁ、行動予定を何でも話してくれるわけではないから、こういうこともあるだろう。


「何をやっているのだろうな、紫苑は。テストも近いだろうに」

「……」


 その言葉はこちらにも流れ弾が飛んでくるな。用がすんだら早めに帰ってくることにしよう。


「そうだ。父親面をするようで申し訳ないんだが――」


 という前置きで、蓮見氏が切り出してきた。


「君は、その、学業のほうはどうなんだ?」

「成績ですか? まぁ、それなりにできるほうだと思っています」


 同じ学年の生徒を成績順で並べた場合、わりと早々に僕の名前が出てくるはずだ。


「そうか、それはいいことだ。将来どんな道に進むにしても、勉強はできるにこしたことはないからな」

「そうですね。僕もそう思います」


 高校で習うことなど将来なにも役に立たない、などとわかったふうなことを言うやつもいるが、必要になったときにイチから勉強していては間に合わないこともある。できるはできないよりも上位なのだ。


「では、いってきます」


 そうして僕は蓮見邸を出た。




 外へ出れば、後はいつものルートだ。


 名谷へ徒歩で行き、そこから神戸市営地下鉄西神・山手線で目的地の三宮へ。僕と奏多先輩は同じ中学に通っていたので、彼女の最寄り駅も真壁の家があり、二十八番目の鉄人がいる新長田だ。とは言え、僕が途中下車するか乗る電車と車両を明確にしておかないかぎり、移動しながらの合流は難しい。よって、自然と現地集合になる。


 電車に揺られること十八分。


 地下鉄を降り、東改札を出たところで僕は奏多先輩を待つ。時計仕掛けの彼女のことなので、いつ到着するかは読みやすい。遅れてくることはまずないので、待ち合わせ時間に最も近い時間に到着する電車に乗ってやってくるはずだ。


 ならばもう一本分時間があるなと思い、暇つぶしにスマートフォンを取り出したときだった。


「お前、早いわね」

「っ!?」


 奏多先輩の声だった。不意を衝かれた僕は飛び上がりそうになる。


「何を驚くことがあるの? 私がくることはわかっていたはずよ」


 かすかに呆れているふうの奏多先輩。


「いや、次の電車だと思っていたもので」

「次のだとホームからここに上がってくる間に待ち合わせの時間を過ぎてしまうわ」

「……おっしゃる通りで」


 なるほど。電車の到着時間だけではなく、そこまで計算に入れなくてはいけないのか。覚えておこう。


 実際、地下鉄三宮駅はホームまでがそこそこ深い。特に西神中央方面へ向かう下り。おかげでホームへ下りる、或いは、コンコースまで上がってくるのにけっこうな時間がかかるのだ。


 奏多先輩は、夏らしいオープンショルダーのキャミソールに、ダメージ加工がされたデニムのロングパンツという服装だった。蓮見先輩や瀧浪先輩と比べると女性らしい起伏に乏しいのだが、背が高いことも相まって恰好よさがある。


 しかも、バッグの類いは持っておらす、持ちものといえば尻ポケットに刺した財布と、手に握ったスマートフォンだけ。驚くほどの簡素さだが、奏多先輩は昔からこうだ。女性としてもう少し何か持ち歩くべきものがあるのではないかと思うのだが、彼女はそうではないらしい。


「行くわ」

「了解です」


 さっそく僕らは歩き出す。


「にしても、これも恒例行事になりつつあるな」


 誰に聞かせるわけでもなく僕は言い、苦笑した。


 最初は瀧浪先輩で、次が蓮見先輩。そして、今度は奏多先輩である。待ち合わせはワンパターンのように三宮。しかも、瀧浪先輩、蓮見先輩のときはそれぞれ尾行のおまけつきときている。


 不意に奏多先輩が、別に僕の心を読んだわけではないだろうが、ひとこと言った。




「……いるわね」




「は?」


 僕は思わず素っ頓狂な声を上げる。


 このとき、奏多先輩が今の言葉をどういうつもりで言ったのかを尋ねるよりも先に、僕は感覚で意味を理解していた。


 反射的に振り返り、素早く索敵する。


 と、改札口前に伸びる連絡通路の柱の陰に隠れる人影があった。僕がじっとその一点を見続けていると、女の子が顔だけを覗かせた。僕が見ているとわかると、またさっと消える。……瀧浪先輩だった。


 次に顔を見せたら名前を呼んでやろうと、さらに見続けていると、あろうことか今度は蓮見先輩が顔を出した。


「な、何で蓮見先輩まで……」


 テストが近いのにいったいどこに出かけたのかと思ったら、まさかこことは。


 僕が言葉を失っている間に、彼女もまた隠れてしまった。


「いや、確かに恒例行事とは言ったけど、ここまで含めてかよ」


 瀧浪先輩のときは蓮見先輩がこっそりついてきていて、蓮見先輩のときは瀧浪先輩。そして、奏多先輩の今回は、まさかのふたりとは……。


「すみません。呼んできます」


 このままにしておくわけにもいくまい。我ながら暗くてつまらないことをしていると思った、と言ったのは蓮見先輩だっただろうか。


「行かなくていい」


 しかし、足を踏み出しかけた僕を、奏多先輩が止める。


「いや、でも、このままじゃ――」

「ならば聞くけど」


 僕の言葉を遮り、奏多先輩はそう切り出してきた。




「お前は女を三人も同時に相手できるの? 私ひとりですら満足に――」

「だから!」




 今度は僕が彼女の言葉を遮る。

 それが真顔で問いかけてくるような内容か。どうしてそういう言い方しかできないのだろうな。


「兎に角、呼ぶ必要はないわ」


 奏多先輩は有無を言わせぬ口調でそう言うと、再び歩き出した。僕も後をついていく。

 どうしても後ろが気になって不意打ちのように振り返れば、瀧浪先輩と蓮見先輩がまたさっと柱の陰に身を隠した。


 まるでかくれんぼか達磨さんが転んだ。


 高校生にもなってこんなことをやる羽目になるとは。




          §§§




 センタープラザビルを抜けてセンター街へ。そうして辿り着いたのは大型書店だった。


 ここに行くとはひと言も言わなかったが、予想はできていた。昔からそうなのだ。外に出たらまずは書店。それが奏多先輩のお決まりの行動だ。


「あのふたり、ほっといていいんですかね?」


 店内を見て回る奏多先輩について歩きながら僕は聞く。


 もう後ろは振り向かないことにした――なんて言うとやけに恰好よく聞こえるが、この場合物理的な話だ。振り返れば我が茜台高校が誇るふたりの美少女が、挙動不審な動きをしているにちがいない。頭痛がしてくるような光景だ。できれば見たくない。


 しかし、奏多先輩の返事は冷たいほどにあっさりしたもの。


「かまわない」

「いや、でも――」




「私はお前とふたりだけで時間を過ごしたいと言ってるの。誰にも邪魔されずにね」




「え……?」


 僕の足が止まった。


 そして、僕が立ち尽くしている時間に奏多先輩の歩く速さを掛けた分だけ、僕と彼女との距離は開いていく。


 僕ははっと我に返り、奏多先輩を追いかけた。


「あの、それはどういう……?」


 何やら妙な言葉を聞いた気がする。


「冗談よ」

「……」


 しかし、背中を向けたまま簡潔にそう言われ、僕の足はもう一度止まりそうになった。


 なぜそんな嘘を……?

 思わず考え込み、斜め下に顔を向けたときだった。


「うん……?」


 目に飛び込んできたのは平台に積まれた士総一郎の新刊。


「奏多先輩、これ」

「ああ、それ。先週出たのよ」


 彼女は興味なさげに言う。


「でも、ついこの間、新刊が出たばっかりじゃ……」


 確か買ったのは瀧浪先輩とのデートのときなので、まだひと月とたっていない。やけにペースが速いな。


「別の出版社よ」

「え、そうなんですか?」


 言われて背表紙を見てみれば、よく見知ったものとはちがうデザインだった。再度表紙に目を戻すと、確かにそこにはちがうレーベル名が書かれている。


 つまり密かに二作を同時進行していたわけか、士総一郎先生は。


「言っておいてくださいよ」

「売れてないんだから、すぐになくなったりはしないわ」


 奏多先輩は自嘲気味に言う。


 残念ながら、奏多先輩の言っていることは正しくない。今の時代、とにかく刊行のサイクルが早くて、一ヶ月とたたず新刊の平台から追い出されるのはよくあることだ。売れていないからと言って、いつまでもそこにあるわけではない――というのは奏多先輩から聞いた話なのだが、きっと忘れたわけではなく、あえて知らない振りをして言っているのだろう。


「ちょっと買ってきます」

「お前、すぐにはなくならないと言ったのを聞いていなかったの?」


 奏多先輩はどことなく不機嫌だ。


「作者に敬意を表しているんですよ」


 しかし、僕はそんな彼女を残し、きた道を引き返してレジへと向かった。


 途中、顔を隠すようにしてファッション誌を立ち読みしている女の子という、いつかどこかで見たような光景が視界の隅に映った。しかも、今回はふたり。


 案の定、頭が痛くなった。

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