第3話

 僕の学校生活の本番は放課後にあるようなものだ。


 それを示すかのように特にこれといった出来事もなく時間は過ぎていき、すべての授業を終えた。


 そして、放課後。


「真壁、ちょっと」


 終礼が終わった直後、担任の浅羽清十郎先生が僕を呼んだ。


「はい」

「あ、いや、そんなにかしこまった話じゃないから、歩きながらでいい。先に荷物をまとめてこい」


 僕が教壇のほうに行こうとしたら、浅羽先生が手と言葉でそれを制した。


 一度席に戻り、言われた通り帰り支度をする。それが終わって顔を上げると、教壇に浅羽先生はおらず、廊下にその姿が見えた。僕も教室を出る。


「お待たせしました」

「ああ」


 浅羽先生は短くそう答えると、歩き出した。


「最近どうだ?」


 しばらくして聞いてくる。曖昧な問い。どう答えていいか僕が思案していると、浅羽先生はさらに言葉を重ねてきた。


「蓮見の家に行ってもう一ヶ月だろ? 少しは慣れたか?」

「はい。よくしていただいてます」


 ようやく意図が掴め、僕はそう返事をした。


「そうか。ならよかった。……いや、まぁ、蓮見を見ればあの親父さんもちゃんとした人だというのはわかってるんだが。いちおうな」


 要するに浅羽先生は、母親を亡くし、いきなり現れた父親に引き取られた僕の近況を確認したかったのだろう。とは言え、それこそ娘の蓮見先輩の人気の高さや、僕を預かるにあたって蓮見氏が学校へ説明に足を運んだことを考えれば、彼がきちんとした人であることは一目瞭然だ。


「でも、ちゃんとした人ならよそで子どもを作ったりしないのでは?」

「そう言ってやるな。そのときにはそのときの事情があったんだろうよ」


 浅羽先生は苦笑交じりに言う。


「気持ちはわかると?」

「俺はまだ独身だ。……ったく、なんで高二の教え子と大人の不倫について話をせにゃならんのだ? お前と話してると調子が狂うよ」


 そして、今度は乱暴に頭を掻いた。計算された無造作ヘアが少し乱れる。


「だいたいそのおかげでお前が生まれたんだろうが」

「そのことですが、仮に母が蓮見先輩のおじさんと出会わなかったら、僕は別の父親との子として生まれたのでしょうか?」

「俺にわかるわけがないだろ。生物の先生にでも聞いてみるんだな。でも、少なくともお前のお袋さんと蓮見の親父さんの血を引いた『真壁静流』は生まれてきてなかったんじゃないか?」


 数学教師は投げやりに言った。


 浅羽先生の言う通りだろう。僕を構成する遺伝子の半分が入れ替わった場合、ここにいる僕は存在せず、果たして今の『真壁静流』からどれくらいかけ離れたものに生まれるのだろうか。


「そう言えば、真壁、一瞬変な噂が立ったな。大丈夫だったか?」


 僕がストーキングをしているという噂は職員室にまで届いていたようだ。そして、それを根拠のないデマと思ってもらえるほどには、僕は信用されているらしい。


「問題ありません。どこの誰のともわからない噂ですからね。長続きしませんでした」

「そのようだな。……で、どいつの仕業だ?」

「さあ? もう噂はきれいさっぱり消えましたし、実害もないに等しかったので。今さら誰が流したかは気にしませんよ」


 僕がそう答えれば、浅羽先生は「そうか」と言っただけだった。


 おそらく彼はある程度わかっている。噂の出どころを突き止めるには至っていないにしても、僕が犯人を把握していることくらいは察しているにちがいない。それでも僕が流そうとすれば追及しないのが浅羽清十郎という先生だ。


 職員室が見えてきた。


「今日も図書室を開けるのか?」

「それが僕の役目ですから」


 使命感なんてご立派なものではないが、すっかり染みついている。


「それにテストが近づいてきて、図書室で勉強する生徒も増えてきましたので」

「お前もだろうが」


 間髪を容れず浅羽先生が言う。


「人のために図書室を開けて、その分お前の勉強時間が削られてたら意味がない。いつでも休室にしていいからな」

「わかりました」


 そう返事をしたところで、ちょうど職員室の前だった。


「鍵は俺が取ってきてやるよ。そこで待ってろ」


 そうして浅羽先生は中へ入っていった。




          §§§




 浅羽先生から受け取った鍵で図書室を開ける。


 カウンターの中で端末やプリンタの電源を入れたりして、図書委員としての業務ができるよう準備をしていると、さっそくバラバラと生徒がやってくる。


 ひとりの女の子が図書室に入ってきた。最近ここに通うようになった二年の女子生徒だ。彼女は真っ直ぐカウンターに向かってくる。手には一冊の図書。


「これ、返却ね」

「そこに置いといて」


 まだ端末が起ち上がっていない。後で処理することにしよう。


「期限は過ぎてない?」

「え? あー、うん。大丈夫、かな?」


 準備をしながらなにげなく聞いただけだったのだが、彼女からは曖昧な答えが返ってきた。後には乾いた笑いが続く。


「本当に?」


 僕は顔を上げて再度聞いた。


「……ごめん。昨日」

「返却処理したらわかることなんだから、すぐばれる嘘を吐くんじゃない。次から気をつけて」

「はーい」


 そうして彼女は閲覧席のほうへ向かっていく。席を取るのかと思いきや、蔵書検索用の端末の前に立った。


「これ使いたいんだけど、つけていい?」

「いいよ。悪いね、まだで」


 本当であれば完全に準備が整ってから開室するべきなのだろうが、これが代々引き継がれてきたやり方だ。これも開室時間が明確に示されていないせいなのだが、設定したらしたで時間に追われそうな気がする。ひとりだけの委員会としては、これくらい緩いほうがいいのかもしれない。


 そんなスタートを経て、常連の生徒のほか、テストに向けて勉強をしにきた生徒を加えて、図書室内の時間はゆっくりと流れていった。


 僕もカウンターの中で軽く勉強をする。


 先日もっと本格的に勉強をしてみたところ、思いのほか周りに気を配る余裕がなくなり、瀧浪先輩の接近に気がつかなかった。それと同じ轍を踏まないよう、すでに覚えていることの確認程度にとどめる。


 そのおかげか、カウンターにやってくる人影に気がついた。


 気配を感じて顔を上げればそこには、冷たいほどに怜悧な相貌で、我が校が誇る美少女の双璧に勝るとも劣らない美貌の最上級生の姿があった。


 壬生奏多である。


「静流、貸出よ」


 一冊の図書を差し出し、短くそう要求してきた。

 彼女とは同じ中学の出身で、そのときからの仲なので僕のことを名前で呼ぶ。


「奏多先輩も勉強ですか?」


 もちろん、僕も同じ。名前で呼んでいる。


「それとも――」

「いつも通りよ。いつだって私のやることは同じ」

「いや、変えましょうよ。テストが近いんですから」


 僕は思わず苦笑する。


 尤も、このあまりにも超然としていて陰で女帝と呼ばれている奏多先輩が、テスト如きでルーティーンを変えるとも思えないが。行動変容とは対極にある人なのだ。


 僕は受け取った図書とライブラリーカードで貸出処理をしていく。


 と、そのときだった。かすかに息を呑む音が聞こえた。


 何だろうと図書室の出入り口へ目を向ければ、ひとりの女子生徒の姿があった。


 手間と時間をかけてセットしたであろう長い黒髪に、大人っぽい落ち着いた雰囲気と美貌。お淑やかを絵に描いたような女の子だ。


 瀧浪泪華。


 僕の異母姉と並び、我が茜台高校が誇る美少女の双璧のひとりである。


「ああ、瀧浪先輩、こんにちは」


 僕が声をかけると、なぜか固まっていた瀧浪先輩ははっと我に返った。


「こんにちは、ふたりとも」


 すぐに笑顔で挨拶を返してくる。


「今日は何の話?」

「いや、別にたいした――」


 僕が言いかけたとき、奏多先輩も同時に口を開いていた。


「少し用があって静流をつき合わせようと思ったのだけど、断られたわ。今日は瀧浪と帰るそうよ」

「え?」


 僕は思わず声を上げる。そんな話、欠片もしていない。


「あら、そうなの? 嬉しい」

「え、いや……」


 僕は瀧浪先輩と、やってきた彼女と入れちがいにカウンターから離れていく奏多先輩の背中とを交互に見る。


「ああ、うん、そうなんだ」


 まぁ、別にいいか。


「ふうん、そう。静流も少しは自覚が出てきた?」


 瀧浪先輩が意味深に問う。


「何のだよ」

「言ったほうがいい?」

「……」


 瀧浪先輩は常々僕に対して過剰とも言える愛情を表現していた。対する僕もずっと彼女に好意をもっていて、先日ついにそれを口にした。


 互いの想いの確認。

 それを経て変わった関係。


 そして、自覚。


 僕は返答に窮し、黙った。

 瀧浪先輩も特に何も言わないが、いつぞやみたいに幸せそうに微笑んでいる。


「ねぇ、静流?」


 彼女が僕を呼ぶ。

 名前を呼び捨てで、しかも、いつも優等生然とした瀧浪泪華とは思えないような砕けた調子。


 これが本当の彼女。


 僕とふたりだけのとき、或いは、周りにかぎられた面々しかいないときにだけ、彼女は素の顔を見せるのだが――、


「まだ開室時間中ですよ、瀧浪先輩」

「あ、ごめんなさい。つい……」


 今はそのときではない。僕が窘めるように言えば、彼女は慌てて掌で口を覆った。


 そして、コホンと小さく咳払い。


「もうすぐ夏休みだけど、真壁くんは誰かと遊びに出かけたりするの?」


 そうしてから清楚でお淑やかな最上級生のように言い直し、聞いてきた。


「誰かと予定さえ決まれば、ですね」

「そう。じゃあ、テストが終わったらちゃんと決めないといけないわね」


 と、その誰かは言う。


 瀧浪先輩がくすりと笑った。


「何か?」


 なんとなく僕の遠回しな言い方を笑ったのではない気がして、僕は首を傾げる。


「無下にされないのも慣れてきたと思ったの」

「うるさいな」


 少なくとも人前で冷たくした覚えはない。一方、ふたりだけのときは……まぁ、下級生としてあまり褒められた態度ではないことは確かだな。というのも、瀧浪先輩は隙あらば色仕掛けで迫ってくるので、こちらとしても身がまえてしまうのだ。


 と、そこで瀧浪先輩はカウンターに身を乗り出すようにして顔を寄せてきた。


「静流は海とプール、どっちがいい? 大胆な水着を用意してあるんだけど」


 油断していると、すぐにこういうことを言う。


「僕は山が好きでね」

「もぅ」


 瀧浪先輩は不満げに頬をふくらませる。


 そこでチャイムが鳴った。

 午後六時五分前の予鈴。いつも通り閲覧席にいた生徒たちが、もうこんな時間かと言いたげに手を止め、勉強道具をまとめはじめた。僕も閉室に向けて作業をはじめる。


「何か手伝う?」


 と、瀧浪先輩。


 この後一緒に帰ることになっているので、少しでも早く閉められるようにと考えてのことだろう。


「いいよ。これは僕の仕事だ」

「静流はいつも手伝わせてくれないわ」


 再び不満をもらす瀧浪先輩。


「もともとひとりでできる範囲の業務しかやってないんだ。これで人に手伝ってもらってたら恰好がつかないよ」


 本当は進学校の図書室としてもっといろんなことをすべきなのだろうと思う。昼休みにも開けたり、生徒目線でニーズに合わせた収書をしたり。だけど、図書委員は僕ひとりしかいないので満足に運営できていないのが現状だ。


「大丈夫。手伝ってほしいときは言うよ。……できるだけ早くすませるから、外で待っててくれ」

「わかったわ」


 瀧浪先輩はそう言って微笑むと、図書室の外へと出ていった。


 彼女だけではない。荷物をまとめ終えた生徒から順に帰っていく。閉室間際の駆け込みで図書の貸出にくる生徒に対応しつつ作業をしていると、気がつけばもう残っているのは奏多先輩だけとなっていた。


 僕は彼女に近寄っていく。


「奏多先輩、さっきのはいったい何です?」


 無論、勝手に瀧浪先輩と一緒に帰ると決めてしまったことだ。


「気を利かせただけよ。そういうのが苦手なお前の代わりにね」


 奏多先輩はしれっとそんなことを言う。


「まぁ、苦手なのは否定はしませんけどね」


 僕と瀧浪先輩は互いの気持ちを確かめ合った。いわゆる両想いというやつだ。だけど、これからどんなことをすればいいのか、よくわかっていないのが本当のところだったりする。


「にしても、奏多先輩が気を利かせるとか、そんな気持ちあったんですね」

「お前よりはね」


 僕が勝手なことをされた腹いせとばかりに皮肉を言えば、奏多先輩はあっさりそう返してきた。


「瀧浪が外で待ってるの?」


 さらに続ける。


「そりゃあ誰かさんのせいでそういう流れになりましたからね」

「なら、長話はやめておくわ」


 そうして奏多先輩は制鞄を抱え、立ち上がった。そのまま僕に挨拶もなく出入り口へと向かう。


「お気をつけて」


 僕は彼女の背中に声をかけるが、返事などあろうはずもなく。


 奏多先輩が図書室を出ていき、扉が閉まる。


「さて、と――」


 僕は意識的にそう発音した。


 閉室作業を再開して一分ほどがたったころ、午後六時の本鈴が鳴った。確かに今日の奏多先輩は少しだけ図書室を出るのが早かったようだ。

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