第4話(3)

 瀧浪先輩が中にいるというのに同じ場所に戻るのも間抜けな話で、このまま帰ってしまいたいと思ったが、僕には図書委員という役割があり、責任があった。日々の仕事をまっとうせねばならない。


 図書室の中に戻り、カウンターに座る。


 と、それを待っていたように奏多先輩がやってきた。


「静流、探している雑誌がないわ」


 いきなり用件を切り出してくる。……よけいなことを考える暇がなくて、少しありがたかった。


「念のため、一度こっちでも検索してみます。何て雑誌ですか?」

「『茶道さどう』よ」


 言われた通りに打鍵し、検索してみる。結果をさらに雑誌で絞り込めば、タイトルにその文字列を含む雑誌はひとつしかなかった。これだろう。


 僕は書誌を表示させ、書誌事項を確認していく。――僕が入学するよりも前に受け入れをやめているが、ちゃんと所蔵はしている。配架場所も雑誌のバックナンバーの書架で間違いないようだ。雑誌タイトルの変更もなし。そうやってひとつひとつ確認していき、念のため誌名を確認したことでようやくわかった。


「奏多先輩、どこを探しました?」

「バックナンバーの書架。サ行のところよ」

「よく見たらこのタイトル、読みは『ちゃどう』ですね。タ行で探せば見つかると思います」


 僕もテレビで聞いたことがあるような気がする。茶道の家元が『ちゃどう』と発音しているのを。どうやら茶道の専門雑誌であるこれも、誌名は『ちゃどう』のようだ。


「探してみるわ」


 彼女は礼も言わず、雑誌のバックナンバーが配架されている書架に向かって歩き出した。歴史が専門の奏多先輩にしては珍しい見落としだな。案外僕に言われて、ああそうだったと思い出したかもしれない。


 程なくして、奏多先輩が戻ってきた。手には一冊の雑誌。わざわざ見せにきてくれる。


「あったわ」

「それは重畳」


 役に立てたことに小さな喜びを感じつつ、僕はうなずく。


「瀧浪がいないわね」

「うん?」


 奏多先輩の言葉に促されるようにして閲覧席を見てみれば、確かに瀧浪先輩の姿がなかった。テキスト類はそのままなので、どこかで参考になりそうな本を探しているか、もしかしたら何かの用で図書室の外に出たのかもしれない。


「お前、さっき瀧浪と一度出ていったわね。何を話したの?」


 主のいなくなった席をじっと見つめていると、奏多先輩がそう問うてきた。


「別に。たいした話じゃありませんよ」

「だいたい予想はつく」


 だろうな。だったら、なぜ聞いたのか。


「『同じことを繰り返して違う結果を期待するのは狂気の沙汰である』」


 唐突に奏多先輩がそんな言葉を口にした。


「確かアインシュタインでしたっけ?」

「そう思われがちだけど、実際は言っていないという話が浸透してきたわね」


 つまりアインシュタインではないらしい。


「で、その心は?」

「無駄なことを何度繰り返しても無駄は無駄。早く気づくにこしたことはないわ」


 奏多先輩はまるで僕を褒めるように言う。


「僕としては、実験を繰り返して望む結果が得られないのは再現性がないということで、別のアプローチを考えろ、という意味だと思っていました。……ただし、それは物理学者アインシュタインの言葉であるという前提での話です」


 物理学ならひとつの事象から得られる結論はひとつだ。間違った仮定で実験を繰り返したところで、望む結果を得られるはずがない。


「どこの誰が言った言葉か知りませんが、今の僕には諦めず挑み続けることの否定のように聞こえます」

「それで?」


 奏多先輩は問う。

 お前はどうしたいのだ、と。


 そんなことわざわざ聞かれるまでもなく、最初から決まっている。


「すみません、奏多先輩。カウンターを見ててくれませんか? 少し離れます」


 そう言って僕はカウンターを出る。


 もともと諦める気などなかった。ならば、二の矢は早いほうがいい。


「お前、なかなかいい度胸ね」

「何度も無人にするのは気が引けるんで。座ってるだけでいいです。どうせ誰もきませんよ」


 そもそも今日は利用者が少ない。それにカウンターにいるのが奏多先輩だとわかったら、みんな引き返していくにちがいない。


「ていうか、けしかけた責任くらいとってくださいよ」


 僕はカウンターを奏多先輩に任せ――向かったのは書架の奥だった。


 最奥からひとつ手前の列に入る。そこは英米文学のコーナーで、『ハリー・ポッター』の原著版もあった。


 そこで僕はおもむろに口を開く。




「ひとつ聞いてほしいことがある」

「ッ!?」




 書架をはさんだ最奥の列からかすかに息を呑む気配があった。


 そう。瀧浪泪華はこの向こうにいる。


 前に彼女は、書架の最奥は考えごとをしたいときやひとりになりたいときに最適だと言っていた。だからここにきていたのだ。


「僕には致命的に欠落しているものがあるんだ」

「……欠落って?」


 瀧浪先輩の声が聞こえた。


 僕たちはお互いの姿が見えないまま会話を続ける。


「僕はその時どきで自分がどう振る舞えばいいか、どんな表情を浮かべればいいかわかる。でも、それに長けすぎたせいで自分の感情が作りものなんじゃないかと、どうしても疑ってしまうんだ」


 このことを瀧浪先輩に話すのはこれが初めてか。


「要するに、自分の気持ちに自信がもてない」

「静流がよく言っていた恋愛に向いていないってそういうこと?」

「そう。笑えると思わないか? 自分すら含めて状況を客観的に見ているくせに、その中心にある自分の気持ちはまったくわかっていないんだからね」


 思わず自嘲。


「僕は瀧浪先輩が好きだ。自分の感情が本物かどうか疑ってしまうときもある。でも、どんなに考えてもその想いは確かに僕の中にあって、消えたことはない。この想いで瀧浪先輩に向き合いたいと思ってる」


 これが今の僕にとっての精いっぱいの誠実さ。


 でも、瀧浪先輩に通用するとはかぎらない。何せ、心からそう思っているかわからないけど好きだ、と言っているに等しい。これほど不誠実な話もない。しかも、つい十数分前、彼女は僕を拒絶している。それを簡単に翻すだろうか。


 でも、返ってきたのは答えではなかった。


「わたしにも少なからずあるわ」


 瀧浪先輩は静かに言葉を紡ぐ。


「言ったでしょ? 自分が『空っぽ』かもしれないと思うときがあるって」

「ああ」


 彼女は周りが自分に求めているものを敏感に感じ取り、その期待に応えて今の『瀧浪泪華』になった。だけど、そのせいで彼女は自分には主体性がなく、『空っぽ』なのではないかという思いに駆られるようになる。


 瀧浪先輩は初めて会った日、僕に問いを投げた。


『あなた、ちゃんと「自分」はある?』


 と――。


 僕たちは似ているのだ。


 己と、その周囲を俯瞰し――その上で正しい自分の立ち回り方を弾き出す。瀧浪先輩は長期的で、僕は短期的。それだけのちがい。


 だからこそ、瀧浪先輩は僕を『同類』だと言っているのだ。


「でも、わたしには静流がいるわ。同じ目をもっていて、同じモノを見ている静流のそばでなら、わたしは周りの期待に応えなくていい。わたしは『空っぽ』じゃない、ちゃんと『自分』があると思えるの」


 そう。だから、瀧浪先輩は僕の前では素の彼女でいる。僕でいいのだろうかと思う一方、僕はそのことに少しだけ優越感を覚えている。


「ねぇ、静流?」


 僕の名を呼ぶその声は書架の向こうからではなく、横から聞こえた。そちらに体を向ける。


 と、そこに瀧浪泪華が立っていた。



「わたしに静流がいるように、静流にはわたしがいる――そう思わない?」




「え……」


 言葉がすんなりと頭に入ってこなくて、僕は問い返す。


「だって、わたしとふたりっきりのときは、静流、敬語は使わないし、愛想もないじゃない? でも、それが素の静流で、そこには嘘がないってことだと思うの」


 確かに僕は彼女の前でだけそういう態度をとっている。


 瀧浪先輩は、僕が状況に合わせてうまく表情を作ったり、言葉を選んだりしていることを見抜いた。見抜いた彼女の前で、そんなことをやり続けることは逆に無防備な自分を晒すことになると思ったからだ。


「……かもしれない」


 僕と瀧浪先輩は似ている。彼女の言葉を借りれば、『同類』だ。だとすれば、瀧浪先輩の『自分』が僕のそばにあるように、僕が己の感情を疑わなくていい僕の『自分』も瀧浪先輩のそばにあるのかもしれない。


「だからね、確かめてみればいいと思うの。その、今まで通り一緒にいて、ね」


 瀧浪先輩は妙に歯切れ悪く、そう提案する。


「まぁ、それがいいのかな」

「ほ、ほんとに……?」


 なぜか目をぱちくりさせる彼女。


「何だよ。言い出したのはそっちだろ」

「だ、だって、ついさっきわたし、静流のこと……」

「ああ」


 ようやく瀧浪先輩が何を気にしているのかがわかった。彼女は一度僕を拒絶した。にも拘らず、それをなかったことにしようとしている。そこに自分でも引っかかっているのだ。


「いいよ。僕も同じことをしてる」


 そもそもそんな虫のいいことをやろうとしたのは僕が先なのだから。彼女がそう言ってくれるなら願ったり叶ったりだ。


「よかった。これでもと通りね」


 瀧浪先輩は花のように笑う。


 何となくその笑顔が眩しくて、僕は視線を逸らした。或いは、この場から逃げたかったのかもしれない。


「先に戻るよ」

「待って、静流」


 瀧浪先輩の横を抜けてカウンターに戻ろうとした僕を、彼女が呼び止める。


「あ、あのね、静流――」


 なぜか急に発音が不明瞭になった。




「わたしのことが好きって、本当……?」




「……」


 顔を赤くしながら自信なさそうに聞いてくる彼女に、僕は思わず無言になる。


「言ったかな、そんなこと……」

「い、言ったわ。さっき、確かに言った」


 どうにか誤魔化そうとしたが、瀧浪先輩は喰い下がってきた。


 僕は心の中だけで天を仰ぐ。


 確かに言ったな。顔を見て話していないから油断したのかもしれない。だからこそそこに触れられないよう、早く瀧浪先輩の前から立ち去りたかったのだ。


「さっきも言った通り、本物かどうか怪しいけどね」

「でも、確かにある?」

「まぁね」


 彼女を想う気持ちはあると豪語したのは僕だ。だけど、それを他人から確認されるのは気恥ずかしい。それが本人からなら尚更だ。


 そんな曖昧な返事でも満足したのか、瀧浪先輩はまた笑みを見せる。


「……戻る」


 奏多先輩に留守をお願いしているのだ。いいかげん戻らないと。


「静流」

「まだ何か?」




「せっかくだからキスしていかない? 前も言ったでしょ。学校の図書室で隠れてキスをするのが憧れなの」




「いかない」


 僕は彼女へのせめてもの抵抗のつもりで、はっきりとそう言い放った。

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