第4話(2)

 放課後の図書室。


 空を覆っていた不穏な雲は、午後にはしっかりと雨を降らせていた。いつゲリラ豪雨やゲリラ雷雨になるかわからない昨今の気候、少ない常連の生徒の何人かは授業が終わると真っ直ぐ家に帰ったようだ。当然いつそうなるかわからない以上、早く学校を出るのが吉と出るか凶と出るかは神のみぞ知ること。ひとつわかっているのは、今日はいつも以上に利用者が少ないということだ。


 そんな図書室のカウンターに座りながら僕は、今日は瀧浪先輩はくるだろうか、と考えていた。


 こないかもしれない。いや、きっとこないだろう。何せ僕は最後通牒のようなお誘いを突っ撥ねてしまっている。あれで決定的に決裂したはずだ。彼女がここにくる理由はもうない。


 こんなことなら自分から捕まえにいけばよかった、と己の責任感を恨めしく思う。どうせ利用者は少ないのだから、今日くらい開けなくても問題はなかっただろう。


 時間が過ぎていく。


 外では相変わらず強い雨が降っていた。きっと瀧浪先輩も早々に家に帰ったのだろう。うまく雨脚の弱いときに帰れていればいいが。


 そうして閉室三十分ほど前。


 こんな日のこんな時間に、誰かがやってきた。今さら生徒ではないだろう。調べものをしにきた先生だろうか。そう思い、人の気配に顔を上げれば、それは瀧浪泪華だった。


「……」

「……」


 見つめ合い、無言。


 僕はまさか瀧浪先輩が姿を現すとは思っていなくて言葉を失くしたのだが、果たして彼女は何を思っての沈黙だったのだろうか。


 先に視線を外したのは瀧浪先輩のほうだった。


 カウンターの前を通り過ぎ、閲覧席のひとつに腰を下ろす。まるで僕の存在を無視するかのような態度だった。


 あと十日もすれば期末テストだからだろう。隣の席のイスの上に置いた制鞄からテキストやノート、筆記用具を取り出す。勉強をするようだ。


 僕は『只今席を外しています。すぐに戻ります』の札をカウンターに出すと、意を決して立ち上がった。瀧浪先輩のもとへ行く。


「……少し話せるだろうか?」


 そう声をかけた。


 しかし、彼女はすぐ横に立つ僕にはかまわず、前回の続きを探すようにテキストをパラパラとめくっている。無視を決め込むつもりだろうか。


 やがて瀧浪先輩は目的のページを見つけると、開いたままのテキストを置いた。


「二、三問解いてから帰ろうと思ってたの。すぐにすむ?」


 顔を上げ、僕を見上げながら問う。


「たぶんすまない」

「そう。なら聞くわ。外に出ましょ」


 瀧浪先輩はすっと立ち上がった。そのまま図書室の出入り口へと向かう。僕も後をついていった。


 場所を移した先は、図書室を出てすぐの廊下。入り口の扉を開け放っておけばここからでもカウンターが見えて、誰かきたとしてもすぐにわかる。


 図書室前の廊下で、僕は瀧浪先輩と向かい合った。


 当然、彼女の顔に笑みはない。が、反対に怒っているわけでもなく、僕が何を言い出すのかと待ちかまえているかのようだった。


 さて、どう話そう? 僕はこれから実にみっともないことを言うつもりだ。せめて最初くらいうまく切り出したいものだ。


 そうやって話があると言ってつれ出したわりには僕が何も話さないからか、瀧浪先輩がため息をひとつ吐いた。


「わたし――」


 そう話しはじめた彼女の表情と口調は、実に淡々としたものだった。


「静流が急に他人行儀になったのは、電車でのわたしの悪ふざけが原因だと思ってた。でも、本当はあの噂のことね?」

「まぁ、そうなるかな」


 僕はそう答える。


 彼女が言った通り、それも理由のひとつだろう。さほど支配的ではないが。


「あんなのくだらない噂。本当じゃないわ。それは静流自身がいちばんよく知ってるはずよ」

「噂に本当も嘘も関係ない。『面白ければ何でもいい』、それが噂の本質だからね。真実や正確性は二の次だ」


 噂というシステムを支えているのは、誇張してでも面白い話をして耳目を集めたいものと、真実じゃなくてもいいから面白い話を聞きたいもの――その二者の関係だ。


「その点、僕がストーカーのほうが話は断然面白い」

「滅茶苦茶ね」


 瀧浪先輩は鼻で笑う。


「そう、滅茶苦茶で無責任だ。でも、瀧浪先輩だって噂話に花を咲かせたことくらいあるだろう?」

「……そうね」


 彼女にも心当たりがあったようで、言葉短く肯定した。


 もちろん、僕にもある。刈部や辺志切さんと弁当を食べながら、小耳にはさんだ噂について話した。少し記憶を手繰っただけでもふたつみっつ思い出すし、きっと思い出せないものもあるだろう。本当かどうかもわからない話を口にし、そのことすら覚えていない。無責任にもほどがある。でも、ちょっとした話の隙間を埋めるには最適なのだ、噂というものは。


「だから、わたしから離れるというのね?」

「僕では役者が足りないと思ったんだ。瀧浪泪華というブランドのイメージが悪くなる」


 ストーカーが真実であれ嘘であれ、瀧浪泪華がそんな男子生徒と仲よく話をしたり、学食で一緒に食事をしている姿をよしとしない生徒は多いだろう。今までもそんな場面を衆目に晒してしまっているが、よくない噂が出た今が潮時だと思った。


 瀧浪泪華は美しく聡明で、お淑やか。誰にでも平等に優しく、でも、下級生から見れば少しだけ話しかけにくい存在。そうあってほしいし、そうあるべきだ。僕のような普通の男子生徒が、彼女から特別扱いを受けるなどあってはならない。




 僕はそう思う。


 思っていた。




「でも、それは間違いだった」




 そう。また間違い。


 直井恭兵に嘘を吐いてはいけなかったように、ここでもまた嘘を吐いてはいけなかったのだ。


 自分に。

 瀧浪先輩に。


 僕は瀧浪泪華に好意をもっている。そこは間違いない。ならば、それでいいではないか。確かにこの気持ちが本物か作りものかという問題はある。だけど、それを考えるあまり、自分の気持ちに目を瞑り、棚上げにするのは自分に嘘を吐いていることにならないだろうか。そして、そのまま瀧浪先輩への態度を決めることは、ひいては彼女に嘘を吐いていることになるのではないか。


 僕が何度か瀧浪先輩を突き放したとき、必ず罪悪感に襲われた。


 今ならわかる。あの胸の痛みこそが蓮見先輩の言う、自分に嘘を吐くことの辛さだったのだ。


「間違いだった?」


 瀧浪先輩がそう問い返してくる。


「ああ、間違いだった。確かに僕は理想の瀧浪泪華であってほしいと思った。でも、僕は、僕だけはその理想を押しつけるべきではなかったんだ」


 自分でもいつか言ったはずなのだ。彼女の本当の顔を知ることができてよかった、と。なぜ僕はその気持ちを貫き通さなかったのか。


 直井恭兵も言っていた。周りが言うことなど雑音だ。いや、それどころか自分で思ったことすら雑音になり得る。雑音を切り捨て、最後は自分で決めろ、と。




「ここ何日かの態度は謝る。だから――」

「勝手ね」




 瀧浪先輩は僕に最後まで言わせなかった。


 たったひと言で一蹴される。


「一方的に離れていこうとして、それが間違いだと気づいたから今度はやり直したい。一から十まで勝手ね。そう思わない?」

「……思う」


 もちろん思うさ。これほど勝手な男もいない。


「だったら、答えはわかるわよね? もうこれ以上わたしの気持ちを乱さないで。わたしを怒らせないで」


 瀧浪先輩は冷ややかに言い放つと、踵を返して図書室の中に戻っていく。


 僕だけがひとり廊下に残された。


 彼女が怒るのも当然だ。謝るからなかったことにしてくれなど虫がよすぎるというもの。きっと瀧浪先輩の心はとっくに決まっていて、今日はそれを告げにきたのだろう。


 どうやら遅きに失したようだ。

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