第3話(1)

 翌日。

 映画鑑賞の日。


 小中学生の遠足ではないので、当然現地集合。場所と時間は、午前九時に三宮の映画館だ。


 蓮見邸は学校に近い分、三宮へは遠い。それでも集合時間が学校の始業よりも遅いので、普段に比べていくらかゆっくりできた。


 八時少し前には出かける準備ができ、部屋からリビングへ下りていく。


 そんな僕よりさらに早いのが蓮見先輩だ。彼女はいつものように本を読んでいた。今さらながら、この人は意外と読書家なのかもしれない。今度、機会があったら士総一郎を薦めてみよう。


「早いですね」

「今日はお弁当がないからね。その分よ」


 蓮見先輩は本を閉じながら答える。


「え? でも、おじさんは……?」


 昨夜は当直もなく、蓮見氏は普通に帰宅した。今朝も一緒に朝食を食べ、少し前に出ていった。僕たちには弁当はいらないが、おじさんは必要なはずだ。


「自分の分だけ作らせるのは悪いから、今日はいらないって。病院の食堂で食べるそうよ。お弁当なんてひとつ作るのもみっつ作るのも、たいして変わらないのにね」


 そう言って蓮見先輩は苦笑するが、そこに嘲笑するような響きはない。気を遣われたことが嬉しかったのだろう。


 確かに一と三はあまり変わらないだろうが、零と一の差は大きい。その数字の通り、やるかやらないかのちがいになるのだから。


 僕は改めて蓮見先輩の服装を見た。

 今日はゆったりとしたシルエットのフード付きパーカーに、デニムのロングパンツというファッションで出るようだ。ほっと胸を撫で下ろす。


「ぁによ、その反応」


 と、蓮見先輩。顔を歪めていうものだから、最初の音が変な発音になっている。……鋭いな。顔や態度に出していないつもりだったのに。


「い、いえ、別に……」

「静流がそう言うときは絶対ろくなこと考えてない。……言ってみなさい」

「ろくなこと考えてないとわかってるのに、それを聞こうとしますか」

「つべこべ言わない」


 有無を言わさない口調の蓮見先輩。


 僕は慎重に言葉をチョイスしてから口を開いた。


「あ、いや、男どもが喜びそうな服でなくてよかったな、と」

「何それ?」


 その結果、妙に迂遠な表現になってしまい、蓮見先輩が聞き返してくる。


「蓮見先輩はスタイルがいいのであまり体のラインがわかる服を着ると、男どもが大喜びしますから」

「ああ、そういうことね。でも、それを言ったら、あんただって大喜びする男どものひとりじゃない?」

「まぁ、そこは否定しませんけどね」


 頭に『大』がつくほどじゃないにしても。


「ただ、ほかの男が喜ぶのは癪です」

「あんた、本当に変なところで正直よね」


 蓮見先輩はけらけらと笑う。


「あたしは常々正直ものがバカを見る社会はよくないと思ってるのよね」


 そして、なぜか社会学者のようなことを言い出す。


「それは同感ですね」


 正直に生きるものが損をして、そうでないものが得をするようなことはあってはならないことだ。


「正直な人間には見返りがあるべき。あたし、この下はわりとぴったりしたタンクトップなんだけど……見たい?」


 唐突に、蓮見先輩はパーカーの胸もとを指でつまみながらそんなことを言う。


 その言い方はどこか挑発的で挑戦的だった。


「いいんですか?」


 僕も負けじと、彼女に真っ直ぐ視線を返しながら答える。


「……」

「……」


 僕と蓮見先輩は睨み合う。


 やがて、


「ごめん。むり」

「すみません。やっぱり遠慮しておきます」


 僕たちは降参したように、同時にそう口にしていた。


「いや、普段も部屋着にしてるから平気なはずなんだけど、自分から見せるのは抵抗があるわ」

「僕も堂々と見るほど神経太くないので」


 どうやらこの勝負、引き分けのようだ。


「図らずも瀧浪さんみたいになったけど、よくこんなことできるわね」


 呆れたように蓮見先輩は言う。


「ほら、バカなことやってないで早く行きなさい」

「自分もやってたくせに、人のこと言えた義理ですか」


 追い払うような蓮見先輩の言葉に急き立てられ、僕は踵を返そうとした。


「あ、そうだ、静流」


 その僕を蓮見先輩は呼び止める。


「帰りさ、瀧浪さんとデートでもしてきたら?」

「いえ、やめておきます」

「そ、そう……?」


 欠片も考えることなく出てきた僕の言葉に、蓮見先輩は目をぱちくりさせたのだった。




          §§§



 三宮の映画館に行くと、ロビーどころか表まで茜台高校の生徒で溢れ返っていた。

 当然だ。全校生徒が集まっているのだから。


 これだけの生徒が同じ場所で観られるはずがなく、ここからいくつかのスクリーンに分かれることになる。僕はクラスに割り振られたスクリーンのある階へと移動した。


 そこで刈部景光、辺志切桜を見つけ、合流する。


 本日の映画は、学校の授業の一環として観るものなので、当然流行のものではない。


『おろしや国酔夢譚』。


 大黒屋光太夫ら十七人を乗せた船『神昌丸』がロシアに漂着し、厳しい寒さに仲間を失いながらも帰国の道を模索するという内容だ。もう四半世紀以上前に制作されたもののようだ。


「わたし、もう小説で読んでるから、映画で観ても面白くないかも。原作にはあったエピソードがカットされてるって聞いたし」


 辺志切さんは苦笑する。


「あ、原作があるんだ」

「うん、ある。井上靖の。確かうちの図書室にも置いてたはず」

「それはいいことを聞いた。最悪、小説を読んで感想を書けばいいか」


 当たり前だけど、観て終わりではない。感想を書かされるのだ。


「映画よりも小説のほうが内容を把握するのに時間がかかるだろうに、わざわざ面倒なほうを選ぶとはな」

「確かにね」


 だから、最悪の場合だ。内容がわからなくなるほど寝てしまわないかぎり、小説で補完なんて事態にはならないだろう。


『きてる生徒は各担任のところに行って、名前を言ってから中に入るように』


 不意に拡声器を通した先生の声が聞こえてきた。外やロビーでも同じようなアナウンスがされていることだろう。


 僕は辺りを見回す。……いた。浅羽先生だ。


「僕が行ってこよう」


 刈部と辺志切さんにそう言い、僕は人の海の中を浅羽先生に向かって泳ぎ出した。


「浅羽先生、真壁きてます。あと、刈部と辺志切さんも」

「真壁か。悪いんだが、出席確認は顔を見てからと言われてるんだ。刈部と辺志切にもこっちにくるように言ってくれないか」


 浅羽先生は面倒くさそうに告げる。


「わかりました」


 要するに、友達に出席の申告をさせて、実はきていないという状況を避けるためなのだろう。


 そんなこんなで十時から映画鑑賞ははじまり――何ごともなく終わった。

 生徒は正午過ぎには解放されたのだった。

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