第2話(2)

 放課後の図書室。

 いつもより心持ち早い時間に瀧浪泪華は現れた。


「こんにちは、真壁くん」

「こんにちは」


 いつものように挨拶。


 だけど、そこから続かなかった。瀧浪先輩は何か言いたそうに、でも、踏ん切りがつかない様子で、カウンターの前に立っている。


「その、今朝のことだけど――」


 やがて意を決し、彼女は口を開いた。


「悪ふざけが過ぎたわ。ごめんなさい。たぶん浮かれてたのね。真壁くんに会えるかもと思って乗った電車で本当に会えたから」


 と、申し訳なさそうに謝る。


「いえ、僕も悪かったです。衝動的にあんな行動に出るほどのことでもなかったのに。すみませんでした」

「ううん。それに鷹匠さんに抱きつかれたのだって真壁くんは悪くないのだし」

「まぁ、あの人はああいう冗談が好きみたいですから」


 困ったものだと、僕は苦笑する。


「でも、瀧浪先輩ともあろうものが、僕に会ったくらいで浮かれるのはどうかと思いますよ」

「そうね」


 そこで瀧浪先輩は少しだけ顔を近づける。そして、そのまま内緒話でもするように小声で続けた。


「周りに人がいるときは気をつけるわ」

「いなくてもですよ。人が見ていないときこそちゃんとする。誰も見ていないときにサボっているのは意外と気づかれる――。亡くなった母がよく言っていました」


 いたずらっぽく言う彼女に、僕はそう返す。つい先日他界した母のことを持ち出しているので、雰囲気が重くならないようにできるだけ軽い調子にした。


「いい言葉だと思うわ」


 瀧浪先輩は顔をもとの位置に戻す。かすかに怪訝そうな表情を浮かべていた。


「そう言えば、明日は映画鑑賞ね」


 そして、一度話題を変える。


「そうでしたね。映画を一本観て終わりなので楽なものです」

「お昼過ぎには解散だから、真壁くん、よかったら一緒に昼食でもどうかしら?」

「せっかくのお誘いですけど、遠慮しておきますよ。学校中の男を敵に回したくありませんので」


 僕はやんわりとお断りする。


 これはポーズでも何でもなくて、半ば以上本気だ。僕と瀧浪先輩が言ったように、明日は映画を一本観て昼過ぎには解散になる。そのまま仲のよい友達同士で昼食を食べ、遊ぶ生徒は多いだろう。どこに茜台高校の生徒がいるかわからない、というか、そこかしこにいるにちがいない。そんな中で堂々と瀧浪泪華と昼食なんか怖ろしくてできやしない。


「わかったわ。でも、まだ時間があるもの。気が変わったらおしえてね」


 優しい上級生らしい微笑みを浮かべる瀧浪先輩。


 程なくしてチャイムが鳴った。残っていた生徒は、もうそんな時間かといった顔で荷物を片づけはじめる。


 そうして奏多先輩以外の生徒が退室した直後、


「ねぇ、静流? 三宮がダメなら、そこからそう離れてないところに穴場があるんだけど、そこならどうかしら?」


 例の如く砕けた話し方に変わる。


「何度聞かれても答えは変わりませんよ。……ほら、瀧浪先輩も帰ってください。もうすぐ閉室ですから」

「待ちなさい、静流」


 間髪容れずだった。


「さっきから気になってるの。その話し方は何?」


 険しい顔で問うてくる。


「何と言われましても、これが目上の人間に対する態度でしょう?」

「ええ、そうね。それが正しいわ。でも、わたしにはちがうはずよ。素っ気なくて失礼な物言いをするのが静流だわ」


 冷静に見て、実にたちの悪い下級生だ。


「その態度をあらためようというわけです」

「やめて。そんなありきたりの愛想笑いをわたしに向けないで。礼儀正しい下級生みたいに話さないで」


 僕と瀧浪先輩は対峙する。


 彼女は僕を睨みつけ、僕はその視線を受け流す。


「ねぇ、静流。何を怒ってるの? 朝のことなら謝ったじゃない。それともやっぱりまだ怒ってるの?」

「怒ってませんよ」


 そもそも最初から怒ってなどいない。


「瀧浪先輩、そろそろ閉室時間です。退室の準備をお願いします」

「ッ!?」


 僕が図書委員として静かに告げると、彼女はかすかに喉を詰まらせた。


 瀧浪先輩は改めて僕をひと睨みすると、足もとに置いてあった制鞄を拾い上げ、図書室を出ていった。その後ろ姿は肩を落とすわけでもなく、怒りに歩調が荒くなるわけでもなく、とても毅然としたものだった。


 少しだけ胸が苦しくなる。


 今朝と同じ、罪悪感だろう。大丈夫だ。いずれ麻痺する。いや、瀧浪先輩に愛想を尽かされるのが先か。


「面白い見世物だったわ」


 僕が瀧浪先輩の姿が消えた出入り口を見つめていると、背後で声が聞こえた。振り返るとテーブルに軽く尻を載せて立つ奏多先輩がいた。


「あの程度で瀧浪が諦めるとは思えないけど」

「……」


 奏多先輩の言う通りだろうな。でも、そうしてもらわないと困る。


「理由は聞かないんですね」

「お前の考えそうなことくらいわかる」


 あっさりそう言われてしまった。……まぁ、我ながら短絡的だとは思うけど。


「お前はそれでいいの?」


 続けて奏多先輩は問う。


「僕がいい悪いじゃなくて、これがいちばんいいんですよ。すべての要素を平等に扱わないと正解は出ない」

「そう? 私からすれば、むしろ逆にお前はいちばん大事な要素から目を背けているように見えるわ。それこそ平等に扱わないと正しい答えは出ないのではなくて?」

「何ですか、その大事な要素って」

「驚いた。それを私に聞くほどお前は愚かだったの?」

「……」


 僕は思わず押し黙る。


「それにお前は勘違いしているわ」


 奇しくもそれは、昼休みに僕が泉川に言ったのと同じ言葉だった。




「なぜ正しい答えを出さないといけないの?」




「は?」


 僕の口から間の抜けた音がもれた。


「正しいか正しくないかなんて、どうでもいいこと。お前がどうしたいかを考え、お前にとっての答えを出しなさい」


 よく見ると奏多先輩はすでに帰る準備を終えていた。


「正しい答えなんて案外簡単に出るものよ。ただ、頭で正しいとわかっていてもそうできなかったり、正しい答えの連続が正しい道とはかぎらないだけ」


 そう言うと奏多先輩は図書室を出ていった。


「含蓄のあるお言葉で……」

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