第2話(1)

 翌日。

 登校のため電車に乗ると、そこに瀧浪泪華がいた。


 彼女は片手で吊り革を持って立ち、もう片方の手ではテキストを持っている。学校の教科書とは異なるサイズなので、市販の問題集か参考書なのだろう。


 真剣に読んでいるので、まだこちらに気がついていない。今のうちに少し離れて背中を向けてしまおう。そう思ったとき、彼女は何かに呼ばれたように顔を上げた。当然、僕の姿を認める。


「あら、おはよう、真壁くん」

「おはようございます」


 離れるタイミングを逃してしまった。


「いたのなら声をかけてくれたらよかったのに」

「勉強中みたいでしたから」

「もう、恥ずかしいわ……」


 瀧浪先輩ははにかむ。


 僕たちはドアの近くで向かい合った。


「いつもこのドアから?」

「いいえ、空いてるところから乗るようにしているので、固定はしていないですね」


 人によっては通勤、通学の際、電車の時間どころか乗るドアまで決まっているらしい。クラスメイトの辺志切桜もそうだと言っていた。いつもとちがうことをするのが不安なのだそうだ。


「そう。いつもこれくらいの電車に乗るって前に真壁くんが言っていたから、試しに少し遅らせてみたのだけど……これも運命かしら」

「そんなことを言っていると、男は勘違いしますよ。……ただの偶然です」


 おそらく彼女の場合、普通の男なら勘違いしそうなことを、僕なら勘違いしないとわかっていて言っているのだろうけど。


 と、そこで電車が少し揺れた。


「あっ」


 よっぽど不安定な姿勢で立っていないかぎり踏ん張れそうな揺れ。にも拘らず、瀧浪先輩は小さな悲鳴とともにバランスを崩し、僕の胸の中にぼすんと収まった。


「っ!?」


 とてもやわらかい感触が僕を満たす。変な意味ではなく、瀧浪泪華という少女自身がやわらかい何かでできているかのようだった。そして、ここまで近づいて初めてわかる上品な香りが鼻をくすぐる。


「……大丈夫ですか?」

「ご、ごめんなさい。わたしったら……」


 実に白々しい。

 しかも、離れるどころかむしろ体を寄せてくる。


「瀧浪先輩」

「いいじゃない。この前は鷹匠さんに後ろから抱きつかれてたくせに」


 僕がその行為を咎めるように瀧浪先輩の名を小声で呼べば、彼女は顔を上げ、至近距離で囁くようにそんなことを言う。


 僕は小さなため息を吐いた。


「真壁くん?」


 さすがにいつまでもくっついているわけにもいかず、瀧浪先輩は体を離す。そして、僕の様子に不審なものを感じたのか、首を傾げた。


 僕は黙る。


 電車が総合運動公園の駅に着き、背後でドアが開いた。


 この駅の乗降客は少ない。一日の平均なら学園都市の半分から三分の一だ。このドアからも誰も乗らなかったし、誰も降りなかった。


 すぐにドアが閉まる旨を告げるアナウンスが流れる。


 そうしてドアが閉まる直前――僕は電車を降りた。


「し……っ」


 瀧浪先輩の声。


 振り返ると閉まったドアの向こうに目を見開く彼女の顔があった。それは電車が進む距離と同じだけ僕から離れていき、やがて見えなくなった。


「こんなものか」


 僕は意識的にそう発音する。


 朝は電車の本数が多い。間隔は短くて三分、長くても六分だ。例の如く遅刻ギリギリで行動しているわけではないので、次にきた電車に乗れば学校には十分に間に合う。いつもより早く歩くだけで遅れは取り戻せるかもしれない。


 問題は瀧浪先輩が学園都市の駅で待っている可能性だ。


 当然、こんなことをしたのだから理由を聞きたいだろうし、その確率は高い。それを思うと憂鬱になり、自己嫌悪に陥る。


 不意にスラックスのポケットに突っ込んだスマートフォンが小さなメロディを鳴らした。チャットアプリの着信だ。


 開けてみる。




『ごめんなさい。冗談が過ぎました。』




 その丁寧なテキストを読み、見つめている間に、さらに二件のメッセージが届いた。




『先に行きます。』

『放課後、改めて謝りにいきます。』




 申し訳なく思う。きっと彼女は自分の悪ふざけで僕が怒って電車を降りたのだと思ったことだろう。僕はただ瀧浪泪華に自分の理想を押しつけているだけだ。そして、これからもそうするつもりだ。


 その罪悪感に、僕は返信を送れないでいた。




          §§§




 放課後になった。


 終礼の後、僕はゆっくり荷物を片づけながら、教室内を見た。


 直井のグループがもう集まっている。だが、今でこそ固まっているが、ここからは別れることになる。


 まず、直井とその相棒を自称する室堂は部活だ。ハンドボール部。コアメンバーのもうひとり、立野というのがいるが、彼は無所属なのでこの後は一年のときに同じクラスだった友人と合流する。そして、泉川はひとりで下校だ。


 直井のグループはリーダーがいればまとまるが、意外と横のつながりは薄い。


 彼らはいくらか言葉を交わした後、それぞれ散っていった。僕は教室を出ていった泉川を追いかける。


「泉川」


 ひとりになったところで呼びかけると、彼はびくっと体を跳ねさせてから振り返った。


「な、なんだよ。俺に何か用かよ……」


 やけにおどおどしているのは周りに仲間がいないからか。それとも何か後ろ暗いところがあるからか。


「聞きたいことがある」

「……」


 いきなり自分個人に話しかけてきた僕を警戒してか、泉川は無言。


「あの噂を流したのは泉川だよな?」

「は、はあ!? な、何の証拠があってそんなこと言うんだよ!?」


 泉川はおそらく僕がこう言ってくることを薄々わかっていたはずだ。身構えていたにも拘らず、図星を突かれて慌てているのだ。ある意味、この反応こそが証拠と言えなくもない。


 彼は大きな声を出したことで近くにいる生徒の視線を集めてしまい、ばつが悪そうに身を小さくした。


「泉川、お前は勘違いしてる」

「勘違い?」

「そう。僕は警察じゃないんだ。確たる証拠はなくても、どうせお前だろで十分なんだよ。そっちだって証拠もない噂話を撒き散らしたんだから、これでおあいこだろ? 後は直井に、泉川をどうにかしてくれと頼むだけだ」

「や、やめろよぉ」


 泉川が悲鳴じみた声を上げる。


 高校生にもなって先生に言いつけるもない。ならば、後は泉川が所属するグループのリーダー、即ち直井に言うしかない。彼は清廉な男だから有耶無耶にせず、泉川に事実を確認するだろう。そして、泉川は先生から指導を受けるよりも、直井に愛想を尽かされることこそを怖れる。


「しょ、証拠ならあるぞ。俺は見たんだからな。この前の日曜、ハーバーランドで真壁が瀧浪さんと一緒にいるところを」

「……」


 どうやら学校での僕と瀧浪先輩の様子だけで、噂を流したわけではないらしい。泉川は見たのだ。日曜日に僕と瀧浪先輩が外で会っている場面を。あの日は蓮見先輩もいたが、ハーバーランドならもう先に帰っている。


 実際のところ、それだけでは僕が瀧浪先輩につきまとっていることにはならないのだが、泉川はあえてそこは意図的に事実を曲げたのだ。


「何なんだよ、お前は。蓮見さんとも瀧浪さんとも仲よくして。それじゃ恭兵君がかわいそうだろ。恭兵君は蓮見さんのことが……」


 さすがに口にすることは憚られたのか、泉川は最後の部分を曖昧にした。


「そういうことか……」


 僕は思わずつぶやいていた。


 泉川はただ楽しい高校生活が送りたくて直井にすり寄ったのではない。そこには直井に憧れる純粋な気持ちもあったのだ。だからこそ彼の蓮見先輩への淡い恋心にも気づき、ここ最近の異変も察したのだろう。


 刈部が推理したように、泉川は直井が僕を気に入ったことで相対的に自分の評価が下がり、グループから弾き出されるかもしれないという恐怖を抱いていた。だけど、それ以上に直井のことを考え、僕を排除しようとしているのだ。だから、僕の悪評を流したのだ。


 僕は少しばかり泉川寿という男のことを見誤っていたのかもしれない。


「なんだよ」

「別に? ただ、泉川は友達思いなんだなと思っただけだよ」

「は、はぁ!?」


 何でお前にそんなことを、とでも言いたげな泉川。


 彼は友達思いだ。だからこそこれだけは言っておかないと。


「だけど、泉川。直井は清廉な男だ。お前のやったことは喜ばない」


 その直後、泉川がぴたりと足を止めた。


 僕も立ち止まって、彼に体を向ける。


「う、うるさいっ。そもそも真壁さえいなかったら――」

「わかってる。だから後は僕に任せろ。直井は僕が何とかする」


 僕も泉川同様、直井をどうにかしたいと思っている。問題は、思うだけでまだ具体案を考えつけないでいることだろう。


 気がつけば階段だった。泉川はここを下り、下校する。僕は下りずに図書室だ。


「じゃあな、泉川。また明日」

「お、おい……」


 僕は泉川の肩を二回叩くと、彼と別れた。


 今のところ、直井の様子がおかしいことに気づいているのは、せいぜい彼のグループのメンバーくらいだろう。だけど、直井は注目される存在だ。このままだと遅かれ早かれクラス内に広がっていくにちがいない。


 そうなる前に何とかしたいところだ。

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