第1話(2)

 いつもより三十分ほど遅く家に帰る。


 幸い、その程度の差で蓮見先輩が怒ることもなければ、遅くなった理由を聞いてくることもなかった。むしろおじさんの帰宅とタイミングが重なったことで、夕食が一回ですんだから助かったと言っていた。


 そうして夕食を終えた、夜――。


「静流」


 部屋で瀧浪先輩の補習授業の復習をしていると、外から声がした。


 ドアを開けると蓮見先輩が立っていた。ワイドパンツにシャツを合わせた、実にひかえめなファッションだ。


「うっかりコーヒーを二杯淹れちゃったからあげるわ」


 確かに彼女の手にはコーヒーの入ったカップが左右にひとつずつ握られていた。にしても、いったいどんなうっかりなのだろう。ひとり沈黙提督ごっこでもやっていたのだろうか。


「ありがとうございます」


 そう言って僕がひとつを受け取ろうとしたとき、蓮見先輩がすっとそれを引いた。僕の手が空振る。


「……なんかあった?」


 彼女は真顔で僕を見つめ、問うた。


 どうやら一杯多く淹れたコーヒーはこのためのものだったようだ。……なかなかどうして鋭い。


「別に、何もありませんよ」

「ほんとね?」


 蓮見先輩は重ねて聞いてくる。


「本当です」


 僕は改めて、はっきりと答える。


 特に何もない。ごくごく当たり前に判断がそこにあっただけだ。


「ならいいわ」


 ようやく蓮見先輩はカップを渡してくれた。


「なんかあったらちゃんとあたしに言いなさいよ」

「あの、蓮見先輩」


 そうして部屋に戻ろうとした彼女を、僕は呼び止める。蓮見先輩は振り返り、表情だけで

「なに?」と聞き返してきた。

「どうして直井に僕たちが姉弟だって言ったんですか?」


 僕は彼女に問う。


「どうして、ねぇ……」


 質問の意味を頭の中で噛み砕くように彼女はつぶやき、一度コーヒーカップを口に運んだ。廊下の壁にもたれる。


「直井君のことは中学のときから知ってるし、あたしを慕ってくれてる。そんな彼には本当のことを言っておきたかったってところかしらね」


 だいたい予想通りか。やはりこの人は嘘を吐けないのだ。


「蓮見先輩は誠実なんですね」

「誠実? まさか。そんな大袈裟なものじゃないわよ」


 とんでもないとばかりに蓮見先輩は笑う。


「嘘ってさ、あんまり吐きたくないじゃない? 一度吐いちゃうと後は『ごめん。あれは嘘でした』って謝るか、死ぬまで抱えておくしかないわけでしょ? あたしにはどっちも辛い」

「……」

「特に自分の気持ちに嘘を吐くのはいや。自分を殺してるみたいだから」


 蓮見先輩のこの考えはごく自然に、言葉を飾ることなく発された本心なのだろう。


 それだけに心を打つ。


 僕もこうあるべきだったのだろう。直井に嘘を吐いてはいけなかった。彼を信じ、直井恭兵とはこういう男であってほしいと願う自分を信じ、本当のことを話すべきだったのだ。


(それにしても、自分を殺してるみたい、か……)


 僕にも彼女の半分でも誠実さを持ち合わせていたらよかったのに。


「蓮見先輩の目には、僕は息苦しそうに見えるんでしょうね」

「んー……」


 蓮見先輩はしばし考え、


「前はね。今はちょっとだけそうでもなくなった」

「今?」

「誰かしらねぇ、人の胸のことを言ったり、水着姿が見たいとか言っちゃったりするのは。誠実って言うか、欲望に忠実? あーあ、エロい弟をもったものだわ」

「う……」


 蓮見先輩にいたぶるように言われ、僕は返す言葉を失くす。いちおうたいていの場合は狙ってやっていることではあるのだが。


「すみません……」

「いいわよ。度が過ぎたら怒るけど、今のところ不快じゃないから。……度が過ぎたら怒るけど」


 大事なことらしく、二度言われた。しかも、二回目はジト目だ。気をつけよう。


「言いたいこと言ってるじゃない。だったら、瀧浪さんにももう少し何か言ったら?」

「え……?」

「好きなんでしょ? 静流が何を抱えて足踏みしてるのか知らないけど、もうちょっと何か言ってあげて、その反応を見てからでもいいんじゃない? 考えるのは」

「……かもしれませんね」


 そう、やはり問題も結論もそこにある。


 だけど、状況は変わりつつあった。


「話を戻しますが――」


 と、僕は切り出す。


「僕たちが姉弟であることはもう言わないほうがいいと思います」

「そりゃあわざわざ言って回るつもりはないわよ? どうしてもお父さんの話にならざるを得ないからね」


 蓮見先輩は苦笑する。


「だからって、そういう話の流れになったときのために嘘を用意しておかなくてもいいと思ってる」

「……」


 それは暗に僕を責めているのだろうか? 家が近いだけと言って誤魔化そうとした僕を。いや、ちがうか。この人はそんな迂遠な物言いはしない。


「なに、静流、もしかしてあたしが姉だと恰好悪いと思ってる?」

「いえ、そういうわけでは……」


 むしろ逆だ。瀧浪先輩は自分に自信をもてと言った。だけど、図書委員の仕事が誰にでもできるわけじゃないと思うのはごく少数だろう。そう思わない多くの生徒にとって、真壁静流は、蓮見紫苑とはまったく釣り合わない不出来な弟となる。にも拘らず、僕が弟であると明かせば、蓮見先輩のイメージが悪くなる。


 しかも、間の悪いことに僕はストーカーだと思われつつあった。


「蓮見先輩に嘘を吐かせるみたいになってしまってすみません。でも、僕が弟であることはできるだけ伏せておいてください。お願いします。……コーヒー、ありがとうございました」

「え? あ、ちょっと、静流!」


 僕は一方的に言うだけ言って、蓮見先輩の返事も聞かずドアを閉めた。


 蓮見先輩はこれでいい。瀧浪先輩についてももう決まっている。――なら、後は直井だな。


 彼には、まず謝ろう。

 直井は己の嫉妬を、僕に嘘を吐かれたことへの怒りにすり替えてしまっている。それは間違いない。だけど、僕が嘘を吐いたこともまた事実だ。まずはそれを謝る。


 そうすることで頑なな彼の態度を切り崩せるかもという計算も当然あるのだが、それ以上に自分の間違いにけじめをつけておきたかった。

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