第5章 真壁静流は恋愛に向いていない

第1話(1)

『真壁静流が瀧浪泪華につきまとっている』。


 そんな噂が流れているらしい。


 より正確には、真壁静流が図書委員として瀧浪泪華と仲よくなったのをいいことに彼女につきまとっている、というニュアンスだ。


 親切にもクラスの男子がおしえてくれた。「ストーカーとか、やめてくれよな」という、ありがたい忠告とともに。我ながら信用がない。




「ただ、面白いことにほとんど被害がない」


 昼休み、昼食を食べ終えた僕は、教室を見回しながら刈部景光に言う。


 先のクラスメイトに聞いたところ、噂は昨日の昼休みから出回りはじめ、現時点でそこそこ広まっているという。


 だけど、残念ながら、僕の無名さが噂の話題性を半減させていた。何せその噂を聞いたところで、真壁静流って誰だ? うちの学校に図書委員なんていたの? である。実際、先ほど学食にコーヒーを買いにいったけど、僕の顔を見て何ごとかを囁き合ったり、あからさまに後ろ指をさされたりするようなことはなかった。


「噂は登場人物が有名であるほど面白い」

「そういうこと」


 刈部が淡々と言い、僕はうなずく。


 それならそんな中途半端な噂より、国語の田中まさる先生がかつてはオペラ歌手を目指していたという事実のほうがよっぽど面白い。田中先生は大柄で声も大きく、扉や窓を閉めていてもみっつ隣の教室から「春はあけぼのー!」と情緒も風情もない朗読が聞こえてくるのだ。その話を聞いたときは深く納得したものだった。


「噂の出どころは誰だと思う?」

「直井」


 刈部は即答した。


 彼の視線の先では直井のグループが楽しそうに騒いでいた。女子数人も交じって、十人弱の大所帯だ。


「可能性はあるね」


 昨日の朝、彼とは口論をしたばかりだ。あれがきっかけで腹立ちまぎれに悪評を流したという線は十分になる。


「でも、直井はそんなことをしない」


 だけど、あまりにもタイミングがよすぎる。本当に直井の仕業だとしたら短絡的だと言わざるを得ない。


「俺には真壁がそこまで直井を高く買っている理由がわからない」

「半分は僕の理想だよ」


 直井はこうあってほしいという理想。僕はその理想を勝手に押しつけているだけだ。


「直井じゃなければ……」


 そう言って刈部が見たのは、やはり直井グループだった。


「ま、誰だっていいよ。すぐに消えるさ。さして面白くない噂なら尚更ね」


 噂の消費期限なんて短いものだ。




          §§§




 その日の放課後の図書室。

 僕は貸出カウンターの中で教科書を広げていた。


「あら、不良図書委員がいるわ」


 不意にそう声をかけられる。


 顔を上げると、そこには美貌の上級生がいた。


「しかも、ストーカー」


 彼女はくすくすと笑う。


「例の噂、そっちにまでいきましたか」

「ええ。いったい何でそんなことになったのやら」


 そう答えた瀧浪先輩は、不可解なことに首を傾げるというよりは、根も葉もない噂に呆れているようだった。


 もちろん、出どころについてはだいたい予想できている。


「尤も、ストーカーが真壁くんなら大歓迎ね。それくらい情熱的にアプローチしてくれないかしら」

「それ、ここ以外で言わないほうがいいですよ。勘違いする男が出ないともかぎりませんから」


 おどけて言う瀧浪先輩に、僕は釘を刺す。


 彼女は肩をすくめた。


「そうね。気をつける。……ところで、お勉強?」

「ええ、ちょっと今日の授業でわからないことがあって」


 それでカウンターにくる生徒が少ないのをいいことに、家に帰るのを待たず、ここで教科書を見直していたのだった。


「まぁ、でも、後は帰ってからにします」


 僕は教科書を閉じる。


 ある程度理解は進んだ。それよりも図書委員としての仕事が疎かになりかねないことのほうが問題だ。現に今、僕は瀧浪先輩の接近に気がつかなかった。利用者が近づいてくればわかるだろうとたかをくくっていたのだけど、うっかり没頭してしまっていたようだ。


「どうして? ここでやってしまえばいいじゃない?」

「うん?」

「だって、目の前にちょうどいい先生がいるわ」


 僕の目の前には、年上のわりには妙にかわいらしく得意げな顔をする瀧浪先輩しかいない。


「もしかして、教えてくれるんですか?」

「ええ。これでも成績はなかなか優秀なのよ。……テーブルのほうに行きましょうか」


 瀧浪先輩はそう言うと、閲覧席のほうへ歩き出した。


 僕がどうしようかと迷っている間に、彼女は窓際のテーブルに制鞄を置いた。カウンターに背を向けて座るようだ。となれば僕が窓を背に、カウンターのほうを見ながら座ることになる。もし誰かがきても視界に入るだろう。常連なら僕に直接声をかけてくるかもしれない。


 僕は厚意に甘えることにした。『只今席を外しています。すぐに戻ります』の札を出し、彼女を追う。


 僕たちはテーブルに向かい合わせに座った。間に教科書を広げる。


「じゃあ、お願いします」

「ええ」


 瀧浪先輩が微笑む。


「あ、ちょっと待って」


 何かを思い出したようだ。そうして鞄から取り出したのは眼鏡ケース。当然、中には眼鏡が入っていた。先日店で見たのとよく似た細身のスクウェア型だ。


「もしかして買ったのか?」

「ええ。もちろん、伊達眼鏡だけど。まさかこんなにすぐに出番がくるとは思わなかったわ」


 そう言って瀧浪先輩は無邪気に笑う。


 決して安くはない買いものだっただろうに、いつやるとも知れないパフォーマンスのために買ったのか。……まぁ、彼女のことだから、どうにかしてこの展開にもっていくつもりだったのだろうけど。


「それから――」


 と言いつつ瀧浪先輩は、あろうことか自分のブラウスのいちばん上のボタンをひとつ外した。


「お待たせ。はい、いいわ」

「いや、ちょっと待て」


 瀧浪先輩は教科書を見るため前かがみになった姿勢で動きを止めた。大きく開いた襟もとから奥が見えそうだ。


「なに?」

「なにって……」


 誰かに見られたらどうするんだ。そう思って僕は周囲を確認し――そこで気づく。いま図書室内に残っている生徒は全員、瀧浪先輩よりも向こう側にいるのだ。こちらを向いても彼女の背中しか見えない。正面から向き合っているのは僕だけ。


「ああ、これ?」


 瀧浪先輩は白々しく自分の胸もとを見る。


「真面目なのに色っぽい先生って感じで、静流もやる気が出るかと思って」

「出るわけないだろ……」


 それどころか気になりすぎて、教わったことが右の耳から左の耳に通り抜けていくに決まっている。


「そう? 終わった後のご褒美とか、期待したくならない? 『よくできました。じゃあ、お待ちかねのご褒美タイムよ』なんて」


 そう言って彼女は意味ありげな笑みを浮かべる。


 が、すぐに一転、真面目な顔になる。


「ほら、早くしなさい。教わる気があるの?」

「むしろ教える気があるのか、こっちが聞きたい」


 ご褒美とやらは突っ撥ねるにしても、やはりその恰好のまま講義というわけにもいくまい。


「そうね。これは前に一度やってるから、静流も飽きるわね。新しいシチュエーションを考えておくわ」

「……」


 そういう問題でもないのだがな。


 呆れて内心でため息を吐く僕をよそに、瀧浪先輩はブラウスのボタンをとめながら聞いてくる。


「ところで、静流。『薔薇の名前』はどこだったかしら?」

「おしえてもいいけど、僕は例え瀧浪先輩が餓死しようとも迎えにいかないからな」




 前に聞いたところによると、瀧浪泪華は努力によって優秀な成績を維持しているらしく、それだけに教えるのも上手だった。


 それが終わったころ、ちょうど閉室時間となったので、瀧浪先輩も帰っていった。僕もいつも通りに図書室を閉め、職員室に鍵を返してから下校する。


 そうして昇降口まで下りてきたときだった。


「瀧浪さん、あまり図書室には行かないほうがいいんじゃない?」

「あら、どうして?」


 不意に聞こえてきた声に、僕は咄嗟に階段の陰に身を隠した。


 答えたほうは、当然、瀧浪先輩だ。名前が出なかったとしても、声を聞いただけでわかっただろう。でも、相手は誰だ? 少なくとも鷹匠先輩のおっとりとした甘ったるい声でないことは確かだ。


「だって、ほら、あの噂」

「噂?」


 瀧浪先輩は聞き返す。


 つい数十分前に僕と話した話題だ。わからないはずがない。だけど、彼女はあえて聞き返しているのだろう。


「図書委員の子が瀧浪さんにつきまとってるって」

「ああ、それね。大丈夫よ。彼はそんなことをするような子じゃないわ」


 彼女はさらりと言い切った。


「でも、勝手に勘違いするってこともあるし」

「そうそう」


 どうやら瀧浪先輩にご忠告申し上げているのは複数いるようだ。彼女のクラスメイトあたりか。


 瀧浪先輩は放課後、教室で友達同士おしゃべりをしたり勉強を教え合ったりして時間を潰していると聞いた。今日もそうしてから図書室にきて、帰りに彼女たちと再合流したのだろう。それが偶然か待ち合わせてのものかはわからないが。


「それにああいう子にかまってあげるのって瀧浪さんのイメージじゃないと思うの」

「そ、そう……?」


 瀧浪先輩は戸惑い気味に返事をした。


 彼女たちは至極まっとうなことを言っていると思う。きっと彼女たちもまた瀧浪泪華に理想を抱くひとりなのだ。


「イメージとちがう、か……」


 僕は我知らずつぶやいていた。


 静かに踵を返す。

 先生に忘れものをしたとでも言って図書室の鍵を借り、そこで少し時間を過ごしてから出よう。

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