第4話

 翌日の朝。

 いつものように起き、着替えて洗面所に行くと、そこに先客がいた。


 蓮見先輩だ。


 彼女は洗面台で顔を洗っていた。


「おはようございます」


 僕がそう挨拶をすると、返事のできない彼女は軽く片手を上げた。略式の挨拶か、それとも「ちょっと待て」のサインか。


 やがて顔を洗い終えた蓮見先輩は自分のタオルを手繰り寄せ、顔を拭く。


「ん。おはよう」


 遅ればせながら返事があった。


 わりと朝に強い蓮見先輩は、実にすっきりした顔をしている。寝起きの僕はみっともない顔でなければいいが。


「今日はお父さんがいるから楽だわ」

「そうですね」


 彼女の言う通り、今朝はおじさんがいる。もっと正確に言えば、昨日は当直もなくまっとうな時間に帰宅したのだ。そして、朝食はおじさんが作ることになっている。その分、蓮見先輩はゆっくり寝られたというわけだ。


 そのことを反映してか、今朝の彼女はやわらかそうな素材のワイドパンツにTシャツというスタイルだった。おじさんがいないと、これがショートパンツやタンクトップなど、一気に露出度が上がるのだ。


 蓮見先輩と入れ違いに、今度は僕が顔を洗う。それを終えてタオルに手を伸ばすと、タオルのほうから僕の手にやってきた。もちろん、蓮見先輩が取ってくれたのだ。


「ありがとうございます」


 礼を言って顔を拭く。てっきり蓮見先輩は先に階下に下りているものだとばかり思っていた。


「そうだ、蓮見先輩。今日、早めに弁当をお願いできますか? 十分くらいでいいですから」


 朝食はおじさんが作っても、弁当は蓮見先輩の役割だ。


「別にいいけど。なに、早めに出るの?」

「はい。ちょっと用がありまして」

「ん、わかった」


 蓮見先輩の快諾。


 それからふたりで一緒に階段を下りる。と、一階のリビングでは蓮見氏が新聞を読んでいた。たぶんふたりとも気がついていないだろうが、ローテーブルを覆うほど新聞を広げ、前屈みになって読む姿は父娘でよく似ていた。


「おはよう、お父さん」

「おはようございます」


 蓮見先輩と僕が声をかけると、おじさんが顔を上げた。


「おお、ふたり一緒か。おはよう」


 どうやら姉弟一緒に下りてきたのが嬉しかったようだ。


 蓮見先輩が僕を待っていたのは、案外父親へのサービスだったのかもしれない。




 朝食を終え、登校の準備をすると、弁当ができ次第僕は家を出た。


 いつもより十五分ほど早い。


 名谷で電車に乗り、学園都市で降りる。


 高校生なんて時間ギリギリが登校のピークみたいなところがあるので、十五分早いだけでほとんど同じ制服を着た生徒の姿はなかった。


 それだけに彼女の姿が目立つ。


「瀧浪先輩」


 このまま背中を見つつ後ろを歩いてもいいのだが、うっかり昇降口あたりで見つかろうものならどんな文句を言われるかわからない。


「あら、真壁くん、おはよう」

「おはようございます」


 僕は彼女の横に並んだ。


「早いですね」

「たまたまよ。いつもより早く出たら、思っていたのよりもう一本早い電車に乗れてしまったの」


 なるほど。思いがけず二段階くらい早くなってしまったのか。


「あと、瀧浪泪華が遅刻なんてできないもの」


 彼女は付け足すように小声で言った。


 周りの期待に応えるのも大変だ。


「真壁くんはいつもこの時間? だとしたら、わたしも明日からは毎日これくらいに登校しようかしら」

「残念ながら、いつもはもっと遅いです」

「それなのに一緒になるなんて、きっと運命ね」


 瀧浪先輩はくすくすと笑う。


 この程度で運命を持ち出さないでもらいたい。世の中には十五人それぞれがそれぞれの理由で教会に遅刻して爆発事故を免れた、なんて話もあるのだ。まぁ、そこまでいけば場所が場所だけに、本当に奇跡だったのだろうけど。


「もしかしていつも蓮見さんと一緒に?」


 瀧浪先輩は再び声を抑えて聞いてくる。


「まさか。そんな怖ろしいことはできないよ。……そうだ。ひとつ聞いてほしい話があるんだが」

「あら、なに? 告白?」

「ちがう。少しばかり真面目な話だよ」


 そう前置きしておいてから僕は切り出す。


「蓮見先輩が、僕と姉弟になったことを言ってしまったんだ。相手は彼女と同じ中学の後輩なんだが」

「そう」

「そうって……」


 あまりにもあっさりした瀧浪先輩の相づちに、僕は言葉を失う。


「何か問題がある?」

「前にも言っただろ。あの蓮見先輩の弟が僕だなんて笑い話にもほどがある。僕はごく普通の男子生徒だ」


 僕がそう言ったところで、瀧浪先輩がため息を吐いた。


「静流は自己評価が低すぎるわ」


 そうして呆れたように言う。


「まず、ひとつ。上が優秀で下が普通、なんてよくあることよ。もちろん、その逆もね。むしろ美男美女、成績優秀の兄弟姉妹のほうが珍しいわ」

「……」

「ふたつめ。静流は自分が思ってるほど普通じゃないわ」

「どこがだよ」

「わたしと同類」


 瀧浪先輩は迷いなくきっぱりと言い切る。


「誰もわからないよ、その価値観は」

「でしょうね。……じゃあ、わかりやすいところで――静流はたったひとりで図書委員をやってるわ」

「座ってるだけだよ」

「でも、その座ってるだけができない生徒も多い。アルバイトをしている子もいれば、受験に向けて予備校に通っている子もいる。誰とも競わない、記録も出ない奉仕活動に価値を見出せない子もいるわ。誰にでもできることをやってるわけじゃないの。もう少し自信をもちなさい」


 瀧浪先輩は言い聞かせるように言葉を紡ぐ。


「そして、何よりこのわたしが認めてるわ」

「それは大きい」


 僕は苦笑とともに答えた。




          §§§




 僕が教室に入ってしばらくすると、直井も登校してきた。


 先日のように時間に余裕のない登校だったら早くきた意味がなくなるところだったが、さすがに同じ失態は繰り返さないようだ。


 直井は僕の姿を見つけるとすっと視線を逸らした。それはお前の顔など見たくないとばかりにそっぽを向いたのではなく、後ろめたさ故に目を合わせられないかのようだった。


 その小さな出来事のせいだろう。いつもおはようと爽やかに声をかけながら登場する直井は――結果、そのタイミングを逃し、黙って教室に入ってくることとなった。そんな彼の態度に、数人のクラスメイトが首を傾げる。


 すでに登校していたグループのメンバーが彼のもとに寄っていった。

 僕も直井に近づく。


「直井、話がある」


 そう切り出すが、すぐには答えなかった。おそらく彼は戸惑っている。どういう顔をすればいいかわからないのだ。だから、黙って一時間目の授業の用意をする。


「恭兵君はお前に話なんかないってよ」


 代わりに答えたのは泉川寿だった。先日のようなせせら笑いはなく、最初から怒っていた。その姿に僕はおやと思う。


 それはさておき――彼には悪いが、その言葉は過剰な忖度で、悪手だ。


「外に出ようか」


 直井がようやく声を発した。


 まさか泉川に乗っかって「そうだ。話すことなどない」とは言えず、そう答えるよりほかなかったのだろう。


 僕たちは廊下に出た。

 生徒の姿も疎らなそこで、僕と直井は対峙する。


 とりあえずこの状況にまでもってくることができたが、さてどう切り出したものか。意外と禁句が多い。


「真壁が何を言いたいかはわかるつもりだ」


 僕が言葉を探していると、先に直井が切り出してきた。


「態度が悪いって言うんだろ?」


 近似値だな。よけいなものを削ぎ落として、最もシンプルな言葉にすればそうなるだろう。


「でも、誰のせいだよ」

「僕だと言いたいのか?」

「そうだよ! 真壁は俺に嘘を吐いた。ただあの人と家が近いだけだと言ってな! だけどちがった!」


 直井が声を荒らげる。


 それは初めて見る姿だった。爽やかで、穏やかで、それでいてリーダー然とした彼の、初めての姿。


 僕は目だけで素早く周りの様子を窺った。何人かの生徒がこちらを気にしながら通っていった。うちのクラスの生徒もいれば、隣やその向こうのクラスの生徒もいる。教室の中にも外の出来事を気にし、こちらを見ているやつがいた。


「俺たちや周りがあの人の話題で盛り上がっているとき、真壁は内心で笑っていたのか? それとも優越感に浸っていたのか?」

「ちがう。言えなかったんだ。僕たちの親の話もからんでいるから」


 蓮見先輩がそう判断したように、もしかしたら直井になら話してもよかったかもしれない。もちろん、彼の心を乱さないよう、言葉を慎重に選ぶ必要があっただろうが。


「真壁が学校に戻ってきた日、あの人と姉弟だと冗談めかして言った。あれは周りの反応を窺っていたんだよな。いや、もしかして俺か? 俺がどんなリアクションをするか見たかったのか!?」

「そんなことはないっ」


 直井にわかってもらいたくて、僕も知らず声に力がこもってしまう。


 僕と直井は視線をぶつけ合った。


「……それで直井は僕に腹を立てているんだな? 僕が嘘を吐いたから」


 沈黙の後、僕が先に口を開いた。確かめるように、はっきりとした発音で問う。


 直井は一度唇を噛んだ。


「そうだよ!」


 そして、その後にきっぱりとそう言い放つと、歩調も荒く教室の中に戻っていく。


 僕は思わずその背中につぶやいていた。


「それは自己欺瞞だよ、直井……」


 直井が僕に向ける感情は間違いなく嫉妬だ。自分が憧れる女性のそばに無条件にいられることへの嫉妬。冷静に考えれば、半分とは言え僕と蓮見先輩は血がつながっているから、僕たちがどうこうなるはずがない。でも、直井は冷静に考えられない。今の彼には自分の知らないところで四六時中一緒にいるというだけで、嫉妬するに十分な理由なのだ。


 なのに、嘘を吐かれたことに対する怒りだと、それをすり替えてしまっている。


 ある意味、僕と一緒だ。

 自分の気持ちに向き合わないと何もはじまらない。


 だけど、その一方で僕は彼を羨ましくも思う。誰かに憧れ、そのことでああやって己をコントロールできなくなる姿は、今の僕にはないものだ。


 ともあれ――交渉は決裂。


 これは厄介だと思った。

 直井は頭がいいから、自分が八つ当たりをしているという自覚があるはずだ。だけど、僕はそれを指摘できない。そのためには直井が蓮見先輩に好意を抱いていることに触れなければならないし、誰だってそんなことを他人から言われたくないだろうから。


 これは感情の問題。


 想像以上に足枷が多い。




 この日の昼休みごろから、ひとつの噂が静かに流れはじめた。


 曰く「真壁静流が瀧浪泪華につきまとっている」。

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