第3話

 翌日の直井はいつも通りだった。


 少なくともそう見えた。


 感じのいい笑みを浮かべ、グループの仲間と楽しそうに騒ぎ、そうでないクラスメイトとも分け隔てなく言葉を交わしている。誰もが直井恭兵とはこうあってほしいと思い描く彼の姿。昨日の昼休みの冷たい振る舞いが嘘のようだ。


 だけど、それだけに唯一僕にだけ背を向けているような態度が際立つ。


 そう、僕は直井に近づかないようにしていたし、彼もまた僕を意識的に避けていた。だからこそ直井は平常心を保っていられるのかもしれない。




「真壁くん、どうかしたの?」


 午前中の休み時間、横目で見るようにして直井の様子を窺っていた僕に、辺志切桜が問うた。


「うん? あ、いや、辺志切さんにはどんな眼鏡が似合うだろうかと考えてた」

「え……?」


 辺志切さんがきょとんとする。


「刈部はどう思う?」

「……リムレス」


 わりと即答だった。


 フレームのないリムレスは、眼鏡が顔の邪魔をしない。案外刈部は、辺志切さんには眼鏡などないほうがいいと思っているのかもしれない。


「僕はアンダーリムかな。あのデザインはおしゃれだ」

「ちょ、ちょっと何の話!?」


 辺志切さんがあたふたしはじめる。


「最初に言った通り、辺志切さんに似合いそうなフレームの話だよ。いつもウェリントンだから、たまには別のもいいんじゃないかと思ってね」

「もぅ、人の顔で遊ばないで」

「遊んでいないよ。真面目に考えてる」


 内向的な性格とうつむきがちな姿勢で隠れてしまっているが、辺志切さんは整った容姿をしている。もう少し眼鏡で遊んでみてもいいと思うのだ。


「真面目に考えなくていい……」


 辺志切さんは消え入りそうな声で言い、口を尖らせた。


「ところで、刈部。最近の直井をどう思う?」


 辺志切さんの改造計画については、今日のところはこれくらいにしておこう。僕は刈部に尋ねる。


「俺が直井やその取り巻きに興味があると思うか?」

「だろうね」


 非合理的なことを嫌う刈部らしい、素っ気ない返事だった。


「直井は昨日の朝から真壁のことを意識的に気にしないようにしている。真壁は昼休みからだ。できるだけ直井の視界に入らないよう注意している」

「……」


 まったく、恐れ入る。


「気にしてるじゃないか」

「気にはしていない。いつもと様子がちがうから勝手に目に入ってくるだけだ」


 息を吸うように人間観察をするやつだな。


 と、そこで辺志切さんがひと言。


「あ、そうなんだ。直井君、いつも通り恰好いいと思っただけで、ぜんぜん気がつかなかった」


 僕はさりげなく刈部を見た。


 特に変化は見られない。これは僕に観察眼がないからか、それとも本当に変化がないからだろうか。




          §§§




 昼休みになった。


 正確には、その五分前。


 この曜日の四時間目は担任である浅羽先生の数学で、一学期の最初の授業の際に言ったのだ。「この授業は五分早く終わってやる。嬉しいだろ? でも、進度は変えないからな」と。以降、この時間は密度の高い内容と引き換えに、通常より五分早く終わっている。


 その恩恵は思いのほか大きい。午前の授業から早く解放されるし、その分だけ早く昼食を食べることができる。


 自分のクラスへの贔屓もあるのだろう。だけど、おそらく先生は計算してやっている。四時間目の授業なんて、生徒は早く終われという気持ちで集中力が切れているとわかっているから、その対策だ。


 浅羽清十郎は侮れない。着崩したワイシャツに少し残した顎髭という見た目も、適度に緩くていいかげんな態度も、すべて油断させるために計算でやっているのだと僕は見ている。


「真壁」


 五分早く昼休みに入った喧騒の中、その浅羽先生が僕を呼んだ。


「あ、はい」


 僕は一度返事をしておいてから教壇に向かって歩き出した。先生も少しだけこっちに寄ってきた。


「悪いがこの昼休み、図書室を開けてくれないか。三年の先生に頼まれてな。授業で出した課題の調べもので、生徒が図書室を使いたいらしいんだ」

「わかりました」

「ああ、すぐじゃなくていい。食べてからでいいぞ」


 そうして浅羽先生は教室を出ていった。




 今日はちゃんと持たされた弁当を、心持ち早く食べる。


 職員室に鍵を借りにいくと、「すまんな。せっかくの昼休みなのに」と先生に感謝された。


 昼休みだからと言って、特にやることがあるわけでもない。グラウンドや中庭を見ればボールで遊んでいる生徒もいるが、僕はそこまでアクティブではなかった。


 鍵を持って図書室へ行く。幸いにして、図書室を利用したいという三年生が待っているようなことはなかった。時間を指定しなかったあたり、昼休みをめいっぱい使って何かをやりたいわけではないのだろう。


 中に入り、照明を点ける。


 図書委員である僕に開けさせたのだから図書を借りる可能性もありそうだ。閲覧システムが入っているカウンター内の端末と、閲覧席にある蔵書検索用の端末の電源も入れておく。


 そうやって準備をしていると、


「失礼しまーす」


 誰かいますかとばかりにそろりと投げかけられた声に、僕は聞き覚えがあった。


 振り返ると出入り口に立っていたのは、案の定、瀧浪泪華とその御一行様だった。彼女と鷹匠先輩とほか三人で、計五人。


「図書室を使いたい三年生って瀧浪先輩たちだったんですかね」

「ええ」


 瀧浪先輩は笑顔でうなずく。


「グループに出された課題で調べたいことがあって、頭に思い浮かんだのが真壁くんの顔だったの」


 なるほど。この図書室の利用者は少ない。それを使おうという発想になるのはここによくくる生徒以外あり得ないわけだ。


「瀧浪さんがいて助かりました」


 そうおっとりした調子で言ってきたのは鷹匠雅先輩だ。


「そこは僕がいて助かったと言ってほしいですね。……ひと通り普段と同じようにしていますので、好きに使ってください。本も借りられます」

「ありがとう」


 瀧浪先輩が代表して礼を言うと、彼女たちは閲覧席のほうへと向かった。まずは持ってきたノートや筆記用具をテーブルの上に置き、それから書架へと向かった。


 僕はいつものようにカウンターの中に座る。


 瀧浪先輩はここに何をしにきているのかわからないような人だが、本の検索の仕方や図書の並びなど、それなりに知識はある。おそらく僕が口を出したり、助けを求められたりする場面はないだろう。


 手持ち無沙汰なので、とりあえず普段の業務でもしていよう。まずは昨日が返却期限でまだ戻ってきていない図書――即ち延滞図書のリストアップからはじめる。


「真壁クン」


 そうやって作業をしていると鷹匠先輩がやってきた。


「ここって頼んだらお昼休みも開けてもらえるんですか?」

「いえ、今回は特別です。普段そんなことはやっていませんから」


 本来であれば昼休みも開けるべきだとは思う。だけど、それは図書委員の数がそろっていて、当番制で回せるからできることで、僕ひとり毎日図書室に詰めろとはさすがに学校も言えないだろう。


 おそらく今回は受験生である三年生の頼みということで融通を利かせたのだ。


「そうですか。残念です」

「やっぱり開いていたほうが便利ですか?」


 要望があるなら僕のところで止めず、顧問の先生に上げなくてはいけない。


「いえ、こっそり自撮りに使わせてもらおうかと」

「はい?」


 思わず僕は目が点になる。


「背景が図書室の自撮りなんて載せたら、『図書室でこの恰好!』『エッッッッ!!』ってコメントでいっぱいになると思うんです」

「なに考えてるんですか!? 図書室をそんなことに使おうとしないでください」


 普段は取り寄せた海外の学校の制服で自撮りをしているらしいが、この図書室でそんなことをしたら制服で学校を特定されてしまう。いや、この人なら自撮り用の制服を用意してくるくらいの情熱はありそうで怖いが。


「そこを何とかしてくれたら、お礼に一枚だけ写真を撮らせてあげてもいいですよ?」

「いりませんよ、そんなの」

「あーら、鷹匠さん、こんなところでなに油を売っているのかしら?」

「きゃっ」


 気がつくと鷹匠先輩の後ろに瀧浪先輩が立っていた。腕を組んで仁王立ちになっていて、その迫力に鷹匠先輩は小さな悲鳴を上げる。


「また真壁くんを変なことに誘ってるんじゃないでしょうね」

「ざーんねん。前に、浮気相手にどうって誘って断られたので、もう諦めてまーす」

「う、浮気相手って!?」


 瀧浪先輩が絶句する。


「何を持ちかけてるのよ!?」

「あらぁ? 正妻の座にいることは否定しないんだ?」

「わ、わたしと真壁くんはそんなんじゃありませんっ」


 瀧浪先輩が顔を真っ赤にしながら言い返した。


 感心するほど表の設定が板についているな。




 昼休みが終わる十分ほど前には調べものは終わり、図書室を閉めることができた。


 今、僕は瀧浪先輩のグループと一緒に廊下を歩いていた。


 別に一緒に職員室まで鍵を返しにいこうというわけではなく、単に途中まで進む方向が同じなだけだ。


「あ、直井君!」


 図書室を開けたお礼を言われながら歩いていると、三年の先輩のひとりが声を上げた。


 確かに直井が泉川らいつものメンバーをつれて、こちらに向かってきていた。


「直井君、こんにちは」

「こんにちは、先輩方」


 それぞれ瀧浪泪華と直井恭兵を中心とするふたつのグループは、前に一度学食で一緒に食べているので、知らない仲ではない。立ち止まり、まずはにこやかに挨拶が交わされる。


「やあ」


 僕も彼に声をかける。


 ある種の望みをもって。


 直井が僕を見た。しかし、そこにあったのは彼らしからぬ敵意のこもった眼差しだった。……やめろ。そんな顔をするな。


「……」


 だが、僕の願いも虚しく、直井はこちらを無視して再び歩き出した。


「あ、直井君……」


 挨拶だけでなく話もしたかったのか、先輩のひとりが名残り惜しそうに直井を呼ぶ。が、彼は止まらなかった。


 直井が嫉妬などという感情で心を乱したのは一過性のものであってほしかったが、どうやらそうではなかったようだ。


「今の直井君、何かすっごい怒ってなかった?」

「うん、らしくないね……」


 三年の先輩たちが目をぱちくりさせている。いつも爽やかに笑顔を振りまいている直井恭兵のあんな態度を見れば、当然そういう反応にもなるだろう。


 先輩たちは顔を見合わせた後、今度は僕を見た。


「ねぇ、確か同じクラスよね?」


 直井の態度の理由を知りたいのだろう。先輩たちは一様に何か聞きたそうな顔をしていた。


「お察しの通り。僕が直井を怒らせたんですよ。いつもカッコつけてるから腹が立って突っかかっていったら、見事返り討ちに遭いました」


 僕は少し考えた後、肩をすくめながら言う。


「君ねぇ、そんなの当たり前でしょ」

「それにあれはカッコつけてるって言わないの。本当にカッコいいの」


 結果、袋叩き。


 名も知らぬ先輩たちはスタスタと歩き出した。僕も次第に距離が開くように、ゆっくりと歩を進める。


 その僕にふたりの先輩が並んだ。


「安易な解決は感心しませんよ?」


 鷹匠先輩がおっとりと諭すように言い、瀧浪先輩は何も言わなかった。




          §§§




 その日の帰り道は瀧浪泪華と一緒だった。


 彼女は放課後の図書室に顔を出さなかったくせに校門で待っていたのだ。そして、姿を見せた僕を見て笑みを浮かべるわけでもなく、黙って合流した。


 何か言いたそうな顔で横を歩く。


「僕から先に聞くけど、親切な図書委員の評価は地に落ちたか?」

「いいえ、ぜんぜん」


 瀧浪先輩は首を横に振る。


「話題にも上らないわ」

「だろうね。そういうものだ」


 これが今のところ僕が出せる最善手だ。


「僕は意外と自分勝手でね、こうあってほしいという理想像を人に押しつけるんだ」


 かつて僕は、蓮見紫苑は怒るところでは怒り、怒ったらそれで終わり。そういう女の子であってほしいと思った。


 今もそう。直井恭兵は青空のように爽やかな男であってほしいと願っている。嫉妬で敵意剥き出しの目を僕に向けるだけならまだしも、人目も気にせずそんなことをやって、評価を下げるようなことがあってはならない。


「わたしにもそうなの?」

「もちろん。瀧浪泪華という人は、美人で聡明で、誰にでも優しく、お淑やかであってほしい」


 それが、誰もが望む理想の瀧浪泪華。


「でも、裏表があって、素の顔を見せるのは僕だけでいい」

「……」


 瀧浪先輩は黙り込む。


 そして、しばらくして「もぅ……」とだけ言った。


「静流が望むなら、ちょっといやらしい女の子になってもいいわよ?」

「そこは常々直してもらいたいと思ってるところだな」


 僕は間髪容れず、そう返しておいた。

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