第5話
翌日。
放課後の図書室に、瀧浪先輩が珍しく早くきた。
こういうときは何か言いたいことや聞きたいことがあって、過去の経験からだいたいろくな目に遭わないというのが僕の予想だ。
「真壁くん、週末の予定は決まった?」
瀧浪先輩は人あたりのいい笑みを浮かべながら問うてくる。
例えばこれが自分とのデートの段取りや、遠回しに週末あいているかどうかを聞いているのならまだいい。だけど、実際には僕と蓮見先輩の予定を聞き出そうとしているのである。
にも拘らず、何でこんなにも満面の笑みなのだろうな。少ないながらも周りに人がいるのもあるのだろうけど、やっていることと表情が合っていなくて怖い。
「ええ、いちおうは」
カウンターの中で端末を叩いていた僕は顔を上げて答える。
「参考までにおしえてくれる?」
「……」
何の参考だ? それを聞いたら、それこそ蓮見先輩の思う壺だと思うのだが。
「場所は三宮です」
「そう、三宮ね」
前に僕と瀧浪先輩が三宮に出たように、とりあえずそこなら間違いはない。たいていの娯楽施設はあるし、急に思い立ってどこかへ行くにしても、JRと主要な私鉄が複数あるのでどこにでも行くことができる。
というのが三宮を選択する普通の理由なのだが、どうも蓮見先輩がそこに決めたときの口振りからして、三宮に強い拘りがあるように思えた。
「それでいつごろ行くの?」
「お昼に合わせるので十一時半くらいに着く感じで動くと思いますね」
名谷から三宮までは神戸市営地下鉄で十八分。なら、家を出るのは十一時前くらいになるだろうか。
「わかったわ」
と、まるで頭にインプットしたとばかりに瀧浪先輩はうなずく。とりあえずほしい情報はひと通り引き出したというところだろうか。
「それにしてもあなたたち、ずいぶんと仲がよくなったわね。一緒に出かけたりして」
「そこは瀧浪先輩のおかげでもありますね」
瀧浪先輩には前に蓮見先輩が家出をしたとき、彼女を捕まえるのに力を貸してもらった。あれがきっかけとなって僕と蓮見先輩の関係が良好になったのだ。
「そうかしら。わたしは蓮見さんの連絡先をおしえただけ。後はあなたたち姉弟の問題だったわ」
「そう思ってたんだったら恩を吹っ掛けないでくださいよ」
貸しだ。デートしろと言ったのは誰だったか。
「使えるものは使わないと」
「相変わらずですね」
女の武器も狡さも、何でも使おうとするスタイルには素直に感心する。
「ところで、瀧浪先輩――」
僕は少しだけ体を前に倒し、抑え気味の声を出した。
瀧浪先輩も内緒話の雰囲気を察してくれたようで、上体をややこちらに傾ける。互いの顔が近くなった。
「学校では姉弟という単語は使わないでくれますか?」
「あら、どうして? 別にいいじゃない。本当のことなんだから」
そう問い返す言葉には、本当にそう思っているというよりは、僕の真意を聞き出そうとする響きがあった。
僕は互いの顔を離すべく、体をキャスター付きチェアの背もたれにあずけた。
「僕と蓮見先輩が姉弟だなんて知られたくないんですよ」
引き続きトーンを落とした声で話す。
「なぜとは聞かないでくださいよ。もちろん親同士の関係のこともありますが、それ以上に僕が弟だなんて蓮見先輩が恰好悪いでしょう」
片や目の前にいる瀧浪泪華と並び称される人気の美少女。片や一介の男子生徒。不出来な弟がいることなど知られたくないにちがいない。
「そうかしら?」
瀧浪先輩は首を傾げる。
「蓮見さんがそう言ったの?」
「いえ、言ってません。……いいです。じゃあ、蓮見先輩の気持ちを勝手に決めつけるのはやめにします。でも、それを抜きにしても僕自身があの人の弟という事実に引け目を感じますので」
「そう。わかったわ。気をつける」
「ありがとうございます」
あと僕と蓮見先輩の関係を知っているのは刈部と辺志切さんに、奏多先輩か。みんなただの雑談にこの話を持ち出してくるような人間じゃない。話すにしても状況を考えるだろう。
「真壁くんはどう思っているの?」
不意に瀧浪先輩が問うてきた。
「唐突ですね」
「前から聞いてみたかったの」
瀧浪先輩は人あたりのいい笑みを見せながら言う。
カウンターから閲覧席まで距離があるとは言え、いちおう人目があるからそういう表情になるのは当然だろう。だけど、いつもならこういうときは素の顔と態度に戻る。それがない今は、逆に本心を隠しているようにも思えた。
「きっと蓮見先輩には裏表がないんでしょうね。二年の僕たちのところまで聞こえてくる評判通りの人ですよ」
「近くにいてもそれは変わらない?」
「ええ。一緒に住むようになって、学校で見るのとはまたちがう顔を知りましたけど、あれも蓮見先輩の別の一面なんでしょうね」
拗ねて家出したり、怒っておじさんの頬を張ったり。そうかと思ったら、落ち込む僕を慰めたり。
「あの人の弟になれてよかったと、素直に思いますよ。……蓮見先輩にとってはいい迷惑でしょうけどね」
「そう」
瀧浪先輩は微笑む。またしても、誰もが瀧浪泪華に望む嫋やかな微笑だった。そして、彼女の反応はその短いひと言だけだった。
「あ、そうそう、真壁くん。置いてある場所をおしえてほしい本があるのだけど」
彼女が少しだけ大きな声を発した。
その声は閲覧席まで聞こえただろうか。もしかしたらカウンターの前での話が思いがけず長くなってしまったから、図書の所在を聞いているのだというアピールなのかもしれない。
「いいですよ。何ですか?」
「ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』」
「ああ、それだったら一番奥の書架ですね」
資料検索を叩くまでもない。日本十進分類法(NDC)で文学は一番最後。中でもイタリア文学は後ろのほうだ。
NDCはその名の通り日本での分類だから、当然文学の先頭は日本のものになる。そこから中国文学、英米、ドイツ、フランス、スペインが続き、やっとイタリア文学がくるのだ。
「ありがとう。探してみるわ」
そうして瀧浪先輩はカウンターを離れ、書架へと歩いていった。
彼女がいなくなったので僕はやりかけの作業に戻る。
それにしても、僕も詳しくなったものだと思った。ちゃんとした知識をもとにして、尋ねられたことに答えている。これも卒業していった図書委員の先輩方と、あの日講演会の演壇に立った彼のおかげだろうか。
などと苦笑していると、瀧浪先輩が戻ってこないことに気づいた。
壁の時計を見てみる。彼女が本を探しにいった正確な時間はわからないが、体感で五分くらいはたっている気がした。求めている本は書架の一番奥だが、それにしたってこんなに時間がかかるとは思えない。
もしや見つけられずにいるのだろうか? 『只今席を外しています。すぐに戻ります』の札をカウンターの上に置くと、僕は立ち上がった。
瀧浪先輩が消えた書架の、その最奥。
かくして、そこに彼女の姿はあった。高いところにある図書を取るための階段状の踏み台に腰を下ろし、本を読んでいる。どうやら見つけた本のページをめくり、そのまま本格的に読み耽ってしまっていたようだ。
「遅いわ」
僕がきたことに気づき、彼女はひと言。
「静流が遅いから読みはじめちゃったじゃない」
「……」
つまり瀧浪先輩が帰ってこないから僕が捜しにきたのではなく、僕が捜しにこないから彼女は本を読みはじめたのか。もっと言えば、本を探しているというのも僕をここに誘い込むための嘘だったのだろう。しかも、イタリア文学なら図書室のいちばん奥だ。
「意外と面白いわね、これ」
そう言って瀧浪先輩がひらひらと振ってみせたのはハードカバーの本。――『薔薇の名前』だった。
「二十世紀最後の名作だよ。……で、何の用だ?」
「キスしない?」
まるで天気がいいから遊びにいこうと誘うくらいの気軽さ。
「ファーストキスが学校の図書室なんて素敵じゃない? これぞまさしく高校生って感じがするわ」
瀧浪先輩は無邪気に、どこか高揚したようにそんなことを口にする。
「変なことに憧れるんだな」
「あなたが蓮見さんとデートしたり、別の一面を知れてよかったなんて言ったりするから、ちょっとだけ嫉妬してるの」
僕の言葉にかぶせ気味に言うと、彼女は立ち上がった。
せまい書架の間で、僕たちは対峙する。
さて、どうする?
瀧浪泪華には通用しにくいが、例の如く最適な言葉と表情を選べば、この場は見逃してくれるだろう。いっそバカバカしいと背中を向ければもっと簡単だ。
いくつかこの状況をやり過ごす方法はある。
が、すべて却下した。
思い出したのだ。
お前は甘えていると言った奏多先輩の言葉を。
彼女がこのことを言いたかったのかはわからない。でも、僕は瀧浪先輩に甘えていたのはその通りだと思った。
幸せなことに、瀧浪泪華は僕に好意を寄せてくれている。でも、それは無限でもなければ無償でもない。僕がそれに甘えて何も返さなければ、いずれは離れていってしまうだろう。
「僕はどこにでもいる男子生徒のひとりだ」
「そう?」
瀧浪先輩が不思議そうに首を傾げる。
「少なくとも校内で有名な先輩を、憧れをもって遠くから眺める程度にはごく普通の男子生徒だよ。ただ、ほかのやつらと少しちがうのは、学校では見せない蓮見先輩の別の一面を知っていること」
「そうね」
「それと瀧浪先輩の裏の顔を知っていること。そこに少しばかりの優越感があるかな」
「……」
瀧浪先輩が黙る。
とても静かだった。ここが図書室で、最奥の書架だからだろう。窓を隔てたグラウンドから、かすかに運動部の練習する声が聞こえる。床には絨毯が敷かれ、足音はほとんどしない。今ここに誰かきたらちゃんと気づくだろうかなどと、どうでもいいことを考えてしまった。
やがて瀧浪先輩が口をひらく。
「静流、意外とずるいのね」
「同類だからね」
僕がそう答えると、彼女は少しだけ頬をふくらませた。
「わたしも親切な図書委員の本当の顔を知ってるわ」
「それは瀧浪先輩の胸の中だけにとどめておいてくれ」
「もちろん、そのつもりよ」
瀧浪先輩はいたずらっぽく笑う。
或いは、秘密を共有した共犯者の笑み。
「じゃあ、戻るよ」
「ええ。わたしはもう少しここにいるわ。ここ、ちょっと気に入ったの。考えごとをしたり、ひとりになりたいときにちょうどいいわね」
「人のこない図書室だから」
苦笑してから僕は踵を返す。
「静流」
その僕を瀧浪先輩が呼び止めた。振り返る。
「どうせならここでキスしていかない? 少しどころじゃない優越感に浸れるわよ?」
「やめとく」
「もう」
僕は口を尖らせる瀧浪先輩に再び背を向ける。
そして、今度こそ立ち止まらずにカウンターに戻った。
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