第4話

 その日の放課後の図書室。


 ふと壁掛け時計を見て、もう少ししたら瀧浪先輩が現れる時間だな、と思っていたとき、蓮見先輩がやってきた。


「……」


 なぜか登場時からむすっとした顔で、カウンターの前まできても黙ったまま。


「あの、どうかしたんですか?」


 たまらず僕は、こちらから先に声をかけた。


「あ、あのさ……」

「はい?」


 珍しく歯切れが悪い蓮見先輩だった。


「昼間のことだけど……あれ、本気にしないでよね」


 ぽつりと言う。


 昼間のあれというと、椎葉先輩のあれだろうか。


 僕は一度閲覧席に目をやった。後三十分もたたず閉室という時間。いつもなら数人は残っているのだが、今日はどういうわけか常連はみんな早く引き上げ、いま図書室内にいるのは奏多先輩だけだった。いつものようにノートにシャーペンを走らせている。


 目を蓮見先輩へと戻した。


「するわけないでしょう。半分とは言え、血がつながってるんですから」

「いや、まぁ、そうなんだけどさ……」


 僕が呆れてため息交じりに言えば、彼女は不貞腐れたように返してきた。


「だいたい椎葉先輩は今までだってたびたびあの手のことを言ってたじゃないですか。何を今さら」

「そ、そうよね。ごめん。あたしが狼狽えすぎた」


 そして、反省。


「そんなこと言いにきたんですか。帰ってからでもいいでしょうに」

「いや、なんか家でふたりだけになる前に、人がいるところで言っときたかったっていうか……」


 よくわからない理由だ。きっと蓮見先輩の中ですごく高度な精神活動があったにちがいない。


「蓮見先輩、男性経験は?」

「あ、あるわけないでしょうが!」


 彼女はカウンターを力いっぱい叩き、身を乗り出して怒鳴った。


 僕は再び閲覧席を見た。奏多先輩がこっちを見ている。その彼女に向かって僕は片手を上げて「何でもないです」と合図を送る。実際にはそんなわかりやすいジェスチャーは存在しないのだが、こちらの言いたいことは伝わったようだ。奏多先輩は再びノートに視線を落とした。


「すみません。間違えました。……誰かとつき合ったことは?」

「どんな間違いよ……」


 蓮見先輩はカウンターから体を離し、腕を組みながら僕を睨む。


「……ないけど」


 そうしながら渋々答えた。


「そのせいですかね。椎葉先輩の冗談にあわてふためくのは。耐性がないというか」

「その理屈でいくと、静流にも彼女がいたことになるんだけど?」

「……」


 なぜ過去形なのだろうか?


「え? もしかして本当にいたの?」


 うっかり黙ってしまったことで誤解されてしまったようだ。


「いませんよ。僕の場合は完全に持って生まれた性格ですね」

「あー、なんかわかる気がするわ。あんたって妙に冷静だし、言ってることも時々冗談なのか本気なのかわからなくなるのよね」


 もちろん、実際には後天的に獲得したものだけど。




「あら、蓮見さんがいるわ」




 不意に聞こえた僕たち以外の声は、瀧浪泪華のものだった。


 蓮見先輩が忌々しげに顔を歪めてから振り返った。……無性にいやな予感がするな。


「何か楽しいお話でも?」

「そうね。ある意味めちゃくちゃ瀧浪さん好みの話をしてたわね。でも、残念。もう終わったよ」


 思わず笑ってしまった。確かに異性とつき合ったことがあるとかないとかは、瀧浪先輩の好きそうな話ではある。


 そこで蓮見先輩は僕と瀧浪先輩の顔を交互に見ると、ほんのわずか思考を巡らせ――やがて何か閃いたようだった。


 言葉を続ける。


「あ、そうだ、静流。一緒に出かけるって約束、今度の日曜にするから」

「はい?」


 今ここで言う話か?


 案の定、瀧浪先輩の目つきが鋭くなった。


「待ちなさい、ふたりとも。デート? デートなの!?」

「まさか」


 対する蓮見先輩は意外にも落ち着いたものだった。昼休みの件での狼狽ぶりを反省したのだろうか? いや、ちがう。ただ単純に想定の範囲内だっただけだ。


「単なる家族の買いものよ。家族の」

「ぐ……」


 蓮見先輩が殊更家族を強調して言うと、瀧浪先輩が喉を詰まらせた。


 これがデートだったなら邪魔もできただろう。……まぁ、それもどうかと思うけど。だけど、家族の買いものだと言われたらそれまでだ。彼女はただ手をこまねいて見ているしかないのだ。


「行って買うものだけ買って帰ってくるのも味気ないし、お昼を外ですませるのもいいかもしれないわね。ついでに映画でも観る?」

「……」


 その場合、おじさんはどうするのだろう? 家にひとりで留守番で、テキトーに食べておいてもらうのだろうか?


「静流、ほかにどっか回りたいところある?」

「い、いえ、僕は特に……」

「あっそ。ま、どうするかは週末までに考えておくわ。……じゃ、あたしは先に帰るから。あ、瀧浪さん、後はよろしく。静流のことは好きにしていいわよ。今くらいは」


 かくして蓮見先輩は勝ち誇ったような笑みを見せ、図書室を出ていった。


 いや、もう煽る煽る。


 そして、煽られた瀧浪先輩は悔しそうに出入り口を睨みつけていた。


 要するに、いつぞやの仕返しなのだろう。僕と瀧浪先輩の所謂デートのとき、瀧浪先輩が今の蓮見先輩のようにさんざっぱら煽ったのだ。その結果、蓮見先輩は僕たちを尾行するという行動に出た。……まぁ、瀧浪先輩にも考えがあったわけだけど。


 蓮見先輩もろくでもないことを思いついてくれたものだ。


 瀧浪先輩が僕を見た。


「静流、あなたも少しは気の利いたこと言いなさいよっ」


 その視線の鋭さは出入り口を睨んでいたときとさほど変わらない。


「気の利いたことって?」

「『僕がデートをするのは君だけだよ』とか、『あんな女とは遊びさ』とか、何かあるでしょ!」

「人物設定を無視した台詞を吐いたって浮くに決まってるだろうが。そんな一貫性のないキャラ、どこに需要があるんだよ」


 怒り心頭でむちゃくちゃ言ってるな。少しはあのときの蓮見先輩の気持ちがわかったのではないだろうか。




          §§§




 閉室間際、実に面倒くさい感じになった瀧浪先輩をどうにか追い出し、僕は奏多先輩のところへ向かう。


 と、彼女が冷たい目でこちらを見ていた。すでに荷物はまとめられていて、僕がくるのを待っているかのようだ。


 奏多先輩の相貌は怜悧すぎるので、彼女が普通にしていてもその視線は周囲の人間の心胆を寒からしめるのである……と言いたいところだけど、今の奏多先輩にかぎってはそうではない。思わず引き返したくなった。


「お前、私に何か言うことは?」

「すみません。蓮見先輩に強引に予定を入れられてしまいました」


 つまり今、奏多先輩は見たまま、怒っていた。蓮見先輩と瀧浪先輩、そして、僕――三人のやり取りを見ていたのだろう。


「出かけるからついてきなさいと言ったはずよ」

「でしたね」


 そう、奏多先輩と約束をしていた。


 あれは僕が腕のケガと引き換えに蓮見家に残ることを決めた直後のこと。閉室間際の図書室で約束をした。いま彼女が言った通り、出かけるからお前もついてこい、と。一方的な命令にも聞こえるが、僕と奏多先輩はいつもこんなものだ。


 当初は試験が終わってからのつもりで、それを少し前倒しにして今週末の予定だったのだが。


「どうしましょう? 日曜は予定があると言えば、日にちを変えてくれるとは思うのですが」


 それは蓮見先輩も言っていた。都合が悪ければ言え、と。先ほどやけに強引に決めたのは、たぶん瀧浪先輩の前だからだろう。


「いいわ。お前をつれて行くのはまた別の機会にするから」

「奏多先輩ならそう言ってくれると思いました」


 すると彼女は呆れたようなため息を吐いた。


 そして、冷ややかに続ける。


「お前、いつからそんな甘えた男になったの? それとも瀧浪や蓮見が甘やかしているのかしら?」

「女性でダメになるような言い方はやめてもらえますかね」


 思わず僕の口から苦笑がもれた。


「そうかそうでないかは自分の胸に聞いてみることね。……帰るわ」

「あ、はい。お気をつけて……」


 奏多先輩はイスから立ち上がって颯爽と出口へ向かい、僕はそれを呆然と見送る。


「なんか突き放すように言われてしまったな……」


 僕を横から掻っ攫われたせいで予定がつぶれて怒っている……だけではなさそうだ。




 この後、当然のように瀧浪先輩が待ち伏せしていた。一緒に帰ると喰い下がられ、ひたすら文句を聞かされたのは言うまでもない。


 そして、帰ったら帰ったで不機嫌顔の蓮見先輩が待っていて、「デ、デートじゃないからね。勘違いしないでよね」と言われたのだった。


 散々な日だ。

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