第3話

 まだ七月にも入っていないというのに、その日、学校へ行くと昇降口を入った吹き抜けの部分に笹が立っていた。


 この茜台高校は、何年か前までは女子校だった。そうなる直前はかなり生徒数が減っていたらしく、入学希望者獲得のため制服のリニューアルや建物の増改築、設備の拡充など、いろいろやったらしい。だが、努力も虚しく生徒数は減少の一途を辿り、その打破のため現在のように共学校になったのだ。


 そのときの増改築の影響で、校内には女の子受けしそうな小奇麗な場所がいくつかある。ここもそうだ。昇降口を入り、下駄箱で靴を履き替えると、そこには三階まで吹き抜けの空間が広がっている。


 そこに七夕の笹が立っていた。


 昨日僕が帰るときにはまだなかったので、午後六時を過ぎてから生徒会あたりがせっせと立てたのだろう。


 今年もこの時期がきたか、という思いはなかった。何せ去年は一年生で、入学してまだ三ヶ月。学校行事はすべてが初めてだったので、あっという間に過ぎ去っていった。来年には先のように思えるのかもしれない。


「真壁くん」


 その笹を眺めていると、後ろから声をかけられた。瀧浪泪華だ。


「ああ、瀧浪先輩。おはようございます」

「おはよう」


 互いに外面のいい表の顔で挨拶を交わす。


 瀧浪先輩は応えながら僕の横に並んで立ち、やはり同じように笹を見上げる。


「今年も立ったわね」

「そうですね」


 もちろん、僕には瀧浪先輩ほどの感慨深さはない。


 辺りを見回せば壁際に机が置かれていて、その上に短冊と何本かのペンが入ったペン立てがあった。これで好きに願いごとを書いて笹に括りつけろ、ということなのだろう。考えれば考えるほど、投げやりなイベントだ。


 再び笹に目を戻せば、すでにいくつかの短冊がぶら下がっていた。見たところ成績や受験関係のようだ。期末テストが近いせいだろう。真面目だ。でも、これから不真面目な、悪ふざけのようなものも増えていくにちがいない。


「瀧浪先輩も何か書いたりするんですか?」

「内緒」


 ふと気になって問うてみれば、瀧浪先輩はいたずらっぽく笑いながらそう返してきた。


「こういうのは人に言うものじゃないわ」


 書くかもしれないし、書いても言わないということか。


「そういう真壁くんは?」

「いえ、特には」


 蓮見先輩じゃないけど、僕もそんなガラではない。


「書けばいいのに。素敵な彼女ができますように、とか」


 くすりと笑う瀧浪先輩。


「そこは織姫に頼まず、自力で何とかしたいところですね」

「そうね。確かにわざわざお願いしなくても案外近くにいるかもしれないものね。すぐ隣とか」


 瀧浪先輩は意味ありげにそんなことを言う。


 僕は隣を見た。もちろん、彼女がいるのとは反対のほうだ。


「残念ながら、隣には誰もいませんね」

「静流、あなたね……」


 瀧浪先輩は僕にしか聞こえない声で、ぼそっとつぶやく。こちらに向けているのは素の顔だ。ふたりきりのときと周りに人がいるときで、顔つきが変わるわけではないのだが、何となく今はそうだと思った。


 そんな彼女の顔を横目で見ながら、僕はふと奏多先輩の言葉を思い出していた。


「己の気持ちに誠実であれ、か……」

「何か言った?」


 瀧浪先輩が首を傾げる。


「真面目な話――」


 彼女のその問いに対する返答は不要と判断し、僕は切り出す。


「隣にいるのはわかってるんだ。だからわざわざお願いするまでもない」

「え……」


 こちらも周りに聞こえないように返せば、瀧浪先輩は固まってしまった。


 七夕において願いごとを伝えるのは織姫だが、実際に叶えるのは自分なのだという。だとしたら、短冊に願いごとを書くという行為は誓いや決意表明なのだろうか。叶えたい夢を文字に書き出すこと自体を否定するつもりはないし、むしろ肯定する。だけど、僕は遠慮しておこう。


「問題は、最初の一歩を踏み出す資格が僕にはあるのか、だな」


 真壁静流が瀧浪泪華を好きなのは確かだ。ただ、それが本物かどうか、自分でも自信がもてないだけで。それでも僕はその気持ちと向き合って結論を出さねばならないのだろう。


 僕は固まっている瀧浪先輩を置いて、体を教室へと向けた。


「ちょっと、し……真壁くん、今のはどういう――」


 すぐに彼女ははっと我に返り、僕を追いかけようとした。だが、お淑やかな瀧浪泪華らしくない行動に周りが「なんだ、なんだ」と騒ぎ出し、結局諦めたようだった。





          §§§




 昼休み。


 刈部景光、辺志切桜と一緒に昼食を食べ――その後、刈部と学食にコーヒーを買いにいったら、思いがけず自販機の前が渋滞していた。直井恭兵のグループも同じタイミングで自販機コーナーにやってきたのだ。


「いいよ、先に買ってくれ」


 直井は数歩手前で止まり、僕に順番を譲った。僕は「じゃあ」と、先に買わせてもらうことにする。


 直井の後ろで泉川が聞こえよがしの舌打ちをした。我らがリーダーが誰かに先を譲るなど、彼にとってあってはならないことなのだ。尤も、それができるかどうか、許せるかどうかが、直井と泉川のちがいなのだろう。


 僕の後ろで刈部が鼻で笑った。


「真壁はすっかり学食で食べなくなったな。相変わらずコンビニで買ってきてるのか?」


 コーヒーを買う僕に直井が話しかけてくる。


 そう言えばそんな設定だったな。初めて蓮見先輩に弁当を作ってもらった日に直井に学食に誘われ、僕は咄嗟にそう言って断ったのだった。


「いや、今は弁当だよ。親戚のおばさんが毎日作ってくれてるんだ」


 この場合、おばさん役は蓮見先輩だろうか。口の端を引き攣らせる彼女の姿が脳裏をよぎり、僕は内心で謝っておいた。


「そうか。コンビニの昼メシに飽きたら、また声をかけてくれるかと思ってたんだけどな。弁当ならもう一緒に喰うことはないか」


 少しだけ残念そうに直井は笑った。


「ありがとう。お先」


 僕は缶コーヒーを取り出し口から掴み上げると、直井に場所を譲る。


 と、そのときだった。自販機の前に進み出ようとした直井が何かに気づいた。


「蓮見先輩!」


 彼の発したその言葉に、僕はぎょっとする。


 振り返ると、学食の出入り口に蓮見先輩の姿があった。友達数人を引き連れている。彼女のグループだ。


 蓮見先輩は直井の声を聞き取ると、こちらにやってきた。おそらく最初からこの自販機コーナーが目的だろうから、急に方向転換したわけではないはずだ。


「直井君じゃない。久しぶり」

「お久しぶりです」


 親しげに言葉を交わすふたり。どうやら知り合いのようだ。互いに学内カーストのトップグループ同士。交流があってもおかしくはない。


 だけど、僕は少しだけ、おやと思う。


 直井恭兵はスマートでスタイリッシュだ。いつも落ち着いていて、余裕がある。だけど、今の彼はどこか子どもっぽかった。喩えるなら、憧れている芸能人と会って抑えきれない興奮が見え隠れしている感じだろうか。


 蓮見先輩がちらとこちらを見た。こんにちはと挨拶するのも白々しいので、僕は「どうも」と軽く頭を下げた。蓮見先輩も同じ思いだったのか、笑みを見せ、軽く手を上げて応じただけだった。


「同じ学校にいるのに、意外と会わないものですね」

「ほんとねー」

「直井、蓮見先輩と親しいのか?」


 隣でぼうっと立っているのも黙って立ち去るのも変なので、当たり障りのない話で参加してみる。


「ああ、先輩とは同じ中学だったんだ。どちらも運動部だからグラウンドでよく顔を合わせてた」

「そうだったのか」


 蓮見先輩は陸上部だったとは聞いている。直井はどこだったのだろう? 今はハンドボール部だが、中学にはあまりないように思う。


「先輩は高跳びだったんだけど、跳ぶ姿がきれいでさ。俺はそれに見惚れては、クラブの先輩に余所見すんなって怒られてたよ」

「昔の話よ。あと、あたしも怒ったけどね。こっちばっか見てるから」


 直井が熱っぽく語り、蓮見先輩が苦笑した。


 どうやら後半部分は直井の取り巻きでも初めて聞くエピソードだったらしく、「マジか!?」

「恭兵、カッコわりぃ」の声が口々に上がった。「うるさいな」と、直井も笑いながら返す。


 あぁ、なるほど。そういうことか。思い返せば、瀧浪先輩と蓮見先輩、どちらがかわいいかを議論するとき、直井は決まって蓮見先輩派だった。これは尚のこと僕と蓮見先輩の関係について話しにくくなった。


「蓮見先輩は、真壁とは家が近いんですよね?」


 分の悪さを感じたのか、直井が話を変えてきた。


 しまった。設定を蓮見先輩とまだ共有していなかった。家が近所なんて話、初めて聞くはずだ。


「うん? ああ、そういうことね」


 彼女が首を傾げたのは一瞬のこと、すぐに合点がいったとばかりにうなずいた。そんなに突飛な話でもないので、たぶん合わせてくれるだろう。


「あたしと真壁くんは――」

「紫苑ちゃん、図書委員くんのことが気になってるんだよねー」

「ぶふっ」


 突然割って入ってきた声に、蓮見先輩はたまらず噴いた。「え?」「は?」と、周りからも素っ頓狂な声が上がる。


 先の発言の主は小柄な女の子――蓮見先輩のグループのひとり、椎葉茜先輩だった。


「ち、ちちち、ちがうわよっ。なに言っちゃってんのよっ」


 蓮見先輩は顔を赤くしてどもる。

 その見事な慌てっぷりに、周りからは戸惑いの視線が飛んできた。


「蓮見先輩蓮見先輩、誰も本当だなんて思ってませんから。落ち着いてください」

「え? あ、ああ、そうね」


 言われて蓮見先輩は深呼吸をひとつ。


 何せ僕たちは姉弟だ。そういうことになり得ないことは、自分たち自身がいちばんよく知っている。なのに動揺したらよけい怪しまれてしまう。


 蓮見先輩はキッと椎葉先輩を睨んだ。


「だ! か! ら! あんたはっ、どうしていつもいつもっ!」


 そして、その頭を両手でつかむと、力いっぱいシェイクしはじめる。椎葉先輩の口から

「あううぅ」と脱力系の悲鳴がもれた。……そんなにいつもいつも言っているのか。だったら蓮見先輩も慣れればいいのに。


 直井は椎葉先輩を締め上げはじめた蓮見先輩を見て笑っている。僕はその彼に声をかけた。


「直井、今の――」

「わかってるよ。椎葉先輩はああいう人だ」


 どうやら彼が真に受けていないようでほっとした。

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