第2章 隣の彼女
第1話
月に一回、生徒会と各委員会の代表が集まる会合がある。
内容は生徒会からの連絡や、それぞれの委員会の活動報告が主で、議論が紛糾するようなことはまずない。実に事務的で、淡々としたものだ。
今日、その会合がある。
そして、知っての通り図書委員会は今年から僕ひとりだ。よって、会合に参加するのも、おのずと僕になる。
僕は本日の授業とホームルームが終わると、まずはいつものように職員室へ行き、図書室の鍵を借りた。
それから図書室へ向かい、中に入ると用意しておいた『本日は休室です』の紙を取り出し、出入り口のドアに貼る。同様に今日の休室を告知する紙を一週間ほど前からカウンターに貼っていたので、この作業をしている間、常連の生徒はひとりも現れることはなかった。
それが終わると、今度は会議室へと向かう。
「真壁クン」
廊下を歩いていると、後ろから声をかけられた。
振り返ればそこにはタレ気味の目をして、おっとりした雰囲気を纏った三年生の女子生徒がいた。
鷹匠雅先輩だ。
「こんにちは、鷹匠先輩」
「今から委員会の集まり?」
鷹匠先輩は僕に追いつき、横に並ぶと、そう聞いてくる。僕は少しだけ歩く速度を落とした。
「ええ。……あれ? もしかして鷹匠先輩もですか? でも、今まで見たことがありませんけど?」
学年が上がって図書委員会が僕ひとりになったのはこの四月からだが、それはあくまでも名簿の上でのこと。実際には昨年度の秋、三年生が受験で忙しくなったころから僕が代表として会合に出ていた。
そのころはどこの委員会も委員長代理、暫定的な代表が出てきていたが、その多くは年度が変わってもそのまま代表となったようで、あまり顔ぶれは変わっていない。鷹匠先輩がどこの委員会に参加しているかは知らないが、彼女の姿は昨年度も、今年度も見ていないはずだ。
「真壁クンが図書委員の代表で出てくるのはわかってたから、今回はロプロスに――」
「ロプロス?」
「うちの会長です」
普通、委員会の場合は『委員長』ではないだろうか。
「その会長に言って代わってもらったんです。真壁クンに会いたくて」
いいのか、そんな理由で代わって。……まぁ、会長ロプロスも会合なんて面倒だから、ふたつ返事で代わったのだろうけど。
「僕なら放課後、たいてい図書室にいますけどね。……ところで、鷹匠先輩は何の委員会に入っているんですか?」
「風紀委員会」
「ぐふっ」
思わず咽た。
「その反応、瀧浪さんから何か聞いてます?」
「ええ、まぁ……」
聞いた話によると、この鷹匠先輩は顔を出しながらでは到底できないような自撮り写真をSNSにアップしているらしいのだ。つまり風紀とは対極にあるような人である。
「これは人の秘密を勝手にしゃべった瀧浪さんにお仕置きですね。えっちな自撮りを真壁クンに送らせましょう」
「やめてくださよ、そんなことっ」
まさか嬉々として送ってきたりはしないだろうけど、万が一のこともある。
「話の流れで僕が聞いたんですよ。瀧浪先輩はそれに答えただけです。あの人は悪くありません」
ついでに言うと、もとを辿れば鷹匠先輩がそんなアカウントを持っていることを仄めかしたりしなければ、僕と瀧浪先輩の間でそんな話が出ることもなかったのだ。
「冗談ですよ」
鷹匠先輩はくすりと笑う。
「どちらかと言うとわたしは、真壁クンになら言ってもいいと判断した瀧浪さんに興味がありますね。瀧浪さんってやっぱり真壁クンのことを?」
「さぁ? それは瀧浪先輩本人に聞いてください。尤も、瀧浪先輩が僕のような普通の男子生徒を相手にするとは思えませんけどね」
あくまでも図書室に通う先輩と図書委員の後輩という体で答える。
「真壁クンはそんなに悪くないと思いますよ、わたしは」
「ところで、どうしてそんなことやってるんですか? 趣味、ですか?」
僕は話題を変えるべく聞いてみる。
「そうですね。趣味ではある、かな? 海外にもかわいい制服は多いですから。でも、それ以上にストレス解消でしょうね」
「ストレス解消?」
「うちってそれなりに立派な家で、小さいころからいろいろ厳しいんですよ。だから、その反動なんだと思います。解放感とか、承認欲求とか」
鷹匠先輩は淡々と語る。
なるほど。自己分析はできているらしい。この人も自分のことを客観的に見ることができるのだろう。それを表すかのように、さっきまでの人をからかうような口調が少しだけ鳴りを潜めている。
「仲のいい何人かは知ってますよ」
大丈夫なのだろうかと心配になる。仲のいい振りをして裏でアカウントのことをバラすとか、そうでなくともケンカをした拍子にとか……と考えたが、彼女の友達とは、つまり瀧浪先輩のグループということだ。何度か見かけたが、中心がお淑やかな瀧浪泪華だけあって、テーブルの上では仲よく談笑、その下では足の蹴り合い、なんてことはなさそうに見えた。
「やめたほうがいいと言われます。瀧浪さんにも言われました」
「でしょうね」
まっとうな友達ならそう忠告するだろう。何せかなり危ないことをやっている。もし悪意をもった人間が鷹匠先輩にまで辿り着いたとしたら、きっとよくない事態になるだろう。
「やめられないんですか?」
「というより、やめたくないんですよね」
鷹匠先輩はきっぱりと言い切った。
「最初はちょっとした興味。それからストレスがきっかけで本当にやるようになって、今では立派な趣味。ぜんぶわたしがこの足で辿ってきた道ですから、自分でそれを否定したくないなって思うんです」
「そうですか」
大事な思い出を語るような鷹匠先輩に、僕はそれしか答えられなかった。
やはりこの人は自分のことがよく見えているし、よくわかっている。これもひとつの誠実さなのかもしれない。
「気をつけてくださいね」
「わかってます。わたしだって身バレは怖いですからね。おかげでいろんな知識を身につけましたよ。それはもう、今すぐにでもIT企業を設立できるくらいに」
それが本当だったら、おっとりした雰囲気からはまったく想像がつかない。人は見かけによらないものだ。
「それにしても男の子に知られたのは初めてですね」
「そうなんですか?」
「はい。頼んだら着てくれそうとか、写真を撮らせてくれそうなんて思われたら大変ですから」
鷹匠先輩は苦笑する。
いつの間にか悩みの吐露みたいになっていて、少し空気が重く感じられた。
「なんだ、僕もてっきりそうだと思ってました」
「もぅ、真壁クンまで。撮影会はやってません」
僕があえて軽い調子で言えば、鷹匠先輩も笑いながら返してきた。
和やかな空気が戻ってくる。
「あ、でも、真壁クンにならいいかなぁ」
例の如くおっとりした口調が妙な色気を醸し出し、まるで今にも甘ったるくしな垂れかかってきそうだった。
「浮気相手にわたしなんてどうです? 好きな制服で放課後デートしてあげますよ」
「おっと、会議室が見えてきましたね。みんな待ってるかもしれません。急ぎましょう」
僕は見えない手からするりと抜けるように歩調を速める。後ろでは「あ、こら」と、鷹匠先輩が声を発していた。
僕にそんなことを唆さないでもらいたい。血の業が深すぎる。
§§§
会合はいつも通り一時間ほどで終わった。
時間中、僕からは図書委員会の活動報告をしただけ。尤も、放課後に図書室を開けるだけの活動なので、たいして報告するようなことはないのだけど。終わると三年の学年主任から、「悪いな、ひとりで。でも、真壁のおかげで助かってる」と声をかけていただいた。
会合の内容については、僕の場合、情報を共有するような委員会メンバーがいないので楽なものだ。
数日前から出していた休室の告知はしっかり周知されているようなので、今から図書室を開けたところで誰もこないだろう。今日はむりに開けようとせず、このまま帰ることにした。
いつもより早い帰宅。
名谷の駅で電車を降り、改札を出たところでひとつ心配になった。
僕は蓮見邸の鍵を持っていない。僕がいつもの時間に帰ってくると思って、蓮見先輩が家に鍵をかけて出かけていたりすると、僕は中に入れず閉め出されてしまうのだ。
出かけていなければいいけど――そう思っていたときだった。
「し……」
不意にそんな短い発音が耳に飛び込んできた。たったこれだけでも、ここ半月ほどですっかり聞き慣れた声だとわかってしまう。
そちらに顔を向ければ、きょろきょろと辺りを窺う蓮見先輩の姿があった。
「真壁くん」
どうやら僕を見かけて家と同じように名前を呼ぼうとしたが、まだ駅前、どこで誰が見ているかわからないと思い、改めて呼び直したようだ。
「静流、どうしたのよ。いつもより早くない?」
蓮見先輩はそばまできてから、そう問うてくる。今度は名前だ。
今の彼女は、デニムのロングパンツに袖の短いカットソーというファッション。手には大きめのエコバッグを持っているので、一度家に帰ってから改めて買いものに出てきたようだ。
「今日は委員会の会合があったので。それが終わったら図書室は開けず、とっとと帰ってきました」
答えながら僕は、蓮見先輩の手からバッグを引き取った。
「あ、ありがと。……そっか。委員会ってそんなこともやってたのね。でも、よかったわ。ここで会えて」
「すみません。ちゃんと言っておけばよかったですね」
委員会に無関係の生徒なら、月に一回そんな会合をやっていることなど知らなくて当然だ。僕が事前にひと言言っておくだけで、この事態は回避できただろう。
制鞄とエコバッグを持った僕と手ぶらの蓮見先輩が並んで、黙って歩く。
「……遅くなったけど、帰ったら鍵を渡すわ。持ってなさい」
やがて蓮見先輩がぽつりとひと言。
「いいんですか?」
「いいも悪いも、家族が家の鍵を持ってなくてどうすんのよ。誰もいなかったら閉め出されるでしょうが。あたしはいちいち静流に合わせてられないんだからね」
僕が問い返せば、彼女はやや早口で捲し立ててきた。
たぶん改めてこういう儀式をする気恥ずかしさの反動なのだろう。僕としては「そ、そうですね……」としか言いようがなく、そのままふたりで黙って家路を歩いた。
「悪かったわね」
駅前の喧騒も遠くなってきたころ、おもむろに蓮見先輩が口を開いた。
「お父さんが静流に鍵を渡そうとしたとき、横であたしがいやそうな顔をしたから受け取らなかったんでしょ」
「……」
あのとき蓮見先輩は、いやそうとまではいかないものの、複雑な顔をしていたのは確かだった。自覚していたのか、後で気づいたのか。
「そりゃあ誰だって見ず知らずの人間に家の鍵をあずけるのはいやですよ」
隠しても仕方がないので、僕はそう答える。
「ほかにもいろいろ気を遣わせてるんだと思う」
「それは蓮見先輩だって同じでしょう。赤の他人同士が一緒に暮らそうっていうんですから、少なからずそうなりますよ」
「まぁね」
蓮見先輩は苦笑する。
彼女とて、自分は今まで通りに振る舞うからお前が気を遣えではなく、やはり多少なりとも何か不自由を感じる場面はあるのだろう。
「でも、まぁ、今はもう見ず知らずの人間でもなければ赤の他人でもないわね」
蓮見先輩はどこか言いにくそうに、そう言葉を紡ぐ。
不慮の事故で母を亡くし、ひとり残された僕にとってはありがたい言葉だ。少しだけ胸が熱くなる。
「あんたさ、せっかく早く帰ってきたんだし、夕飯の支度手伝いなさいよね。今日はお父さんもいて三人分なんだから」
照れ隠しなのか、蓮見先輩は一転して横暴にも見える態度で命じてきた。
「そりゃあもう、喜んで」
親愛なる姉上の要望だ。僕はそう答えるしかない。
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