第4話(2)
「さて、と」
僕は意識的に発音してから、閲覧席に目を向ける。
そこには本日の利用者の最後のひとりが残っていた。――奏多先輩だ。
いつもなら時計仕掛けかと思うほど時間ぴったりに図書室を出ていく彼女も、手が離せなかったのか気分が乗っていたのか、今日は六時を過ぎた今もまだ荷物をまとめている最中だった。
「奏多先輩」
そばに行って声をかける。
壬生奏多はこの茜台高校において特殊な存在だ。
その怜悧なほどに整った面立ちと、超然とした態度によって畏怖の対象となり、陰で女帝と囁かれながらアンタッチャブルな扱いとなっている。瀧浪泪華、蓮見紫苑に勝るとも劣らない美貌の持ち主なのだが、先のような理由でそのふたりとともに並び称されることはない。
そして、彼女と僕は同じ中学校の出身だった。つき合いは瀧浪先輩や蓮見先輩よりも長い。
「すぐに出るわ」
「急がなくても大丈夫ですよ」
と、僕は返すが、これは状況を見てのことだ。すでに帰り支度はほぼ終わっているので、多少急いだところでたいした差はない。これが今から片づけるところだったら、図書委員として急かしているだろう。
「瀧浪を待たせているのではなくて?」
「聞こえてたんですか?」
てっきり世の中で起こっていることなど我関せずと、自分のやりたいことに没頭しているものだとばかり思っていた。
「見ていればわかるわ」
さすが奏多先輩。断片的な情報から答えを導き出すには、やはり想像力がものを言うのだろうか。
「お前、相変わらず瀧浪に気に入られているわね」
「いいのやら悪いのやら」
もちろん、嫌われるよりは好かれるほうがいいに決まっている。ただ、相手があの瀧浪泪華となれば、こちらが身がまえてしまうというものだ。
「僕も彼女のことは気に入ってますよ。素直に好きだと言えれば、なおよかったのですけどね」
僕は自嘲気味に笑う。
「真壁静流は恋愛に向いていない」
「そういうことです」
奏多先輩が問うわけでもなく発音し、僕はそれにうなずいた。
「自分の感情に自信がなくても恋愛はできるわ」
「それは不誠実でしょう」
「そう?」
奏多先輩は不思議そうに首を傾げる。
「どんな態度をとれば相手が喜ぶか、どんな言葉をかければ相手の心に響くかがわかるということは、むしろ恋愛に向いていると言える。そういうものではなくて?」
「それじゃ哲学的ゾンビですよ」
クオリアや主観的な意思を持たず、目の前で起きた物理的現象を解析して、適切な反応を返す――それが哲学的ゾンビ。もしそんなのがいたら人間と区別がつかないだろうと言われている。
「言葉は正確に使いなさい。哲学的ゾンビは思考実験上の仮定の話よ。感情のない機械のような人間を揶揄する言葉ではないわ」
「わかってますよ」
さすが文筆家。こういうところはうるさい。
「間違っているのを承知であえて使いますが、そんな哲学的ゾンビみたいな態度で誰かとつき合うのは誠実ではないです」
僕が口答えするようにして反論すれば、奏多先輩は荷物を片づける手を止め、じっと僕を見てきた。
怜悧な美貌に見つめられてたじろぎそうになる。
「そういうことを思えるお前は、決して哲学的ゾンビなどではない」
「……」
「と言いたいところだけど、それすらもできて人間と区別がつかないのが哲学的ゾンビというものね」
「ですね」
僕は苦笑する。
結局のところ、そういうものなのだ。何ができるから人間だ、何ができないから哲学的ゾンビだという話ではない。何せ、人間と区別がつかないと定義されているところからはじまっているのだから。
「でも、それと同じよ。お前が自分の感情はどこまで真実かなんて問いかけても境界線の引きようがない。だからお前は考え続ければいい。そして、瀧浪に対するのと同じくらい、自分の感情にも誠実であればいい」
「……」
絶えず考え続けろ。自分の気持ちに誠実であれ、か。
僕は奏多先輩の言葉を心の中で復唱する。
「さしあたり、お前が考えないといけないのは言い訳のようだけど」
「はい?」
「瀧浪が目を三角にしてこちらを睨んでるわ」
そうだ。瀧浪先輩を待たせているのだった。はっとして図書室の出入り口を振り返れば、そこには腕を組み、口の端を吊り上げている彼女の姿があった。苛々しているのが目に見えてわかる。
「初めての女が忘れられなくて喰い下がっていると、私のほうから――」
「やめてくださいよっ。話がややこしくなりますから!」
僕の口から思わず悲鳴じみた声が出た。
普段は世捨て人みたいな態度なのに、なんで時々積極的に火をつけて回ろうとするのだろうか。
「あー、ほら、もう閉めますから、とっとと出てください」
「横暴な図書委員もいたものね」
奏多先輩はそう言って一度鼻で笑うと、制鞄を持って出入り口へと歩いて行った。
「悪い。遅くなった」
僕は急いで閉室作業をすませ、待っている瀧浪先輩のもとへと向かった。
「奏多先輩、何か言っていったか?」
「……特には」
「そうか」
ほっと胸を撫で下ろす。よけいなことは言わなかったらしい。
尤も、目の前には腕を組み、口を真一文字に引き締めた瀧浪先輩という大きな問題が仁王立ちになっているが。
「ずいぶんと話し込んでたわね」
図書室の鍵を閉める僕の背中に、彼女が非難の響きを含んだ声を浴びせかける。
「哲学的ゾンビについて少々意見交換をね」
「どうやったら退室させにいって、そんなテーマでの議論になるのよ……。本当なんだか下手な嘘なんだか」
瀧浪先輩は呆れたようにため息を吐く。
僕は鍵をかけ終えると、ちゃんと施錠がされているか確認してから歩き出した。瀧浪先輩もついてくる。
「ねぇ、静流? 本当に壬生さんとはどういう関係なの?」
「別に」
職員室に向かいながら――瀧浪先輩が僕に問い、僕は曖昧な答えを返した。
「わたしにも言えないこと?」
「その言い方はずるいよ」
「女だもの」
彼女はさらりとそう言う。
この人は広い意味で女であることを武器にしてくるからたちが悪い。
「僕と奏多先輩は同じ中学の出身なんだ。そのときからの顔見知り。つき合いは瀧浪先輩の何倍も長いよ」
そんな言い方をされれば、さすがに答えざるを得ない。
「そこがいま言える限界?」
「うん?」
「だってそうでしょう? その程度のこと、もったいぶって隠しておくほどのものじゃないわ。ほかにも言いにくい何かがある。ちがう?」
「……」
少し考えればわかることではある。だけど、今の僕は底の浅い誤魔化しとともに、心の中まで見透かされたような気分だった。
「……正解」
「だと思ったわ」
そう言って瀧浪先輩は小さく笑った。
そして、そのまま何かを言うことも、問いを重ねることもなく、黙って廊下を歩き続ける。
「聞かないのか?」
「聞かないわよ」
文章の体をなしていないような僕の質問に、瀧浪先輩は短い言葉で躊躇なく答えた。
「聞いても静流は答えない。なぜなら静流にとってわたしはまだそんなことまで話せるような相手ではないから。でも――今に見てなさい。すぐにわたしのものになってもらうから」
彼女はそう言って、自信ありげに笑う。
瀧浪泪華はどこまでも強い。
断っておくが、僕と奏多先輩の間には、墓まで持っていきたいほどの秘密があるわけではない。言おうと思えば、今ここで言うこともできる。ただ、そうしてしまえば、彼女が見せた意気込みに失礼である気がしたのだ。
(自分の感情に誠実であれ、か……)
僕は奏多先輩の言葉を思い出す。
僕も瀧浪泪華に胸を張って好きだと言えるようになりたいものだ。
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