第4話(1)

 授業は特筆すべきこともなく終わり――放課後。


 僕は図書委員をやっている。しかも、たったひとりでだ。


 仕事はいたって簡単。時間になったら図書室を開け、時間になったら閉める。開室時間中は図書の貸出、返却、予約の受付といった閲覧業務や、図書の配架、書架の整理などが主だ。


 調べてみたら、図書委員会が選書までする学校もあるらしいが、我が校ではひとりしかいない図書委員にそこまでは望んでいないようだ。もしさせてもらえるなら、僕は新進気鋭の時代小説家、士総一郎の著作を購入するだろう。


 それはさておき、学校としてはそれなりの進学校なのに図書室が開かずの間では体裁が悪いので、開けてくれるだけでもありがたいといったところなのだろう。


 授業とホームルームが終わると、職員室へ行って鍵を借り、図書室を開ける。


 そのタイミングを狙ったかのように姿を現し、最初に入ってくるのは壬生奏多――奏多先輩だ。それなりに付き合いが長い間柄だというのに、僕にひと言もなくいつもの席に座って作業をはじめる。


 そこから両手の指の数ほどもいない常連の生徒がばらばらとやってきて――そして、あまり見ない顔が時々出入りする。


 そうして閉室時間である午後六時の十五分ほど前、彼女はやってきた。




「こんにちは、真壁くん」




 旋律的な声音が僕の名前を呼ぶ。


 業務用の端末に向かっていた僕が顔を上げると、そこには大人っぽい美人系の相貌に、時間をかけて丁寧にセットしたような長い髪の女子生徒がいた。


 瀧浪泪華だ。


「ああ、瀧浪先輩。こんにちは」


 閉室時間が迫ってくると、彼女は毎日のようにこうしてやってくる。それまでは教室でクラスメイトとおしゃべりでもしているようだ。


「もうすぐ閉室ね。お疲れ様」

「世はすべてこともなし。お疲れどころか楽なものですよ」


 これでお金がもらえるなら最高なのだが、残念ながら無給の奉仕活動である。


 ふと、僕は直井の『真壁は周りの人に恵まれたんだな』という言葉を思い出し、瀧浪先輩もまた、まぎれもなくそのひとりだと思った。母の葬儀が一段落して僕が学校に復帰してからというもの、彼女は何かと気にかけてくれていた。


 そんなことを考えながら瀧浪先輩の相手をしていると、程なくして午後六時五分前の予鈴が鳴った。


 こんな時間まで残っているのは常連の生徒ばかり。六時になった瞬間、僕が追い出しにかかることを知っている彼らは、さっそく退室の準備をはじめていた。


「ねぇ、静流」


 そうしてただひとりを除いて全員が帰ったところで、瀧浪先輩が僕を名前で呼んだ。




 瀧浪泪華とはこういう人である。


 普段はお淑やかで落ち着いた優等生然とした振る舞いをしているが、僕とふたりきりになると途端に素の顔が出る。蓮見紫苑が裏表のない人なら、瀧浪泪華は裏表がはっきりした人なのだ。


 もともと彼女は、自分や自分の周囲を客観的に見ることができ、周りの人間が自分に何を求めているかを読み取ることに長けていた。


 周りは彼女に美しく聡明であることを求め、瀧浪先輩もそれに応え続けている。


 結果、今の瀧浪泪華が出来上がったのである。言わば、彼女は周囲の人間の理想を体現した偶像アイドルなのだ。




「何か?」


 僕は閉室に向けてカウンター周辺を片づけながら、ぞんざいに答える。


 素の瀧浪先輩の前では、僕も真面目な図書委員、或いは、憧れの先輩を前にした一介の男子生徒を演じるのをやめる。


「さっき話してる間、何回かわたしのことを観察するような目で見てたみたいだけど、どうかしたの?」

「うん?」


 妙なことを言われ、僕は作業の手を止めて顔を上げた。


「……ああ」


 少し考え、何となくこれかなという心当たりがあった。


 すると瀧浪先輩は少しだけ顔を赤くし、周りに誰もいないにも拘らず抑え気味のトーンで囁くように言う。


「その、いちおう言っておくと、今日は静流が選んでくれたやつじゃないから。じゃあどんなのって聞かれると、あんまり色っぽくないから答えに困るんだけど……」

「そんなつもりで見てたんじゃないっ」


 瀧浪先輩といい蓮見先輩といい、どうしてこんなにもこの話題を引っ張りたがるのだろうか。僕としては選んだ時点で終わりにしたいのだが。


「そうなの? だったら何?」


 彼女は追及の手を緩めない。まぁ、不躾に見られていたら、その理由が気になるのは当然のことだろう。


「ふと思ったんだ。母が亡くなって以降、僕はいろんな人に助けられてるってさ」

「そうね。言っちゃあ悪いけど、蓮見さんのお父様が静流を助けるのは親としての責務ね。でも、後は静流の人徳じゃないかしら」

「僕は周りが助けたくなるような人格者じゃないよ」


 計算高くて、何より『欠落』を抱えている。


「で、瀧浪先輩も僕を助けてくれたひとりだと思った」

「わたしが静流を助けるのも当たり前だわ」


 彼女はさらりと言う。


「だろうね。誰に対しても平等に優しいのが瀧浪泪華という人だ」


 周囲の人間がそうあってほしいと望み、彼女はそれに応えた。


「そうじゃないわ。わたしが静流の力になるのは、静流がわたしの『同類』だから。わたしと同じ目をもっていて、同じモノを見てる。わたしにとって静流は特別なのよ」

「……」


 瀧浪先輩は僕を『同類』と呼ぶ。


 僕も彼女同様、その時どきの状況を、僕自身すらも含めて客観視できる。そして、今、自分がどう振る舞うべきか、どんな表情を作るべきか――その最適解を導き出せてしまうのだ。


 だから、『同類』。


「わたしにとっては当然のことだけど、それでも感謝してるっていうのならわたしの彼氏になってくれたらいいわ」

「さすがに代償が大きすぎるな」

「あのね、静流。代償って言い方はないんじゃないかしら?」


 瀧浪先輩は半笑いでそう言う。もちろん、可笑しいわけではない。その言い方は心外だと、軽くキレかけなのだ。


「僕には恋愛なんてものは向いてないんだよ」

「またそれなの」


 僕は彼女からあからさまな好意を向けられながらも、それを素っ気なくあしらう。


 誤解のないように言っておくが、僕は瀧浪先輩のこと何とも思っていないわけではない。それどころかきっと好きなのだろうと思う。


 まだこうやって話すこともなく遠くから見ていただけのときから、大半の男子生徒がそうであるように、僕も憧れを抱いていた。そして、素の顔を知った後も、その裏表のはっきりした性格は好ましくあった。


 だけど、僕には『欠落』がある。


 その場その場で最適な振る舞いをし、表情を作ることに長けすぎたせいで、どこまでが自然発生した感情なのか、どこからが作った感情なのかわからないのだ。


 故に、瀧浪先輩が好きという気持ちにも自信が持てない。そうである以上、僕は彼女の好意に対しても軽々しく応えてはいけないのだ。


「まぁ、いいわ」


 瀧浪先輩はため息交じりに言う。


「感謝の気持ちがあるなら、今日は一緒に帰りましょ」

「まぁ、それくらいならね」

「あ、しまった」


 僕が答えた直後、彼女はそう声を発した。


「そんなにあっさり首を縦に振るんだったら、デートにしておけばよかったわ」

「……」


 逞しいことで。


「ねぇ、静流――」

「言っとくけど、やり直しはきかないよ」


 僕は瀧浪先輩の言葉を遮るようにして言う。


 そこでさらなる追撃を阻むようにチャイムが鳴った。午後六時の本鈴だ。それで気勢を削がれたのか、瀧浪先輩はチャイムの音が鳴り響く中、「まったく……」と諦めのため息を吐くのだった。


「さて、じゃあ、閉室するから外で待っててくれ」

「何か手伝う?」

「大丈夫だよ。今日はたいしてやることがない」


 図書の返却が多い日だとこの時間まで配架作業が残っていることもあるが、今日はそうでもなかった。


「それに」


 と、僕は左腕を見せ、今日から両手が使えることをアピールする。尤も、片腕を吊っていたときでも彼女の手を借りたことはないけど。


「そう。わかったわ」


 瀧浪先輩は笑みをひとつ見せると、踵を返して図書室を出ていった。

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