第2話

 食事を終えると朝の雑事で手伝えそうなことを手伝い、それから部屋に戻って登校の準備をする。


 制服に着替え、制鞄を持って一階に下りると、リビングではやはり制服姿の蓮見先輩が文庫本を読んでいた。


 顔には眼鏡。

 スクウェア型のフレームのそれは、蓮見先輩の相貌を知的なものに演出し、彼女によく似合っていた。


 蓮見先輩は朝、こうして読書をする。


 別にこれが彼女の習慣というわけではない。単に僕と一緒に登校するわけにもいかず、しかも僕がこの家の鍵を持っていないので蓮見先輩が後に出なくてはいけない。時間をずらす間の暇潰しなのだ。


 リビングに目を向ければ、ダイニングテーブルの上には袋に包まれた弁当箱があった。蓮見先輩が作ってくれた弁当だ。


 今まではずっと母が作ってくれていた。でも、その母が亡くなって、もう弁当を食べることもないかと思っていたら、今はこうして毎日蓮見先輩が作ってくれている。自分とおじさんの分のついでだと言うが、それでも多少は手間が増えるだろうし、僕としては十分にありがたい。


「いつもありがとうございます」


 お礼を言って、それを手に取ろうとしたときだった。


「重い」

「え?」


 なぜか蓮見先輩から叱責するような声が飛んできた。


 なぜ怒られたのかわからず、僕はリビングを振り返る。と、蓮見先輩は半眼でこっちを見ていた。


「お礼は言ってほしいけど、『いつも』はいらない。なんか重いから」


 確かに「いつもありがとうございます」は、あらたまって日ごろのお礼を言っているようにも聞こえる。


「じゃあ……ありがとうございます」

「ん。どういたしまして。これくらいお安い御用よ」


 改めてお礼を言い直せば、蓮見先輩からは軽い感じの返事が戻ってきた。


 僕は弁当を鞄の中にしまい、リビングに戻る。そのときにはもう、蓮見先輩は文庫本に目を落としていた。


「やっぱりその眼鏡、よく似合いますね」


 僕は前に一度蓮見先輩に、どうせ眼鏡をかけるのなら自分に似合うものを選べばいい、という趣旨のことを言った。受け売りだけど、眼鏡は誰に怒られることもないアクセサリーなのだ。堂々と凝ることができるのだから凝らないと損だろう。


 だけど、今の眼鏡でも十分に彼女に似合っていた。


「自分の言ったことに責任もちなさいよね」


 蓮見先輩はぱたんと文庫本を閉じると、僕に向かって静かにそう言う。


「はい?」

「あたし、静流が似合うものを選べって言ったせいで、買いにいく気になってんだからね。あんたにはそれにつき合ってもらうわよ」

「……」


 口は禍のもと、だろうか。


「いや、そんなの自分で選べばいいじゃないですか。蓮見先輩がかける眼鏡ですよ」

「わかるわけないでしょ、眼鏡なんてどれも同じだと思ってた人間に。それに瀧浪さんも言ってたじゃない。静流はセンスがいいから意外な部分に気づかされるって。なに、あんた、下着専門なの?」

「変な専門家に仕立て上げないでください」


 矢継ぎ早に言葉を紡ぐ蓮見先輩に、僕はようやくそれだけ言い返す。……そう言えば、売り言葉に買い言葉で僕が瀧浪先輩の下着を選んだとき、蓮見先輩も姿が見えないだけでその場にいたのだった。


「ていうか、そもそも何であんなのをしれっと選べるわけ?」

「しれっとなんて選んでませんよ」


 僕はリビングのほうに戻ると、ソファに鞄を置いた。僕自身は座りはせず、立ったまま話を続ける。


「男があんなところに踏み込むだけでも顔が引き攣るのに、これでハズしたら目も当てられませんからね。頭フル回転で死ぬ気で選びましたよ」


 僕がそう白状すると、蓮見先輩は「ぶはっ」と噴き、笑い出す。


「そりゃそうだわね。……じゃあ、その調子であたしのも死ぬ気で選びなさい」

「下着ですか?」

「ち、ちちち、ちがうわよっ」


 蓮見先輩はそばにあったクッションを掴むと、それを投げつけてきた。僕のほうも慣れたもので、それを片手で受け止める。


「と、兎に角、あんたには眼鏡を買いにいくのにつき合ってもらうから。いいわね」

「わかりました。……で、いつにします?」

「あ、ごめん。それはまだ。決まったらおしえるから、都合が悪かったら言って。そのときは日を改めるわ」


 こちらに拒否権がなさそうな言い方をしておきながら、ちゃんと都合は聞いてくれるらしい。自分勝手にはなり切れない人だ。


「じゃあ、僕は先に出ますので」

「ん。いってらっしゃい」


 僕が制鞄を再び手に持ちながら言えば、蓮見先輩もそう見送りの言葉を返してくる。彼女も電車一本分遅れて出発するのだけど。


 そうして僕はリビングを出た。

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