第1章 真壁静流の新しい日常
第1話
目覚まし時計に叩き起こされて目を開ければ、そこは十六年間使い慣れた部屋ではなくて――。
とは言え、もう半月以上ここを自室としているので、さすがに慣れてきた。
僕は体を起こすと、スヌーズになっている目覚まし時計のアラームを完全に切った。それからベッドを下り、パジャマから部屋着に着替えて部屋を出る。
いま僕がいるのが二階。この邸は広く、一階にも二階にも洗面所がある。その二階の洗面所で顔を洗うと、僕は階下へと下りた。
「おはようございます、蓮見先輩」
そこにいたのは蓮見紫苑。
彼女は学校の先輩であるが、同時に僕の異母姉でもあった。
この僕、真壁静流は母とふたりだけの母子家庭で育った。
だが、その母も先日交通事故で他界した。
あまりに突然のことで呆然としていた僕の前に現れたのが、蓮見先輩のお父さんだった。そこで彼は自分が父親だと名乗り――僕はこの蓮見家に引き取られるに至る。
最初は夏休みに入るころにはこの邸を出ていこうと思っていた。蓮見先輩が快く思わないのは明らかだからだ。ただでさえ同年代の異性の居候なんて受け入れがたいのに、父親の不実の証とくれば尚更だろう。
蓮見氏のほうは、一度は手を差し延べたが僕が自分の意志で出ていったのなら、少なくとも父親の責務は果たしたと納得できるはずだと僕は考えた。
だが、結局、紆余曲折あった末、僕はまだしばらく蓮見家に厄介になることとなったのだった。
「おはよう。起きてきたわね」
蓮見先輩はリビングのソファに腰を下ろし、ガラストップのローテーブルに広げた新聞を読んでいた。だけど、僕が起きてきたことで顔を上げる。
「さっそく朝ごはんにするわよ。手伝いなさい」
そう言って立ち上がった。
リビングにもキッチンにもおじさんの姿はない。県内のとある大学病院の勤務医であるおじさんは、当直に入ったり担当している入院患者の容態が急変して呼び出されたりで留守にしがちだ。
おじさんがいないことは、ゆったりしたサイズのTシャツにドルフィンパンツという蓮見先輩の服装からもわかる。いるときは親の目を気にしてか、ごく普通の普段着なのだが、いないと途端に露出度高めのファッションになるのだ。できれば僕の目も気にしてもらいたい。自分がグラビアアイドルにも引けを取らないスタイルの持ち主だという自覚はないのだろうか。
蓮見先輩とともにキッチンへと移動する。
彼女は手伝えと言うが、ダイニングテーブルを見ればもうほとんど出来上がっているようなものだった。皿に盛りつけるとか、もう一度火を入れるとか、残っているのはそんな作業ばかり。
「……」
やはりそろそろちゃんと家の中のことを手伝うべきだろうと、僕はその光景を見ながら思う。掃除、洗濯、食事の用意。何でもいい。
以前はいずれこの家を出るつもりだったから、赤の他人になる僕が家の中のものをあれこれさわってもと思い、遠慮していた。だけど、まだしばらくはここで厄介になるのだから、できることをやらねば。働かざるもの食うべからず、だ。機会を見て言い出すべきだろう。
「なに、まだ寝惚けてるの?」
「あ、いえ、そういうわけじゃ……」
蓮見先輩の声にはっと我に返り、僕は手を動かす。ここでの僕の仕事は食パンを焼くことだ。さっそく袋からパンを二枚取り出す。と、それで袋は空になった。
「蓮見先輩、これで最後です」
「ん、わかった。今日帰りに買ってくる」
僕が二枚の食パンをトースターの中に並べながら言えば、蓮見先輩も何やら準備をしながらといった感じの返事をした。
(買いものか……)
考えてみれば、買いものも家事のひとつだ。
これとこれを買ってこいと言われればいくらでも行くのだが、どうも蓮見先輩は行ってから考えるタイプのようだ。なら、僕にできそうなのは荷物持ちくらいか。
「今度休日の買いもの、一緒に行きますよ」
「そう? 男手があると遠慮なく買えていいわね」
どうやら役に立てそうだ。
「って、ちょっと待って!」
急に蓮見先輩が大きな声を出した。驚いて振り返れば、彼女もこちらを見ていた。
「休みの日に静流と一緒に買いものって、誰かに見られたら誤解されるんじゃ……?」
「誤解?」
「いや、だから同棲とか、一緒に食材の買い出しにいく仲とか……」
ごにょごにょと、普段快活な彼女にしては不明瞭な発音が続く。
「ああ、そういうことですか。誤解どころか正しい認識でしょう。一緒に住んでいるわけですから同棲で間違いないです」
「ッ!?」
蓮見先輩の口から声にならない悲鳴がもれた。
「あたしたち、どっ、同棲してたの!?」
「……」
蓮見先輩は僕とはちがう意味で恋愛がピンとこない人だから、免疫というか耐性というか、そういうものがないのだろう。男女に関する単語に過剰な反応を示すようだ。
「大丈夫ですよ。傍若無人な先輩と休日にこき使われてる後輩にしか見えませんから。ある意味それも正解です」
「あんたねぇ。……静流のベーコンエッグだけ焼きすぎるわよ」
「すみません。冗談です」
そんなことをされたら、僕も蓮見先輩の食パンだけうっかり焼きすぎなくてはいけなくなる。そうなるともうパンのストックがないわけで、その焼け焦げた食パンは僕が食べることになる。
程なくしてオーブントースターが甲高い音を鳴らした。僕は扉を開け、食パンの焼き上がり加減を確認する。いい感じだ。僕はそのまま庫内から食パンを取り出すと、すでにテーブルの上に用意されていた白いパン皿の上に置いた。
「こっちももうすぐだから。ちょい待ち」
と、蓮見先輩。
「ほい、できた」
僕が冷蔵庫からジャムを取り出したり、サラダをボウルから皿に取ったりしていると、程なくーコンエッグが焼き上がった。
蓮見先輩が、器用にもふたつ同時に焼いたらしいそれを皿に移し、朝食の完成だ。
「「いただきます」」
それぞれの席につき、ふたりだけの食事がはじまる。
「そう言えば、今日あたりね」
その途中、蓮見先輩がやにわに口を開いた。
「何がです?」
「七夕の笹」
「笹?」
意味がわからず、僕は聞き返す。
後の単語を先の蓮見先輩の台詞に代入すると、『今日あたり七夕の笹』となる。さっぱりわからない。
「去年見なかった? 昇降口の笹」
「あぁ」
そこまで言われてやっと思い出した。
僕たちが通う茜台高校では、七夕が近くなると下駄箱がある昇降口の広い場所に大きな笹が立てられるのだ。そばには短冊が置いてあり、生徒は好きに願いごとを書いて笹に結びつけることができる。
しかし、ただそれだけ。それ以上のことは何もない、イベントとは到底呼べないような恒例行事だ。まぁ、十日ほど後には期末テストの真っ只中ということを考えればそんなものか。笹は七夕を過ぎれば、短冊ごと処分されるとのことだ。
ただ、生徒の間ではそこそこの遊び場となっている。思わず笑ってしまうようなことを書いたり、匿名で愛を叫んだり。過去には名前つきで告白を書いた猛者もいたと聞いている。
「あんたも何か書いたの?」
蓮見先輩が食パン片手に聞いてきた。
「いえ、特には。去年と言えばまだ一年ですからね。手を出していいものかどうか迷ってました」
「ま、そんなものか。あたしも一年のときは見上げるだけだった気もするし」
彼女は納得する。
「蓮見先輩は?」
「あたしが星に願いをってガラだと思う?」
「そういうかわいい面があってもいいと思いますけど」
「かわいいって言うな」
僕の答えに蓮見先輩は赤い顔で不機嫌になりながら、スリッパを履いた足で僕の脛にコツンと触れる。
もちろん、どういうわけか、などと言うつもりはない。蓮見紫苑という女性はかわいいと言われることにめっぽう弱いのだ。人懐っこい性格で男女関係なくフレンドリーに接するが、決してボーイッシュでもなければ中性的でもない。かわいいと形容するのがいちばんぴったりくるので、普段からよく言われてそうな気もするのだけど、そうでもないのだろうか。
「あたし、そもそもあのイベント自体、あんまり好きじゃないのよね」
と、蓮見先輩はわずかに顔を歪めながら言う。
「そうなんですか?」
「うん。あたしとか、あと瀧浪さんもそうなんだけど、短冊の願いごとに名前が出てくることが多いのよ」
「あぁ、なるほど」
瀧浪泪華の名前が挙がったことで、今度は僕が納得した。
要するに、記名か無記名かはさておき、好きですと告白されることが多いのだろう。何せ我が茜台高校が誇る美少女の双璧である。とは言え、本人からしたらそんなことを天の川経由で言われても困るわけだ。
「言っとくけど、あんたが思ってるようなことくらいならまだかわいいほうよ」
「というと?」
「……わりと品のないことまで書かれるのよ」
蓮見先輩は憎々しげに言葉を吐いた。
「やってるほうは内輪の悪ふざけでゲラゲラ笑いながらやってるんでしょうけど、こっちはたまったものじゃないわよ」
「……」
確かに男子の中にはそういうことをやりそうなのが一定数いるか。
「それはまた我が校の男子生徒を代表して謝りたくなるような話ですね」
さすがにこれには同情を禁じ得ない。何せ蓮見先輩にとっての最も身近な異性である父親は、母親を裏切り、外で子どもまで作っていたのだ。その上で自身も男子生徒の品のない冗談にあてられれば、男性不信になってもおかしくない。
「なに、あんたもやってるの?」
「やってませんよ」
さすがにそんな連中と一緒にされるのは心外だ。先にも述べた通り、まっとうな願いごとすら書いていない。
「思ったことは?」
「……」
蓮見先輩が重ねてきた問いに、僕は黙り込む。
「怒らないから言ってみなさい」
「……『いつか蓮見先輩の水着姿が見れますように』」
「ばーか」
少し考えた末、僕がやや冗談めかせて言えば、間髪容れず蓮見先輩も呆れ半分苦笑半分で返してきた。
「あんた、ホント思ったまま口にするのやめなさいよね」
「……」
最近言えと言われて本当に言ったら、たいていろくな目に遭わないな。
「……ま、もう夏なんだしプールに行くのもいいかもね」
不意に蓮見先輩が、どこか言いにくそうにぽつりと口にした。そして、そのまま少し赤くなった顔で黙々と食事を続ける。
この空気はよろしくない。
「えっと、それは過激なのを期待――」
「するなっ」
噛みつきそうな勢いで蓮見先輩は吠える。
「まったく、これだから男は……」
蓮見先輩はまたも呆れ顔でため息を吐く。
「そう言えば、今度映画鑑賞がありますね」
さっきよりも多少空気がよくなったところで、僕は話を変えるべく新たな話題を振る。
「あったわね、そんなのも」
蓮見先輩はセンサーが反応したかのように眉をぴくりと動かしてから答えた。
近々、学校行事として映画鑑賞があるのだ。学校で見るのではなく、わざわざ三宮の映画館を借りて行われるあたり、課外授業の一環なのだろう。
「現地集合で、映画を一本見たら現地解散。授業もなし。ま、ボーナスステージみたいなものね」
去年、一昨年と、すでに二回経験した最上級生は言う。
当日は制服の着用は義務付けられていなくて、全員私服。それで昼過ぎには現地解散なら、そのまま遊びに繰り出すのは至極当然の流れだ。しかも、金曜日で、休みの前の日ときている。蓮見先輩がボーナスステージと表現した所以だ。
「静流も図書室を開けなくていいから楽できるんじゃない」
「そうですね」
もとより図書委員の業務を苦に思ったことはないのだが、ここは蓮見先輩に話を合わせておくことにした。
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