エピローグ
エピローグ
週明けの月曜日。
「ねぇ、真壁くん。本当にその手で大丈夫なの?」
放課後の図書室には、いつもより早い時間にやってきた瀧浪泪華の心配顔があった。
土曜日、その直前まで彼女といたこともあり、病院での治療が終わって家に帰ってきた後、ケガをしたことは伝えておいた。日曜日には見舞いにくるというのを断ったせいで逆にいてもたってもいられなくなったようで、本日はこうしていつもより早い登場となったようだ。
「大丈夫ですよ。やれることしかやりませんから」
そもそももとからたいした仕事はないのだ。腕に負担をかける仕事があるとしたら返却図書の配架だが、そこは素直にブックトラックを使うなり、あまり溜め込まないで少しずつ書架に返すなりすればどうとでもなる。
「そう。でも、むりはしないでね。何かあったらわたしを頼ってくれたらいいわ」
「ありがとうございます」
お淑やかな優等生モードの瀧浪先輩に、僕はお礼を言う。
態度に裏表のある彼女だが、言うことに嘘はない。心配してくれていることは言うまでもなく、手伝うと言った以上それも本心なのだ。
「ところで、静流?」
と、そこで彼女はカウンター越しにぐっと顔を寄せてくる。僕を名前で呼んだということは裏の顔、素のほうだ。
そうしながら口もとを掌で隠し、囁く。
「今日、静流が選んでくれたのをつけてるんだけど――」
「ッ!?」
「やっぱり言っておいたほうがいい?」
僕は思わずカウンターに頭を打ちつけそうになった。
「一度いらないと言ったはずだけど? それにもう言ってるのと一緒だろうが……」
「あら、確かにそうね」
何を素っ惚けたことを。わざとやっているくせに。
僕が呆れてため息を吐いたそのときだった。
「しず……じゃない。ま、真壁くん、何かあたしに……って、あれ? 瀧浪さん?」
図書室に入ってきたのは蓮見紫苑だった。
「瀧浪さん、ここで何してるの?」
「もちろん、何かわたしに手伝えることがあるかと思って。そんな手じゃ何をするにしても大変でしょうから」
彼女も裏の顔を知っているひとりだが、人目がある手前、瀧浪先輩は優しい最上級生の顔で答えた。切り替えが早い。
「実際にはおそろしくどうでもいい話をしてますけどね。本人はいちおうそのつもりできたみたいですよ」
「そういう蓮見さんは? もしかしてあなたも真壁くんを手伝いに?」
僕の皮肉を無視し、瀧浪先輩は何ごともなかったかのように蓮見先輩に問い返す。
「ハァ? まさか。そんなわけないでしょ」
瀧浪先輩も意地が悪い。そんなからかうような聞き方をすれば、蓮見先輩が素直にうんとうなずくはずがないのに。
おそらく瀧浪先輩の言う通りなのだろうと思う。何だかんだで、家でも不便なところを補助してくれている。だけど、蓮見先輩はそれを認めるのが気恥ずかしかったのか、咄嗟に否定してしまった。
じゃあ、何をしに図書室にきたんだ、という話になるわけだが。
「ま、まー、でも? そういう考え方もあるかもね。弟のフォローは姉であるあたしがするから、瀧浪さんは帰ってもらってもいいわよ」
蓮見先輩はそう切り返し――やられたらやり返す。とは言え、バレバレなのをわかっていて苦しい嘘を吐くのも辛かろうにな。
「そうはいかないわ」
と、瀧浪先輩。
「家で一緒にお風呂に入って体を洗ってあげたりできる蓮見さんとちがって、わたしは学校でしか真壁くんと会えないもの。せめて学校でのことはわたしにやらせてもらいたいわ」
「そんなことするわけないでしょッ」
「してもらってませんよ、そんなことっ」
僕と蓮見先輩が同時に叫ぶ。
「あら、そうなの? てっきりそれくらいしてあげてるのかと思ったわ。ケガをした手じゃ、ひとりで髪を洗うのも大変よ?」
「え? あ、確かに……」
「騙されたらダメです、蓮見先輩。瀧浪先輩はからかって楽しんでるだけですから」
何を『言われてみればそうかも……』みたいな顔をしているのか。前に煽られたときと言い、今のことと言い、意外と乗せられやすい人だな。たぶん瀧浪先輩もそう思って、わざとやっているのだろうけど。
はっと我に返る蓮見先輩。
「あ、あんたねぇ……」
「あーら、ごめんなさい。でも、水着を着たらきっと大丈夫よ」
「そういう問題じゃないわよっ」
睨み合うふたり。
そして、僕はというと、
「ほかの生徒の迷惑になるので、ふたりとも出ていってくれませんかね?」
彼女たちを追い出すことにした。
「奏多先輩」
午後五時五十五分の予鈴が鳴り、残っていた生徒がバラバラと帰りはじめたタイミングを見計らって、僕はいつもの席に座る壬生奏多のところへ行った。
彼女はいつも通りノートにペンを走らせていた。相変わらずアナログなスタイルだ。
「静流。……途中、何だか賑やかだったわね」
「すみません。今だけだと思うので」
彼女たちを大人しくさせるためにも、この腕を早く治さないとな。努力でどうにかなるものでもないだろうが。
「ひとつ報告しておきます。僕、もうしばらく蓮見家にいることになりましたので」
「そう」
しかし、奏多先輩の反応はそれだけだった。興味など微塵もない様子で、筆記用具とノートを鞄に片づけはじめる。
「あれ? 喜んでくれないんですか?」
「だからお前は私に何を求めているの?」
実に冷たい返しだった。
「だいたい、こうなるような気がしていたわ。それに私はお互いがどこにいようとも静流との関係が変わらないことを知っている。お前が予定通りこの地を離れたとしても何も変わらない。どうせお前のことだから、私がこいと言えば地球の裏側からでも飛んでくるのではなくて?」
「まぁ、そうですね。奏多先輩とのつき合いも長いですから」
奏多先輩とは僕が中学に上がったときに知り合った。
もう今年で五年目になる。
「初めての女が忘れられないなんて、お前も案外女々しいわね」
「あ、あの、奏多先輩? だから言い方をもう少し考えていただきたいのですが?」
顔が引き攣る思いだ。絶対に人には聞かせられない。
「表現レベルの話よ。言い方を変えても本質は変わらない」
しかし、奏多先輩はあっさりしたものだった。僕の内心の焦りを気にした様子もなく、彼女は続ける。
「試験が終わったら出かけるわ。お前もついてきなさい」
「そりゃあもう、喜んで」
奏多先輩がそう言い出したのなら僕に拒否権はないし、拒否する理由もない。真壁静流にとって壬生奏多とはそういう存在だ。
思えば蓮見先輩との関係は、この一ヶ月で大きく変わった。互いに顔を知っている程度の先輩後輩から姉弟へ。
瀧浪先輩とは、これから関係が変わっていくかもしれない。本人にはいろいろ言っているが、僕は彼女のことを好ましく思っているので、変わる可能性はおおいにある気がしている。
では、この奏多先輩とは?
やっぱり彼女の言う通り、お互いがどんな状況になろうとも変わらないのだろう。それだけ僕たちは最良の関係にあるのだ。
変わらない関係。
それは素晴らしいものであり――でも、少しだけ寂しい気がした。
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