第3話(1)

 放課後は図書室を開ける。


「ねぇ、真壁くん。今日のお昼、学食であなたと蓮見さんが難しい顔で話をしてたって聞いたのだけど、何かあったの?」


 そして、利用者が少なくなってきた遅めの時間になると、瀧浪泪華が現れた。


「ああ、そのことですか。……いえ、ただ弁当が口にあったかどうか聞かれていただけですよ」


 場所柄、僕と蓮見先輩が話している間にそこそこの数の生徒が通っていったから、瀧浪先輩の耳にも入ったのだろう。彼女は僕たちの複雑な関係を知っているので、純粋に心配してくれたにちがいない。


「お弁当?」

「ええ、蓮見先輩が作ってくれたんです」


 話の内容が内容だけに、声のトーンを落とす


 すると瀧浪先輩は急に苦虫を噛み潰したような表情になり、顔を斜め下に向けた。


「わたしとしたことが、その手があったわね」


 大丈夫だろうか。我が茜台高校の男子生徒の憧れの的、瀧浪泪華が人前でしてはいけない顔をしているのだが。


「学食で何度か会っていたのに、迂闊だったわ。最初からわたしが作ってあげていれば、今ごろ静流はわたしのものになっていたかも……」

「……」


 食べもので釣る気満々だな。


「仮にそうしたとして、僕のところに持ってくるわけにはいかないだろうが」

「日ごろお世話になっている図書委員がお母様を亡くして大変な思いをしているからとか、何とでも理由はつけられるわ」


 利用できそうなものは何でも利用しそうな勢いだな。まぁ、僕が久々に登校してきたときからそうだったし、今さらではある。


「わたしが静流を狙っていることは蓮見さんも知っているわけだし、言ったら代わってくれるかしら」

「……」


『狙う』という単語のチョイスのせいか、弁当を作るという微笑ましい行為が途端に肉食動物の企みに聞こえてくる。


 と、そのときだった。


「あ、瀧浪さん、こんにちは」

「ええ、こんにちは」


 ひとりの女子生徒が入室してきて、瀧浪泪華の姿を見るや挨拶をしてきた。瀧浪先輩はくるりと振り返ると、人当たりのいい大人びた笑顔で返す。


「あぁ、そうだ。雑談をしてる場合じゃなかったわ……ねぇ、真壁くん。本を探してほしいのだけど」


 ここが図書室で、まだ出入りする生徒も多い時間だということを思い出したのか、彼女はその笑顔をカウンターをはさんだ僕にも向けてきた。見事な変わり身である。


「何ですか? 僕でよければお手伝いしますよ」

「本当? ありがとう。助かるわ」


 なんとも、まぁ、絵に描いたような優等生と図書委員の会話だ。しかし、瀧浪先輩には先ほどの裏の顔があり、僕にもそれに対するそれ相応の態度がある。それを思えば実に外面のいい、白々しいやり取りだ。


 だけど、僕はこれがきらいではない。


「探しているのはフランス語訳された『源氏物語』なのだけど……うちの図書室にあるかしら?」

「フランス語の『源氏物語』? そんなものがあるんですか?」


 うちにあるか以前にそんなものが存在するのか。

 にわかには信じがたい思いで、僕はカウンターの端末を叩く。


「ん? 『Le Dit Du Genji』。これか、な?」


 半信半疑で検索したら、本当にそれらしきものがヒットした。本当にあることにも驚いたが、この図書室に所蔵されていたことにも驚いた。フランス語の発音はわからないので、アルファベットをそのまま読む。


「あった? 見せて」


 喜色満面でそう言い、瀧浪先輩はカウンターに身を乗り出すようにして端末の画面を覗き込んでくる。モニターの下には利用者にも画面を見せるために回転台があるから、そんなことをしなくてもいいのだが……きっとわざとやっているのだろうな。


 僕は彼女のほうを見ないようにしながら書誌事項に目を通す。……どうやら三分冊の本体にブックレットという構成でケースに入っているようだ。


「フランス語が読めるんですか?」

「まさか。英語も古文もやっと読んでるわ」


 よく言う。どちらの科目も成績上位者として名を連ねているだろうに。


「その本、挿絵がきれいだって人から聞いたから、一度見てみたかったの。ここにあってよかったわ」


 瀧浪先輩は相変わらずカウンターに身を乗り出した姿勢のまま画面から僕のほうに顔を向け、嬉しそうに笑う。


 近いし、目のやり場に困る。


「取ってきますよ」


 僕は立ち上がり、逃げるように書架へと向かった。




                  §§§




 午後五時五十五分の予鈴が鳴った。


 閉室五分前ということで、生徒はもう片手で数えられるほどしか残っていない。そのひとりがいつもの席に座ってノートにペンを走らせている奏多先輩で、もうひとりが瀧浪泪華だ。


 瀧浪先輩は僕が持ってきたフランス語訳の『源氏物語』を、奏多先輩からは離れた席に座って眺めていた。が、残っていた生徒がバラバラと退室していき、後は自分と奏多先輩だけになったところで立ち上がった。


「静流、この本ありがとう。もういいわ」


 こちらにくると、件の本をカウンターに置いた。


「借りないのか? ずいぶん熱心に読んでたみたいだけど」

「そうね。最初は文学少女を気取れば静流の気を引けるかと思ってやってたんだけど、途中から真剣に見入ってわ。確かに挿絵がきれいだったわね」


 何やら打算的なことをさらりと言う瀧浪先輩。


 まぁ、わざわざ口にしてしまうあたり、打算的になり切れないところなのかもしれない。……と、僕にそう思わせるところまで計算のうちなら怖ろしいことだが。


「なんか文章が読めないのがもったいない気がしてきたわ。大学に行ったらフランス語をとろうかしら」

「いいんじゃないかな」


 僕はその本を手に取ると、カウンターの中にある返却本のブックトラックに載せた。明日書架に戻すことにしよう。


「ねぇ、静流。こういうのどうかしら?」


 体の向きを戻すと、瀧浪先輩がまたもカウンターに身を乗り出すようにして両肘を突き、組んだ両手の上に顎を載せていた。挑発的な視線をこちらに送ってくる。


「気にならない?」


 そのポーズもまた挑発的だ。何せブラウスのボタンをひとつ外しているのだ。しょせん日本人のスタイルだから胸の谷間が見えるようなことはないが、奥にどんな光景が広がっているのか気になるのは男なら当然だろう。


「今なら誰もいないし、遠慮しなくていいわよ」


 加えて、吐く台詞は挑発そのもの。


 そう、これで二度目。先ほど僕が図書を検索したときにも、それとなく同じことをしていたのだ。


「くだらないことやってないで、とっとと出ていってくれないか。もう閉室時間だ」


 あと、誰もいないわけではない。奏多先輩もいることを忘れてくれるな。


 普通の男なら眼球が気持ち悪いくらい高速で動き回りそうなところだが、僕はひとまず彼女から距離をおいた。キャスター付きチェアの背もたれに上体をあずけ、図書委員として退室を促す。


 瀧浪先輩は僕のその態度がご不満だったようで、体を起こすと不機嫌そうに手を腰にあてた。


「あのね、静流? こっちは女としての尊厳をかけてやってるんだから、それなりの反応というものがあると思わない?」

「女としての尊厳をかけてやる以上は失敗も成功も自分で責任を負ってくれ」


 こちらに忖度を求められても困る。




「静流は女の体なんて見慣れているのよね」




 と、そこに割って入ってくる声。もちろん、今ここに残っている最後のひとり、壬生奏多のものだ。


 いつの間に帰る準備をした奏多先輩がそばまできていた。


「え、壬生さん!? し、しず……ていうか、見慣れてるって……?」


 どうやら驚くことや聞き捨てならないことがありすぎて、口にすべき言葉が見事に渋滞してしまったようだ。


 瀧浪先輩は、一度は反射的に奏多先輩を見たものの、改めてこちらを睨む。


「見慣れてるってどういう……はっ、まさか蓮見さん!?」

「ちがう!」


 どうしてそうなる。まぁ、僕の私生活において女性らしき影は蓮見先輩しかいないので、当然の連想か。実際、彼女のおおらかな性格からくる露出度の高い普段着も、最近は少しずつ見慣れてきている。


「じゃあ、誰なの?」

「まぁ、それは……」


 カウンターに持を乗り出すようにして詰め寄ってくる瀧浪先輩の迫力に、僕は思わずたじろぐ。


 が、そこではっと気づいた。――なぜバカ正直に返答に窮しているのだろうな。


「待て。そんなものあの人の冗談に決まってるだろ」

「え? 冗談……?」


 瀧浪先輩はきょとんとする。


 どうしてその可能性を真っ先に考えないのか。僕が女っ気のない地味な図書委員なのは一目瞭然だろうに。


「そうなの?」


 彼女は奏多先輩を見る。


 が、しかし、


「さぁ?」


 奏多先輩の返答がこれ。実に意味深な笑みとともに肩をすくめてみせる。僕の口から思わず「げ……」という声がもれた。


「静流に聞いてみたら?」


 そう彼女が言うと、瀧浪先輩は再び僕へと向き直った。ぐりんと首を回す動きが、ややホラーだ。そうしてから、ずい、と顔を寄せてくる。


「ねぇ、静流? あなた、わたしに何か隠してない?」

「そりゃあ僕が瀧浪先輩に言ってないことなんて星の数ほどある」

「例えば?」


 と、彼女は真顔で問うてくる。


「実は十歳くらいの女の子と時々会ってるんだ」

「へぇ、そうだったの。知らなかったわ。今度紹介してね」


 やはり真顔。


「わたしだってあるわ。最近測ったスリーサイズとか。……言ったほうがいい?」

「けっこうだ」


 額がくっつくような距離で対峙しながら、僕たちは何をバカなことを言っているのだろうな。


「そうね。こういうのは知りたくないときに言っても仕方がないし、知りたいときにすんなりおしえるのも面白くない気がするわ」


 おしえる気がないのならそう言えばいいのに。


「わたしが聞いてるのは『言っていないこと』ではなくて、『隠していること』よ。静流は何か大切なことを隠してる気がするわ」

「……」

「黙ったわね。ねぇ、どうして黙るのかしら?」


 瀧浪先輩は口の端を吊り上げる。


 黙るついでに目を逸らしてみれば、ちょうど奏多先輩が図書室の扉から出ていくところだった。


「あ、奏多先輩……!」

「これが修羅場というやつね。いいものを見せてもらったわ。……さようなら、ふたりとも」


 呼び止めようとするも、しかし、奏多先輩は呑気なもので、火種を蒔くだけ蒔いてそのまま帰っていってしまった。まさに放火魔ファイヤーバグの所業だ。

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