第2話(1)
その昼の昼休み。
「おーい、真壁。学食いこうぜ」
誘ってくれたのは直井だ。
最初は僕のほうから声をかけていたのだが、最近では当たり前のように呼んでくれるようになった。ありがたい話だが、今日は生憎と学食に行けない理由があった。
「悪い。今日は買ってきてあるんだ」
僕がそう答えると、教室のすでに出入り口まで行っていた彼は、わずかに難しい顔をした。
「先に行っててくれ」
直井は待っていた仲間たちにひと言そう告げるとこちらにやってきた。
「最近あまり一緒に喰わなくなったけど、もしかしてこの前、俺がこっちにこいなんて言ったからか?」
直井はどこか申し訳なさそうに聞いてくる。あの誘いのせいで僕が距離をとろうとしていると思ったのだろう。
「それは関係ないよ。言っただろ、今日は買ってあるって」
僕は制鞄を指で弾いてみせる。
「本当か?」
「本当だって。なんなら見せようか?」
「いや、いい。……そうか。それならいいんだ」
どこか少しだけ疑念を残しつつ、直井が納得したときだった。
「恭兵君、別にいーじゃん。本人が行かねーって言ってんだからさ。ほっとけばいいんだよ」
それは少し離れて様子を窺っていたグループメンバーのひとりだった。敵意を剥き出しにした、苛立ったような言い方だ。
「そんな言い方ないだろ」
直井が叱りつけるように言うと、そいつはふんと鼻を鳴らし、先に出ていった別のメンバーを追って廊下に消えていった。
「悪いな、真壁」
困ったものだとばかりに苦笑する直井。
「うちに誘ったことはもう忘れてくれ。真壁には真壁の落ち着く場所があるだろうしな。でも、また一緒に喰おう。いつもで声をかけてくれ」
「ありがとう」
そうして直井は去り際までイケメンぶりを見せつつ、仲間を追って出ていく。
「さて、と――」
僕はそう声に出して言うと、気を取り直して教室を見回す。と、目当てのものはすぐに見つかった。刈部景光がコンビニの袋を持って辺志切桜のところへ行き、一緒にお昼を食べようとしていたのだ。そこに僕が加わって、三人で食べるのが去年からついこの前まで続いた習慣だった。
「久しぶりに僕も一緒させてもらうよ」
僕は自分の弁当を持ってふたりのところに寄っていった。
刈部が辺志切さんの前の席に横向きに座り、僕が彼の隣、辺志切さんから見て斜め前に座るのがいつもの布陣だ。
「真壁は直井のことを買っているようだが、ほかの連中はそうでもないぞ」
僕がその席に座るなり、刈部はいきなりそう切り出してきた。
「あいつらは直井がお前を気に入ったことで、グループに異分子が入るんじゃないかと警戒してるんだ」
「よくないよ、そういう分析を口にするのは」
僕とてついつい状況や人の行動を分析しがちで人のことは言えないが、いちいち口に出して言うことはない。
しかし、刈部が言ったことは正しかった。
前にも述べた通り、リーダーの直井恭兵は誰でも受け入れる度量の持ち主だ。仲間だけを囲うような壁は設けていない。だが、彼の周りはそうでもない。実に排他的で、直井恭兵の仲間は自分たちだけでいい。スクールカーストのトップに君臨するのは片手の指の数ほどもいらないという、ある種の選民思想を持っているのだ。
だから、直井が僕を気に入ったことを快く思っていないし、ましてや仲間を増やそうなどとは微塵も考えていない。直井の手前、僕とは好意的に接しているが、先ほどの彼のようにあからさまに敵視しているやつもいる。
とは言え、僕は直井のグループに入ろうとは欠片も考えていないので、彼らの心配も杞憂というものだろう。
その話はさておき――僕は弁当箱を袋から取り出した。
「買ってきた昼飯には見えんな」
それを見て刈部が皮肉っぽく言う。その彼の昼食は、朝コンビニで買ってきたらしいサンドウィッチだ。
「我が最愛の姉上、蓮見先輩のお手製の弁当だよ」
直井が本当に見たがったら危なかった。
僕はフタを開けると、弁当箱を手で持って体ごと刈部のほうへと向く。
「仲がいいようで何よりだ」
「どうだろうね」
僕は苦笑する。
蓮見先輩は別に僕を憎んでいるわけではないと、ただ生まれてきただけの僕に罪はないと言ってくれた。だが、そのことと家族として受け入れられるかは、また別の問題だろう。今朝は弁当を作ってくれて、普通に話もしていたが、それはひとつ屋根の下に暮らしている縁であったり、母親を亡くしたことへの同情であったりが大きいのではないだろうか。
「ああ、辺志切さん、今日の眼鏡、久しぶりだね」
「え? う、うん……」
僕は自分の不用意なひと言で場が暗くなりそうな雰囲気を感じ、話題を変えるべく辺志切さんに話を振った。
彼女は眼鏡を複数持っていて、その日の気分で変えているようだ。同じものを二日と続けてかけているのを見たことがない。前に蓮見先輩に言った眼鏡をアクセサリー感覚でかけている女の子とは、何を隠そう辺志切さんのことだ。
ただ、彼女はあまり冒険はしない性格らしく、どれもクラシカルで定番のウェリントン型。微妙に色や、フレームの太さがちがうだけだ。それでも最初に気づいたのが刈部であり、その次が僕。彼女はお世辞にも注目される人物とは言えないので、いったい何人がそのことに気づいているやら。
「刈部、何日ぶりだったっけ?」
「確か先週の水曜日以来だから、五日ぶりだな」
刈部は記憶を手繰り寄せるような素振りもなく、昨日の晩に食べたものを述べるが如くすんなりと、しかし、実に興味なさげに答えた。
「もう、そんなの覚えてなくていい……」
「記憶力がいいんだよ」
素っ気なく言ってサンドウィッチを口に運ぶ刈部。その彼を辺志切さんは恨めしそうに見つめている。
そして、僕はというと、
「何を笑ってるんだ?」
「いや、別に」
刈部に問われ、答える。
もちろん、笑っていた。刈部と辺志切さんのやり取りが面白かったのもある。だけど、もっと大きな視点で言えば、きっと僕はこちらのほうが性に合っているのだろう。
先週までは直井のグループと一緒に食べていた。僕の性質上、賑やかな彼らともそれなりにうまくやれるが、どちらかと言えばこのふたりとともに教室の片隅でひっそりといるほうが好みなのだ。
これも蓮見先輩が弁当を作ってくれたおかげであり、つまるところ僕はひとつ日常を取り戻したということなのだろう。
刈部は僕の誤魔化すような答えに興味を失くしたのか、それ以上何も言わなかった。他方、辺志切さんは何か言いたげだったが、やはり何も言わない。
そうして話題を別のものに移しつつ、まずは刈部がコンビニで買ってきた二種類のサンドウィッチを平らげ、僕が蓮見先輩製の弁当を完食し、最後に辺志切さんが自分の弁当を食べ終えた後、
「あ、そうだ。真壁くん」
そう言って辺志切さんが、鞄の中にしまった弁当箱の代わりに一冊の本を取り出してきた。
高橋和巳著、『わが解体』。
実に渋い趣味だ。
その本はとても古そうだった。おそらく最近のものではなく、発表後間もないころのものだろう。そして、よく見れば我が校の名前が入ったバーコードが貼られていた。どうやら図書室で借りたものらしい。
とは言え、唯一の図書委員が僕なのだから、貸出処理をしたのも僕であるにちがいない。ただ、僕は貸出の際に図書のタイトルはできるだけ意識しないようにしているので、覚えていないのも当然だ。
「この本の、ここ」
辺志切さんはその本のページを開く。
それはいいのだが、
「辺志切さん、付箋はあんまり……」
「え? あ、うん。剥がすとき気をつけるから」
僕が指摘をすると、彼女は言い訳のように言葉を返す。
「ダメなのか? 俺もよくやるんだが」
と、横から刈部。
「付箋って意外と剥がすときにページを破るんだよ。特に強粘着を謳ってるやつ。それとこれみたいに本自体が古い場合、ページが劣化してることがあるから普通の付箋を普通に剥がそうとしただけで破れる」
付箋をつけたまま返しにきた場合、基本的には自分で剥がさせるのだが――いったい今まで何人の生徒が慌てて剥がそうとしてページまで破ったことか。おかげで最近では僕のほうでやるようになった。
まぁ、本好きの辺志切さんなら大丈夫だろう。反対に椎葉先輩はやりそうだけど。
「刈部も気をつけてくれよ」
「今まであんまり気にしてなかったな。覚えとくよ。まぁ、自分の本を破る分には問題ないだろ」
「ダメ。本は大事」
辺志切さんが咎めるように、むっとした顔を刈部に向ける。
「だそうだ」
「……わかった。どんな本でも気をつける」
まるで宣誓をするように、刈部は片手を上げてそう口にした。
「それで辺志切さん、その本がどうしたの?」
「うん、これ」
僕に開いたままの本が渡される。
『槍陳辺呂夢』。
そのページの空白部分にはそう書かれていた。
これを何と読むかわからないが、おそらく人の名前をもじった悪口にちがいない。意味は、まぁ、だいたい想像ができる。だとしたら、今で言うところの学校裏サイトにでも書き込む感覚だろうか。何にせよ書くやつも書かれるやつも、間違いなく碌な人間ではない。
「鉛筆?」
「ううん……」
辺志切さんは首を横に振る。
「消しゴムを当ててみたけど消えなかった」
「ペンか。……わかった。後で砂消しをかけてみるよ」
それで消えたら御の字。消えなかったら……まぁ、そのときは見なかったことにして、書架に戻してしまおう。どうせこの先、今度はいつ借りられるかわからないような本なのだから。
僕は一度、その本を辺志切さんへと戻した。
「さて、刈部、コーヒーでも買いにいこうか」
「そうだな」
ふたりで立ち上がる。
「辺志切」
刈部は辺志切さんの名を呼ぶ。たぶん一緒に行くかと聞いているのだろう。
「ううん。わたしはいい。これがあるから」
彼女も心得たもので、持ってきた水筒を示し、その誘いを断った。
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