第8話
週末の土曜日。
僕は自分に与えられた蓮見邸の部屋で外出着に着替える。
思った通り蓮見先輩は、あれ以降おじさんとは普通に接している。笑顔を見せるわけではないが、素っ気ないということもない。これでもおそらく両親が健在な家庭の女の子よりは父親と向き合っているだろう。これがもと通りなのかそうでないのかは、以前の姿を知らない僕には判断のしようがない。
また、僕に対しても八つ当たりのようなことはしなくなったので、たいぶ気持ちが落ち着いたようだ。
これにて一件落着といったところか。
「となると、次に蓮見先輩は……」
ひと通り着替えを終えた僕は、そう口にしながらスマートフォンと財布をポケットに突っ込んだ。
そうしてリビングへと降りる。
「なに、出かけるの?」
こちらから声をかけるまでもなく、そこにいた蓮見先輩に先に聞かれる。僕の姿を見て、出かけるものと察したようだ。
「ええ。少し自分の家に帰ってきます」
「ふうん」
僕があえて行き先をはっきり告げると、彼女は少し考えるような感じで曖昧な相づちを打った。
「では、いってきます」
「あ、うん。いってらっしゃい」
蓮見先輩は、そのままどこか上の空で僕を見送った。
電車に揺られること、駅みっつ分。
新長田の駅を出て、街を守る二十八番目の鉄人に挨拶をした後――少し歩いたところで、意匠を凝らしたエントランスを構えるマンションが見えてきた。我が家だ。
鍵を開けて中に入ると、初夏のこの時期にずっと閉め切っていたこともあり、むっとするような熱気がこもっていた。すぐにエアコンのスイッチを入れようと思ったが、先に空気の入れ替えをすることにした。
バルコニーに続く全面窓を開けた後、今度は母の祭壇に目を向けた。
蓮見家に行く前に、徳利、水玉、白皿は空にしておいたので、そこにそれぞれお神酒代わりの清酒、水、洗米と塩を入れる。
「ただいま、母さん」
神式では祭壇に向かって、二礼、二拍手、一礼。ただし、五十日祭がまだのため、手を合わせるときは音を立てない忍び手だ。通夜祭、葬場祭のときに神主に教わった通りにやって、ようやく母に帰宅の挨拶をした。
それが終わると再び窓を閉め、エアコンを稼働させる。
「さて、と――」
と、リビングとキッチンを見回し、意識的にそう声に出してみるが、実は何かやることがあって帰ってきたわけではない。いや、あるにはあるが、狙い通りにいかなければ空振りで終わる。
ひとまず今は待つしかなく、僕はローテーブルの上にあったリモコンを手に取ると、ソファに座り込むと同時にテレビを点けた。
流れたのはニュース。何でも三十代の息子が六十になる母親を殺害したのだとか。
「親なんてわざわざ殺さなくても、いずれ死ぬのにな。そこにあるのは早いか遅いかのちがいだけだ」
それを聞いた僕の口からそんな言葉がもれる。
やるせないニュースにか、それとも自分の投げやりな台詞にか。僕は何かに嫌気がさし、すぐさまテレビを消した。
それから座ったばかりなのにまた立ち上がると、母の部屋の扉を開け放った。
母の部屋は簡素だ。ベッドがあり、タンスがあり、看護学の本が詰まった書架とライティングデスクがある。
母から聞いたところによると、看護師というのはどうやら病院で患者の対応をしているだけではないらしい。常に最新の知識を身につけないといけないし、看護研究なんてものもしなくてはいけないのだそうだ。母も家に帰ってきて部屋にこもっているときは勉強をしていたのだろうか。
僕は母の部屋を眺める。
蓮見家を出て祖父母のところで厄介になるなら、極力身軽にしなくてはいけないだろう。つまりこの家や母の部屋も思い切った片づけが必要だということだ。僕は何を捨て、何を残すかをざっと判断し、頭の中でフォルダ分けしていく。判断がつかないものは、祖父母がほしがるかで決めることにして、保留とした。
そうやって整理の準備めいたことをしていたときだった。
しまった、と思ったときにはもう遅かった。
目から涙が流れ、頬を伝う。
我知らず無自覚に実感してしまったのだ。もうこの部屋の主はいないのだと。これまでの十七年間一緒に生きてきた母はもうこの世を去り、今や霊璽と遺骨と遺影でしかない。彼女のものはだんだんと処分していくことになるだろう。半月前まで当たり前だと思っていた暮らしは、もう戻ってこないのだ。
僕はふらふらとリビングに戻ると、二人掛けのソファに崩れ落ちた。座っているのか横になっているのかわからない体勢のまま、手の甲で目を覆う。
僕や母は、なぜこんな目に遭っているのだろうか。
人の命は想像以上に軽い。母とふたりで平穏に暮らしていたのに、ある日、ただ運悪くそこにいたという理由だけで命を落とし、僕は理不尽にもたったひとりの家族を奪われた。この先、僕が何歳まで生きるかはわからないが、残る人生の中にはもう母はいないのだ。
不意にドアチャイムが鳴った。
「ああ、くそ……」
思わず声がもれる。
最悪だ。
誰がきたか予想はついている。彼女だ。彼女がけじめをつけにきたのだ。だが、こんな状態で出るわけにはいかなかった。黙ってやりすごすか? だけど、そうしてしまうと彼女がせっかくの機会を逃してしまうかもしれない。
そうやって考えがまとまらないでいると、玄関のドアが開いた。
「あれ? 鍵あいて……って、なんだ、いるじゃないの」
這入ってきたのは、思った通り蓮見先輩だった。
ここはそこそこいいマンションだが、基本的に単身や子どもがいないようなコンパクトな世帯向けだ。複雑な構造をしていないせいで、玄関からリビングが見通せる。蓮見先輩もすぐに僕を認めたようだ。
「ちょっとあんた、大丈夫? 具合でも悪いの?」
ソファに倒れ込んだままの僕の姿を見て、彼女は慌てたように声を上げる。
「いえ……」
「じゃあ、どうしたのよ?」
その声はすぐ近くから聞こえた。玄関を上がってきて、そばから僕を見下ろしているのだろう。
ああ、本当に最悪のタイミングだな。
「……母を、思い出しました」
「あー……」
蓮見先輩はばつが悪そうに、無意味な発音をする。
「タオル、どこにあるの?」
「……洗面所の戸棚の中に何枚か」
すると彼女は、何も言わずそちらに向かった。しばらくすると僕の顔にふわりとタオルが落ちてくる。
「ひどい顔してるわよ」
「ありがとうございます」
僕はタオルを取ってきてくれたことに礼を言い、今度は手ではなくそのタオルで顔を覆った。
蓮見先輩はそれで顔を拭けと言いたかったのだろうか。それとも顔を隠すものとして持ってきてくれたのだろうか。どちらにせよ「ひどい顔をしてる」からつながってはいるな。
「悪いわね。変なときにきちゃって」
「いえ、僕もこんなつもりはなかったのですが」
何ともみっともない姿を見せる羽目になってしまった。
蓮見先輩はもうひとつあるひとり掛けのソファに腰を下ろしたようだ。スプリングの軋む音が聞こえてきた。
「まー、あたしも似たようなものだったわよ。ふとしたときにお母さんは死んだんだって実感しちゃってさ」
蓮見先輩は訥々と語る。
「尤も、あたしよりあんたのほうがキツいかもね」
彼女にはまだ父親がいた。だが、僕の場合、母とふたりっきりだったので、その母を失ってしまえばひとり残される。いちおう父親と呼べる人はいるけど、昨日今日名乗り出てきたような父親だ。蓮見氏には申し訳ないが、今のところその実感はない。今後も彼のことを認められるかどうか。
「経験者から言わせてもらうけど――覚悟しとくことね。またくるわよ」
そう言いながら蓮見先輩は、僕の前髪を掻き上げるようにして頭を撫でてきた。丁寧に、優しい手つきで何度も撫でる。
「……」
いやな予言だけど、きっとその通りなのだろう。
仮に僕も母もそれなりの歳で、母が天寿をまっとうしたのならもっと割り切れたのかもしれない。だが、残念ながら母は死ぬにはまだ若く、理由もなく命を奪われた。そして、その事実を受け入れるには、今の僕はまだ幼すぎた。
今になって思えば、僕が蓮見家に行って、今までとはまったくちがう生活を送っていることもよかったのだろう。この家に居続けていれば、母が死に、僕がひとり残されたことを否が応にも痛感させられ、もっと気が滅入っていたにちがいない。
どれくらい時間がたっただろうか。己がおかれた環境を冷静に見つめ直していたからか、或いは、蓮見先輩の母性みたいなものに触れたからか、次第に気分がフラットになってきた。
僕はみっともない顔を半分タオルで隠したまま立ち上がる。蓮見先輩は何も言わない。ただ、手を引っ込めただけ。僕も今は何も言わず洗面所に行くと、一度顔を洗い、タオルを洗濯籠に放り込んだ。
深呼吸をひとつしてから、リビングに戻る。
「落ち着いた?」
そう問うてくる蓮見先輩は、ブルーのスキニーパンツに白地のプリントTシャツという姿だった。ローテーブルの上にはキャップが置いてあるので、それをかぶってきたのだろう。
「すみません。見苦しいところを見せました」
「いいわよ、そんなの。……それよりもさ」
そこで彼女はちらと母の祭壇を見た。
「お母さん?」
きっとここにきたときからずっと気になっていたにちがいない。
「ええ」
「手を合わせてもいい?」
「どうぞ。そうしてもらえると母も喜びます」
自分で言っておきながら、本当だろうかと首を傾げる。かつて人にはおおっぴらにできないようなつき合い方をしていた男の娘に手を合わされても、微妙な気持ちになるのではないだろうか。
しかし、蓮見先輩は僕のようによけいなことは考えず、母の祭壇の前で正座をすると、手を合わせて黙祷した。目の前に死者がいて、それに対して祈りを捧げる。生前のあれこれを考えるより、そのほうがよっぽど正しいのかもしれない。
蓮見先輩は黙祷が終わると、母の遺影をまっすぐ見据える。
「きれいな人ね」
「息子が言うことではないかもしれませんが――僕もそう思います」
「それがなんであんたは中の上なのよ。もっと親孝行しなさいよ」
彼女は途端に非難めいた声をこちらに向けてくる。
「すみませんね。努力しようにも限界があったんですよ。……何も出さずに、すみません。すぐにお茶を入れます」
僕はキッチンに行くと、帰ってくる途中で買っておいたペットボトルの烏龍茶を冷蔵庫から取り出した。
ふたつのグラスを用意して、それぞれに注ぐ。氷もあるにはあるが、二週間も前から製氷室にあるものだ。傷んでいるとは思わないが、どうにも抵抗があるので使うのはやめておいた。おかげで来客の対応に慣れてない感じが見事ににじみ出たお茶となってしまった。
今さら恰好つけるのもバカらしくなり、僕はそれを両手にひとつずつ持ってリビングに戻った。ソファに座っていた蓮見先輩の前に、その片方を置く。
「ありがとう。もらうわ」
そう言うと彼女は、さっそくグラスを口に運んだ。
「わざわざ母に手を合わせに?」
「まぁ、それもある」
そうやって乾く喉を潤して、ようやく声が出るようになったといった感じで切り出してきた。
「その、」
しかし、それでも一度言葉を詰まらせた。
僕は待つ。
蓮見先輩は意を決して、再び声を発した。
「……ごめん」
軽く頭を下げる彼女。
「何がですか?」
「……この前の、朝のことよ」
「ああ」
僕はようやく合点がいったふうに声を上げた。
つまりいつぞやの朝、心ない言葉を吐きかけられた件だ。もちろん、そうであることは最初からわかっていた。でも、ここで一度わからない振りをしておかなければ、蓮見先輩が謝るのを待っていたことや、そもそもここ自体そういうつもりで用意した場であることまでばれてしまう。
「いいですよ、もう。あのとき蓮見先輩はいろいろ我慢してて、爆発寸前だったんだと思います」
「確かにそうだけど、それでも言っていいことと悪いことがある。だから、ごめん。本当はお父さんへの嫌味のつもりだったの。でも、結果的にあんたにまでひどいことを言うかたちになった」
紡がれる懺悔の言葉に、僕は満足していた。やはり彼女は僕の思った通りの人だったのだ、と。
僕はソファから立ち上がると、蓮見先輩に背を向け、キッチンへと向かった。そこで食器棚の一角からあるものを取り出す。それは――、
「弁当箱」
「うん?」
僕が口にした単語は、蓮見先輩にとっては唐突で脈絡のないものだったにちがいない。だから、彼女は首を傾げる。
「今日ここに帰ってきたのは、これを取りにくるためでもありました。……作ってくれるんですよね?」
「そう言やそういう約束だったわね」
僕がそれを見せると、蓮見先輩は苦笑しながら納得した。
弁当は作ってやるが弁当箱は用意しない。今まで使っていたやつを持ってこい。それが条件だ。
「まぁ、それも夏休みまでですけどね」
「夏休みまで?」
やはり意味がわからず、蓮見先輩は聞き返してくる。
「はい。夏休みになったら、蓮見先輩の家を出ようと思っています」
「え……?」
僕が今度はもっと直接的に告げると、彼女は小さく発音した。
驚きの表情を見せる。だけど、やがてどこか腑に落ちたような顔になると、蓮見先輩は穏やかに言葉を紡いだ。
「そうね。それがいいかもね」
彼女も納得したようだった。
そう。それがいいのだ。
先日の件で蓮見先輩が僕を憎んでいるわけではないことがわかり、一瞬亀裂が入った蓮見家も修復の兆し、或いは、新しい父娘関係を築く兆しを見せはじめている。だが、それでもそこに僕という人間がいることは決定的に正しくないのだ。
僕は弁当箱をダイニングテーブルの上に置き、リビングに戻る。と、蓮見先輩が何やら考えつつ、意思とは乖離した動きでグラスを口に運んでいた。何度かお茶を喉に流し込み――おもむろに口を開く。
「こういうこと言うのも何だけど、あんたってどこか歪だよね」
「……」
「今のこともそう。自分のことなのに他人事みたいに冷静。徹頭徹尾『~すべき』で動いてるみたいで、あんた自身がどうしたいのか、あたしには見えなかった。まるで自分を殺してるみたい」
そこで蓮見先輩は一度言葉を切る。
「あたしがあんたの立場だったら……怖いな」
「怖い?」
蓮見紫苑らしからぬ言葉に、僕は思わず聞き返す。
「うん。怖い」
彼女はうなずいた。
「ひとり残されて、まったく知らない家にいくのも怖いし、その家でそれなりに平穏に暮らしはじめたのに、またその家を離れるのも怖い。あたしにはちょっと真似できないかな」
「……」
蓮見先輩は苦笑し、僕は黙り込んだ。
自覚は、ある。
別に自分の気持ちを殺しているつもりはない。ただ、僕が最適解を探すとき、真壁静流という要素はほかの要素と同列になるだけ。当然だろう。方程式だって同じ。特定の項目を特別扱いすれば答えは出ない。
意図してやっていること。
そして、僕にはそうできるだけの理由――『欠落』があった。
僕はどこまでが自然発生した感情か、どこからが作った感情か、自分でもわからないのだ。
僕は場の空気を読み、己を客観視し、いま自分がどう振る舞うべきか、どんな表情を作るべきか、その最適解を出す能力に長けすぎてしまった。――その結果だ。
例えば、僕は確かに瀧浪泪華のことを好ましく思っている。だけど、それは本当に自分の感情なのだろうか? もしかして彼女に望まれたからそう思おうとしているだけではないか? そこがわからない以上、僕は彼女の気持ちに軽々しく応えるべきではないのだ。
例えば、壬生奏多は言った。事態が解決するなら、お前は進んで石を投げられることを選ぶ、と。確かにそうだ。過去、実際にそれを選択したこともある。自分自身の感情がまがいものである可能性が拭えない以上、それを重要視する気にならないのだ。
これが僕の『欠落』。
だから、自分を殺しているみたい、と言った蓮見先輩の指摘はきっと正しくて、僕にはその自覚がある。
彼女も別に、お前はおかしいと非難するつもりはなく、ただ単に思ったことを冗談めかせて言っただけなのだろう。
だけど、なぜか蓮見紫苑の言葉は、小さな棘となって僕の心に刺さった。
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