第7話
その日の放課後、午後五時五十五分の予鈴が鳴る五分前――つまり午後六時の十分前に、僕はいつもの席に座る奏多先輩のもとへ行った。
「すみません、奏多先輩。今日は少し早く出てもらえますか?」
これまたいつものようにノートにペンを滑らかに走らせていた彼女が、僕を見上げ、聞いてくる。
「何かあるの?」
陰で女帝とも称される容姿と雰囲気のせいで、「この私に向かってどの口でそんなことを言うか」と問い質されている気になるが――気にしてはいけない。壬生奏多は普段からこれである。
「六時に蓮見先輩がきます」
「蓮見が?」
首を傾げる奏多先輩。
「最近ではよくあることではなくて?」
「どうにも込み入った話をすることになりそうなんですよ。実は昨日から彼女、家出をしていましてね。そのことについて会って話をします」
「蓮見が家出、ねぇ」
興味があるのかないのかわからないような顔で、奏多先輩はつぶやく。
「昨日ということは、朝の件が間接的な引き鉄になったのね」
「でしょうね」
おそらくあれで彼女はひどい自己嫌悪に陥ったにちがいない。
「お前、蓮見が出ていったのを自分のせいだと思ってる?」
「……」
鋭いな。いや、少し考えればわかることか。
「瀧浪先輩にも同じことを言われましたよ」
「誰が何を言ったかなんてどうでもいいわ。私が聞きたいのは、静流がどう思っているかよ」
「厳しいですね」
さすがカタナ先輩。ばっさり斬り捨てられた。
「もちろん思ってますよ。蓮見先輩は僕があまりにも目障りで出ていったんだってね」
僕はヤケクソのように答える。
と、奏多先輩は呆れたようにため息を吐いた。
「お前はどうも状況を分解、分析できるくせに、自分のこととなると途端に冷静さを失うようね」
「そうですか?」
「そう。いえ、むしろ冷静すぎるのかしらね。静流と初めて会ったときから、私はそのことを心配している」
「……」
「お前が最も尊ぶのは、調和。状況を鳥瞰してその場に相応しい行動を選択できるが、それは常に調和をとる方向に向かう。たぶんお前は、自分が悪ものになることで事態が解決するなら、進んで石を投げられることを選ぶわ」
「まさか」
僕は苦笑する。
さすがに僕でもそこまで自己犠牲の精神は持ち合わせてはいないつもりだ、と言いたいところではある。
「念のため言っておくけど、これは家庭の問題よ」
「わかってますよ」
「いいえ、お前はわかっていない」
奏多先輩はきっぱりと言い切った。
そして、言うだけ言ってテーブルの上のノートと筆記用具を片づけはじめる。今日は広げていたのはそれだけだったようで、鞄に突っ込むのはあっという間だった。
「待ってください、奏多先輩。いったいそれはどういう――」
「答えてやりたいけど」
奏多先輩は、僕の言葉を遮るようにして言っておきながら、そこで一度口を閉ざす。
と、次の瞬間、午後六時五分前の予鈴が鳴った。
それが終わるのを待ってから、時計仕掛けの彼女はチャイムの余韻が残る中で再び口を開く。
「生憎とどこかの図書委員に早く出ていくように言われたわ」
「奏多先輩!」
「ずいぶんと悲壮な声ね。私はお前をそんな男にした覚えはなくてよ」
彼女は笑って、しかし、どこか突き放すように言う。
「そうね。ひと言だけ言うなら――お前はいつも通り冷静に自分を客観視して、いま己がどこに立っているかを確認すればいい。そうすれば解決するわ」
奏多先輩は流れるように言葉を連ね、そうして去っていった。
いつも最後に出ていく彼女が退室したせいで、先の予鈴が本鈴だと勘違いしたのか、残っていた二名ほどの生徒も、後を追うようにして慌てて図書室を出ていった。
残ったのは僕ひとり。
蓮見先輩が時間を守る人なら、後五分もせずにここに現れるだろう。
僕はそれまで考える。
瀧浪先輩は明言し、奏多先輩は暗に言った。蓮見先輩が出ていったのは僕のせいではない、と。
(ならば、僕が勘違いをしてる?)
何をだ?
しかし、それを考えるにはあまりにも時間がなく、午後六時の本鈴を待たずして蓮見先輩は現れてしまった。
図書室に入ってきた彼女は制服姿だった。家を出たときからそうだったのか、それともここにくるために一度無人の家で着替えたのか。どちらにせよ私服では目立ちすぎるので、当然の選択だろう。
蓮見先輩は図書室に入ってくると、まずは室内を見回した。
「もうみんな帰ったの?」
「はい。瀧浪先輩も今日はきていません。僕だけです」
いつもここに足を運ぶ彼女がいないのは、僕が釘を刺したからではない。この場に同席しようと思えば、いくらでも大義名分は掲げられただろう。でも、今日にかぎっては、瀧浪先輩は放課後一度もここに顔を出さなかった。
「あ、うん。そうみたいね……」
蓮見先輩は歯切れ悪くそう言い――そこで言葉は切れた。
ならば、次は僕の番ということになるのだろう。僕が彼女を呼び出したのだから。
「……」
しかし、ここにきて言葉が出てこなかった。
ついさっきまでは何を伝えるか決めていたのだ。だけど、瀧浪先輩と奏多先輩によって、その意志は脆くも崩れ去っていた。
「悪かったわね」
それは蓮見先輩だった。僕が何を言うべきか迷っていると、彼女のほうから先に口を開いたのだ。
「変なタイミングで出ていっちゃってさ。あんた、真面目そうだから、自分が原因だと思ったんでしょ」
「でも、実際――」
「あたしが許せないのはお父さんよ」
蓮見先輩は僕の言葉を遮りつつ、きっぱりと言った。
「お母さんを裏切ってよそで女を作って、それをお母さんが死ぬまで黙ってた。しかも、その女との間にできた子を家に呼んで、さもいいことしてますみたいな顔をしてる。あたしはそんなお父さんが許せないの」
蓮見先輩は一気にまくしたてる。
が、そこではたと気づいたように付け足す。
「ああ、勘違いしないで。これでもあんたに何の罪もないことくらいはわかってるつもりだから」
「え?」
僕は彼女の言葉に虚をつかれ、思わず声を上げた。
「え、じゃないわよ」
蓮見先輩は、その僕を見て笑う。
「あんた、何か悪いことしたの? あんたはただ自分のお母さんと、うちのお父さんとの間に生まれてきただけでしょうが」
「いや、でも……」
理屈ではそうなのだろう。でも、僕は彼女の父親が行った不実の証として生まれた人間だ。彼女にとって憎むべき相手ではないのだろうか。蓮見先輩がおじさんを許せないと思うのなら尚更だ。
「まぁ、あんたがあっちこっちで女と仲よくしてる姿がお父さんと重なって、イラっときたのも確かだけど。そういう意味じゃ、あんたも多少原因ではあるかもね」
「……」
ひどい濡れ衣である。
だけど、これで理解した。蓮見先輩がこれまで見せてきた波のある態度の理由や、瀧浪先輩と奏多先輩が口をそろえて蓮見先輩が家出をしたのは僕のせいではないと言った意味を。
蓮見先輩にとって憎むべきは父親であって僕ではない。
だから、彼女はできるだけ僕と普通に話そうとしていた。その中で時々すっと冷める瞬間があったが、思い返してみればあれは決まっておじさんが登場したときか、或いは、母親との思い出からおじさんを連想したときだった。
僕に突っかかってくるのは、僕が女の子と話をしているときか、もしくは女の子の話題を出したとき。それこそ過去のおじさんの行いが重なって腹が立ったのだろう。
そして、もうひとつ。
奏多先輩は言っていた。『これは家庭の問題』だ、と。
そう。これはあくまでも家庭の問題。蓮見氏は兎も角として、蓮見先輩はそもそも僕のことを家族とはみなしておらず、最初から一貫して眼中になかった。僕を憎んでいるなどと自意識過剰も甚だしい。その証拠に彼女は、一度たりとも僕の名を呼んだことがないではないか。
ならば、どうする?
他所様の家庭の事情に口をはさむ筋合いではないと傍観するか?
いや、蚊帳の外なら蚊帳の外で、それなりに役割はあるのではないだろうか。いずれ僕は蓮見家を出る。後のことは知らぬ存ぜぬというわけにはいくまい。むしろ去る身だからこそ、やっておくべきことがあるのだろう。
さぁ、冷静に己を客観視しろ。
自分はどこに立っている? 僕は今、どう振る舞うべきだ?
そう考えて、やがて答えが弾き出される。
「蓮見先輩はそのことをおじさんに伝えるべきです。でないと、このままではただ駄々をこねてるだけになります」
「ッ!?」
僕の冷静な指摘が痛いところを突いたのか、蓮見先輩がキッと僕を睨む。
「それのどこが悪いのよ!? そうでもしないとわからないじゃない! あんたのことばかり気にして! もっとほかにやることがあるでしょうが! それとも何? 死んだ人間はどうでもいいっていうの!?」
蓮見先輩は激高し、一気にまくし立てる。
もちろん、彼女はわがままな子どものように、もっと自分にかまってくれと言っているわけではない。いま口にしたように死んだ人間、つまり母親に対してもっと何かあるだろうと言いたいのだ。
だけど――、
「残念ですが、これでもわからないと思いますよ」
僕は彼女の苛烈な視線を正面から受け止め、静かに告げる。……ここで彼女に同調することは簡単だ。だけど、引くわけにはいかない。
「蓮見先輩のお父さんに……いや、僕の父親でもあるのか。こう言っては何ですが、あの人、そうとう抜けてますから」
「は?」
「だって、僕を家に迎えるとき、何て言ったと思います? 『ちょうど同じ年ごろの娘がいるから、いい話し相手になると思う』ですよ?」
「……そんなこと言ったの?」
蓮見先輩の目が点になる。
「はい」
何度も言うようだが、普通同じ年ごろの異性が家で同居するとなると、高校生の女の子は快く思わない。それどころか猛反発するだろう。だけど、蓮見氏はそんな事態をまったく想像もしなかったのだ。
「たぶんおじさんは、僕と蓮見先輩が姉弟としてうまくやれると思っています」
「……」
蓮見先輩は言葉を失う。
しばしの絶句の後、おもむろに深いため息を吐いた。
「そりゃわからないわね」
同時に、その体からふっと力が抜ける。
「同じ家にいるのがいやになって勢いで出てきたけど、帰らないのもせいぜい一週間くらいが限度。それもこっちの意図が伝わってないんじゃ、何の意味もないわね」
蓮見先輩は興醒めな調子で、頭を掻きながら言う。
「あんた、悪いけどさ、今日は一緒に帰ってくれない?」
「もちろん。いいですよ」
おそらく蓮見先輩は、思い切っておじさんと話をつけるつもりなのだろう。
僕もその場にいろと言っているのだ。
§§§
その後の事の顛末はこうだ。
図書室の閉室作業を終えてから、僕と蓮見先輩は一緒に家に帰った。それが午後七時過ぎ。そのときには蓮見氏はすでに帰宅していて、丸一日ぶりに帰ってきた娘を安堵の表情で迎えた。
だが、その父の頬を、蓮見先輩は音も高らかに力いっぱい張ったのだった。
「謝って! 今すぐお母さんに謝って!」
その叫ぶような訴えにおじさんはすべてを察したようで、黙って背を向けると亡き妻の仏壇の前へと移動した。そこでゆっくりと正座をし、「すまなかった」と深々と頭を下げたのだった。
そして、今度は横でその様子を見守っていた蓮見先輩に、正座のまま向き直った。
「それから紫苑も、すまなかったな」
「っ!?」
彼女は父親のその態度に、声もなく目を見開いた。
「私は、ひとり残された静流君の力になってやりたいと、そればかりを考えるあまりお前や死んだ美沙都のことまで気が回っていなかったようだ。すまなかった。どうか許してほしい」
いくら娘の気持ちがさっぱりわかっていない蓮見氏でも、ここまでされればいやでもわかるというものか。
おじさんは先刻仏壇にしたように、再び娘に向かって頭を下げる。
蓮見先輩は何も言わなかった。
おそらくだが、蓮見先輩はこの件はこれで決着をつけるのではないだろうか。怒って引っ叩いて、相手が謝って、それで終わり。これ以上引っ張らないのが蓮見紫苑という女の子であってほしいと思う。
たぶん今すぐもと通りとはいかないだろう。いや、蓮見氏が犯した過ちを思えば、もと通りに戻ることはないのかもしれない。だけど、それでもいずれ平穏な家庭が戻ってくるにちがいない。
蓮見先輩はおじさんに何も言わないまま踵を返し、自室へと戻っていく。
そのとき、僕は聞いた。
「次は、あたし……」
彼女がそうつぶやくのを。
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【お知らせ】
当作品『放課後の図書室でお淑やかな彼女の譲れないラブコメ』は、ファミ通文庫様より、9/28に刊行される予定です。
イラストは『佐伯さんと、ひとつ屋根の下 I'll have Sherbet!』でお世話になったフライ先生が、再び引き受けてくださいました。
どうぞよろしくお願いいたします。
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