第5話

 事件は翌週の火曜日に起きた。


 そのとき、おじさんは前日からの宿直でおらず、僕と蓮見先輩、ふたりだけでの朝食となっていた。


「あんた、顔が暗い。中の上なんだから、せめて明るい顔したら?」

「すみませんね」


 中の上で。


 明るくしていたらしていたで、ヘラヘラしていると文句を言ってきたのは誰だっただろうか。


 悟られないようにしていたつもりだが、どうも顔に出てしまっていたらしい。


「……何かあったの?」


 見るに見かねた蓮見先輩が、渋々といった感じで聞いてきた。僕も不景気な顔を見せてしまった手前、答えないわけにはいかなかった。


「昨日、バイトをクビになりました」


 僕は土日がメインのちょっとしたバイトをしていた。だけど、母が亡くなったことでひとまずの休みをもらい、その後のドタバタのせいで連絡を忘れていた結果、あえなくクビとなったのである。


「早く新しいバイトを見つけないと」


 というのは、単に話のつなぎだ。近いうちにこの地を離れて祖父母のところに行くのなら、ここでバイトを探す意味はない。


 それを聞いて、蓮見先輩が白けたように言葉を発した。




「ふーん、そりゃ大変だわね。ま、でも、いいじゃない、ここにいれば。うちのお父さんが何とかしてくれるから、とりあえずはお金に困らないわよ」




「え?」


 最初、何を言われたのかわからなかった。だけど、それが嫌味だと理解すると、次第に怒りがふつふつとわいてきた。


 別に僕は金銭をあてにしてここにきたわけじゃない。呼ばれたからきたのだ。僕のバイトだって生活のためにやっていたのではなく、半分は趣味だと言っていい。


 僕は思わず蓮見先輩を睨んでいた。


 だが、その一方で、様々な当面の問題の軽減のためにここにきたことや、バイト代があるからと同い年のやつらがもらっている額ほど小遣いというものをもらわなかったのも事実で――僕は吐き出しかけた反論の言葉を飲み込んだのだった。




 直後、蓮見先輩がはっとし――そして、後悔に満ちた表情に変わった。




 彼女は、己が口にしてしまった言葉の意味を僕以上に理解し、悔恨の念に唇を噛みしめる。


「……」


 何をか言おうとして――でも、僕と同じように言葉を飲み込む。


 結局、僕たちはこの後、黙って食事を続けた。


 かきこむようにして先に食べ終えたのは蓮見先輩。


「ごちそうさま。今日はあたしが片づけるから。終わったら食器は流しに放り込んで、あんたは先に出て」


 彼女は早口でそう言うと、まるで逃げるようにリビングから二階への階段を上がっていった。




                  §§§




 その日の放課後、図書室が閉まる間際、


「今日、そういうことがありまして」


 僕は相談のため、今朝の一件を奏多先輩に報告した。


 例の如く今日も瀧浪泪華がやってきて、少し話をして帰っていった。奏多先輩以外の利用者はすべて退室し、つい先ほど午後六時のチャイムが鳴ったばかりだ。


 今は開室時間外の図書室に、僕と彼女のふたりだけ。


 奏多先輩はイスごと体をこちらに向け、座った状態から僕を見上げている。相変わらず怜悧すぎる相貌に冷たい表情を浮かべて、見るものを心胆寒からしめるが、しかし、これが壬生奏多の初期値(デフォルト)なのだ。


 まるで職員室に呼び出された生徒と呼びつけた先生のような構図。背もたれに体を預け、腕と足を組んでいるからよけいにそう見える。


「静流が怒るのもむりはないわね」

「でも、怒るべきではなかった」

「それは、なぜ?」


 奏多先輩は問う。


「お前が男だから? それとも愛人の子だから?」

「それは――」

「どちらも蔑んでいい理由や怒ってはいけない理由にはならない。むしろ人間関係を背景に蔑むのは、人間として最低の部類と言えるわ」

「……」


 正論ではある。正論ではあるが……。


「とは言え――」


 そこで奏多先輩は足を組み替えた。


「詳しいお前の話を聞くに、蓮見も言ってはいけないことを言ってしまったとは思っているようね」

「たぶん」


 あのときの表情や挙動はきっと謝ろうとして、でも、結局素直にそうできなかったことによるものだったのだと思う。


「どうすればいいと思いますか?」


 僕は奏多先輩に意見を求める。


「謝らせてやればいい。お前がうまくお膳立てをしてね」

「難しいですね」

「お前ならできるわ」


 信頼してくれるのは嬉しいが、簡単に言ってくれる。


(蓮見先輩が素直に謝れる状況を作る、か……)


 さて、どうしたものか――と、頭を悩ませていると、奏多先輩は組んでいた足を解き、イスごと体の向きを戻した。テーブルの上に散らばっていた筆記用具やノートを片づけはじめる。


「ところで、奏多先輩――」

「なに?」


 僕が声をかければ返事はするが、手は止めない。


「今みたいな状況で足を組んだり組み替えたりするのはやめてください」


 僕が立っていて見えないからいいようなものの、気になって仕方がない。いや、この場合、見えないからこそ気になる、といったほうが正確か。


「わざとよ」

「はい?」


 思わぬ回答に、僕は目が点になる。


「この前、瀧浪が似たようなことをしていたから、それを真似てみたの」

「……もしかして誘ってるんですか?」

「そう見えて?」


 僕がどうにか冷静さを取り繕いつつ聞き返せば、ちょうど荷物をまとめ終えた奏多先輩がこちらを見上げてきた。


「まさか。どうせからかってるだけですね」

「ええ、その通りよ。……帰るわ。蓮見のこと、忘れないようにね」

「わかってますよ」


 そうして奏多先輩は図書室を出ていった。




 その後、僕は閉室作業を行い、道々与えられた命題について考えながら帰った。


 もちろん、蓮見先輩の件だ。


 幸いにしていくつか案を思いつき――後は蓮見先輩と顔を合わせた後、そのときの様子や話の流れでどのシチュエーションに持ち込むか考えればいいだろう。


 そう思っていた。

 だけど、すべてがむだになった。




 その日、蓮見先輩は帰ってこなかったのだ。

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