第4話(1)

 その週の金曜日の放課後。


 今日も例の如く図書室の利用者は少なく、今のところ平和そのものだ。そう思いながらカウンターに座り、先生に頼まれた仕事を片手間にやっていると、不意にシャカシャカとリズミカルな音がかすかに聞こえてきた。


 顔を上げ、閲覧席を見回す。


 まず目に入ったのは、奏多先輩。窓際のいつもの席で、いつもの通りノートにペンを走らせている。今日は周りに数冊の資料が積まれているので、時代考証の必要でも出てきたのかもしれない。


 それから寝ている男子生徒。……まぁ、人に迷惑をかけないなら、伏せて寝ている分にはおおめに見よう。


 そして――いた。白いイヤフォンを耳に突っ込んでいる女子生徒。スマートフォンかプレイヤーで音楽を聴きはじめたのだろう。こちらも本来なら特に注意をしないのだが、音漏れしているのなら話は別だ。


「すみません」


 こちらに背を向けて座っていたので、テーブルを回り込み、視界に入るようにして声をかける。


「え、なに?」


 彼女は片方のイヤフォンを耳から外しながら応える。


「ボリューム、少し下げてもらえますか?」

「うそ。漏れてた?」

「少し」


 本当は盛大に漏れていたけど。


「ごめんね」


 そう言って彼女は、テーブルの上に置いてあったプレイヤーの音量を下げる。そうしてまたイヤフォンを耳に入れると、再びテキストとノートに向かった。どうやら勉強をしているようだ。


 図書室には意外と様々な人間がくる。本を借りて帰る生徒。借りはしないで読むだけの生徒。後日またきて、続きを読んでいるようだ。授業で紹介するための古典文学を数冊まとめて借りにくる先生もいれば、本にはまったく手をつけず、席でひたすら勉強している生徒もいる。


 さて、これで一件落着とカウンター戻ったとき、ひとりの女子生徒が図書室に飛び込んできた。


「やっほー、図書委員くん」


 彼女は入ってくるなり、僕の姿をちゃんと確認したのか怪しいくらいの勢いで声をかけてきた。


 せっかくひとり静かにさせたというのに。僕は思わず額をカウンターに打ちつけそうになる。


 僕が唇の前に人差し指を立てると、彼女は「あ……」と小さく発音した。ようやく自分が何をやらかしたか気づいたようだ。それから爪先で跳ねるようにしてカウンターまでやってきた。そんなことをしなくても床には絨毯が敷かれているので、足音が響いたりはしないのだが。


「こんにちは、椎葉先輩」


 その女子生徒は、椎葉茜先輩だった。今日はひとり。この前一緒にいた蓮見先輩や、そのほかの先輩たちはいない。


「これ、返しにきた」


 そう言って彼女が差し出したのは、先日借りた万葉集だった。


「もう読んだんですか?」

「ううん。難しくて読めなかった」


 あっけらかんとしてそんなことを言う椎葉先輩。いちおうほったらかしにはせず、読みはじめてはみたようだ。だが、彼女には合わなかったのだろう。


「もっと読みやすいのない?」


 ただ、そう続くあたり興味を失くしたわけではなさそうだ。ならばここは図書委員として、その読書意欲に応えなければならない。こんなこともあろうかとちゃんと調べておいた。


「マンガのやつがあります」

「怒るよ」

「でしょうね」


 もちろん冗談だし、椎葉先輩も笑っている。


「原文と現代語訳が並んでいるやつがあるので、それなんかどうですか? 読みやすいと思いますよ」

「あ、いいかも」


 次なる図書が決まったところで、僕はいま返ってきたばかりの万葉集に返却処理をかける。


 表紙に貼られたバーコードを読み取ると、取り置き票を印刷するプリンタのイラストのアイコンが出てきた。この図書に予約がかかっていたのだ。アイコンをクリックして帳票をプリントアウトする。それを図書にはさみ、そのまま取り置き資料を載せるブックトラックの上に置いた。


 それから次に、新たに椎葉先輩に薦める本の状態を確認する。確か今は誰も借りていなかったはず……あぁ、やっぱりそうだ。


「じゃあ、取ってきます」

「うん、お願い」


 僕はカウンターを出て、古典文学の書架へと向かった。目的の図書はすぐに見つかり、それを手に携えて再び戻ってくる。


「これです」

「どれどれ。……あ、確かに読みやすそう」


 椎葉先輩はパラパラとページをめくると、そんな感想を口にした。


「借りられますか?」

「うん。家でゆっくり見てみる」


 そう言うと彼女は、今度はすっとライブラリーカードを取り出してきた。どうやらスカートのポケットに裸で突っ込んでいたようだ。


 僕は図書とともにそれを受け取り、貸出処理をする。


「頼りになるねぇ」

「それが仕事ですから」


 そうして再び図書とカードが椎葉先輩の手元に戻ったときだった。


「遅い!」


 僕でも彼女でもない第三の声が割り込んできた。


 言うまでもなく蓮見先輩だった。


「あ、紫苑ちゃん。図書委員くんのところに行こうって誘ってもきたくなさそうだったからひとりできたのに」


 残念だが、たぶんその誘い方では絶対に蓮見先輩は動かないだろう。


 そこで椎葉先輩はなぜか勝ち誇ったような顔をして、


「ふっふーん。やっぱりきたんだ」

「やっぱりって何よ!? 変な誤解するんじゃないわよ」


 目を吊り上げて怒る蓮見先輩。


 瀧浪先輩みたいに好意を隠そうとして失敗した(振りをした)わけでもなく本当に誤解なのだから、蓮見先輩としてはそう思われるのは心外だろう。


「図書委員くんも何か言ってあげて」


 椎葉先輩はこちらに振ってくる。




「僕も蓮見先輩に会いたかったです」

「……張っ倒すわよ」




 真顔で言われた。本気だ。


「冗談ですよ。……いや、まぁ、本当に僕ら、そういうのじゃないので」

「だいたい、茜が帰る直前になっていきなり図書室に行ってくるって言い出して、なかなか帰ってこないから迎えにきたんでしょうが」


 蓮見先輩は明らかにご立腹の様子なのだが、椎葉先輩は気にした様子もない。


「見て見て。またちがう本をおしえてもらっちゃった。いいでしょー?」

「別に。……ほら、さっさと帰るわよ」


 嬉しそうに借りたばかりの本を見せる椎葉先輩と、それとは対照的に不機嫌そうな蓮見先輩。


 きっと彼女は、学校では僕と会いたくなかったから図書室にきたくなかったし、でも、自分の友達が僕と一緒にいるのが面白くないから、わざわざきたくもないここまで迎えにきたのだろう。


 彼女が不機嫌なのは、一部僕にも原因があるにちがいない。


「あら、今日もまた賑やかね」


 そして、また別の声。

 瀧浪泪華だ。


 まるでいつぞやの再現。


「ふたりとも、最近よくここで会うわね」


 瀧浪先輩はまるでこの偶然を喜ぶかのように、微笑みながら言った。


「瀧浪さんは、ここへはよくくるの?」

「ええ」


 反対に蓮見先輩が探るようにそう問いかけ、瀧浪先輩が首肯する。


「本が好きなんだ」

「人並みだと思うわ」

「ふうん……」


 何かを考えるようにうなずくと蓮見先輩は、今度は椎葉先輩へと向き直った。


「茜、先に帰ってて。ちょっと瀧浪さんと話があるから」

「え? あ、そうなんだ」


 椎葉先輩は瀧浪先輩と蓮見先輩の顔を戸惑い気味に交互に見る。


「じゃあ、また明日ね」


 だが、どうにか自分を納得させたようだ。ちょっと心配そうにもう一度ふたりと、そして、僕を見てから椎葉先輩は図書室を出ていった。……こちらを見られても困る。僕にもこの後の展開は予想できない。


 蓮見先輩は、瀧浪先輩と改めて対峙する。


「瀧浪さん、何が目的?」

「……」


 蓮見先輩からやや具体性を欠く問いを真っ直ぐに投げかけられ、瀧浪先輩はしばし考える。


 やがてその表情が少しだけ変化した。




「わたし、静流のことが気に入ってるの」

 それは僕とふたりっきりのときの、素の瀧浪泪華だった。




「し、しずっ!?」

「ああ、ふたりだけのときは彼のことを名前で呼んでるの。静流はわたしを名前では呼んでくれないけど」


 ちょっと不満げにこちらを見る瀧浪先輩。


「そういうことだから、わたしとつき合ってって足繁くここに通ってるわ」

「足繁く通われたところで、返事は変わらない」

「これだもの」


 口ではそうは言うが、顔は不機嫌そうではない。むしろ逆。思い通りにならないことが面白いとばかりに、くすくすと笑っている。


「あ、いちおう本もたまには借りてるわよ」

「……」


 他方、蓮見先輩は、口をぱくぱくさせている。今まで見たこともない瀧浪泪華の姿や、予想だにしない彼女と僕の関係を知ったからだろう。もしかしたら僕の、瀧浪先輩への冷淡とも言える態度も理由かもしれない。


 それでも蓮見先輩はどうにか気持ちを落ち着かせ、言葉を絞り出す。


「わっかんないわね。これのどこがいいわけ?」

「わたしと静流は同類なの」


 瀧浪先輩は堂々と言い切る。


「同類? どこが? 瀧浪さんとそれじゃ、ぜんぜん似ても似つかないじゃない」

「まぁ、そう見えるでしょうね。でも、誰が何と言おうと、わたしと静流は同類よ。だから一緒にいるべきだと思ってるわ」

「……ふうん」


 蓮見先輩は白けたように、或いは、白けた態度を装って言葉を返す。


「ま、好きにすれば」

「ええ、好きにさせてもらうわ」


 瀧浪先輩はそこで一拍。


「と、言いたいけれど、その前に――蓮見さん、この前は静流に突っかかって、今日はわたしにからんできて……もしかして彼のことが好きなの?」

「ハァ!? そんなわけないじゃない!」


 蓮見先輩は心底心外だとばかりに声を上げた。


 僕は思わず閲覧席を見る。茜台高校を代表する有名女子生徒ふたりがそろっていて、しかも、言い争いのようなことをしていれば注目は必至――と思ったが、人の少なさが幸いして、そうでもなかった。


 いま残っているのは三人。寝たまま一度も起きていない男子生徒と、音楽プレイヤーを聴いている女子。ふたりともこちら異変に気づいていないようだ。残るは奏多先輩だが、やはりこちらのことなど気にした様子はなかった。


「でしょうね」


 瀧浪先輩は、ついさっきまで煽るような態度だったにも拘らず、意外とあっさりと仮説を引っ込めた。


「蓮見さん、そんなに幼稚じゃなさそうだもの。……じゃあ、どうしてそんなに目の敵にするの?」

「そんなの瀧浪さんには関係ないわ」

「そうね。関係ないわね。でも、それを言ったらわたしたちのことだって蓮見さんには関係のないことだわ」

「……」


 痛いところを突かれて押し黙る蓮見先輩。


 当然だ。自分は干渉するが、そっちは干渉してくるな――そんな勝手な理屈が通るはずがない。


「というわけで、わたしが静流を口説こうが色仕掛けをしようが、蓮見さんは口を出さないでもらえる?」


 どうも瀧浪先輩は意図的に蓮見先輩を挑発しているように見える。まさか本当に蓮見紫苑が真壁静流に好意を抱いていると疑っているわけではないだろうが、少なくとも何か隠していると感じていて、それを引っ張り出そうとしているのかもしれない。


 もちろん、蓮見先輩が突っかかってくる理由は単純だ。僕が憎いから。そして、憎い僕が誰かと仲よくしているのが気に喰わないから。言ってみれば、瀧浪先輩は飛ばっちりのようなものだ。


 しかし、そんなことが言えるわけもなく、蓮見先輩は引き下がるしかない――はずなのだが、


「関係は、あるわ」


 口を閉ざすかと思われた彼女は、不愉快そうにそう切り出した。

 まずいと思った。止めなければと思った。


 だけど、遅かった。




「……それ、あたしの義弟だから」




「は?」


 瀧浪先輩が小さく発音する。


 蓮見先輩はむっとしていた。その事実に腹が立つのか、それともそれを口にしたこと自体が不本意だったのか。


 三者三様の沈黙があたりを支配する。


「ずいぶんと面白い冗談を言うのね。ねぇ、静流」


 最初に口を開いたのは瀧浪先輩だった。


 同意を得ようと僕を見る。


「静流?」


 しかし、彼女のその口から訝しげな声がもれた。僕が顔を掌で押さえ、嘆息していたからだ。


「瀧浪先輩、大変申し訳ないが、蓮見先輩が言ったことはまぎれもない事実だよ。このたび僕と蓮見先輩は姉弟になったんだ」


 僕は顔を上げながら、再び閲覧席を見回した。やはり誰もこちらに注目していない。助かった。……まったく。言うなと言っておきながら、自分から言ってしまうとはいったいどういう了見か。


「それってどういう……え、そういうことなの!?」


 どうやら彼女は問い質そうとしている途中で答えに辿り着いたようだ。頭の回転の速い人は説明が省けて助かる。


「そういうこと」


 おかげで僕はそのひと言ですんだ。


「それはまた……」


 事実は小説よりも奇なりここに極まれりで、瀧浪先輩も呆れて言葉もないようだ。


「でも、待って。そうなると静流やわたしに突っかかってくる理由がわからないわ。かわいい弟に悪い虫がつきそうだから……ってわけじゃなさそうね」

「当たり前でしょっ」


 またも吠える蓮見先輩。

 当然だ。それだと僕にまで突っかかる必要がない。


「前にも言っただろ。僕はきらわれてるんだよ」

「きらわれてる?」


 しかし、瀧浪先輩はピンとこなかったらしく、首を傾げる。


 父親の裏切りの証として生まれ、あまつさえ家にまで転がり込んできた僕が目障りなのは自明の理だと思うのだが。


「だから――」


 珍しく察しの悪い瀧浪先輩に説明しようと口を開いたときだった。




「……別に、きらってるわけじゃないわ」




 蓮見先輩がそうつぶやく。


 僕と瀧浪先輩が同時に振り返ったが、彼女はそっぽを向いていた。


 再び沈黙。


「……不愉快。先に帰るわ」


 やがてそう言い捨てると、蓮見先輩は歩調も荒く図書室を出ていった。


「彼女も心中複雑そうね」


 蓮見先輩の背中が消えていった出入り口を見つめながら、瀧浪先輩がそうこぼす。


「そうか?」

「静流がそんなだからよけいね」


 人間関係は少々絡み合っているが、蓮見先輩が抱く感情は至極真っ当で、単純明快だと思うのだが、そうではないのだろうか。


 理解できない僕を見て、瀧浪先輩がため息を吐いた。

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