第3話

 翌朝、


 部屋で登校の準備を終え、階下に降りる。と、リビングでは僕同様準備の整った蓮見先輩が、手持ち無沙汰なのかソファで本を読んでいた。開いた文庫本を器用に片手で支え、もう片手は背もたれの上。足を組んで、そして、顔には眼鏡。


 相変わらずやけに様になる恰好と、初めて見る眼鏡をかけた姿に、僕は少しだけ目を奪われる。


「……なに?」


 こちらに気づいていたらしく、蓮見先輩は本に目を向けたまま問うてきた。


「眼鏡、かけてたんですね」

「本を読むときとか勉強をするときとかだけね」

「似合ってますよ」


 フレームはスクウェア型。普段のフレンドリーな感じから一転、黙って本を読むその姿は知的な印象を受ける。


「嬉しかないわよ。あんまカッコいいものでもないんだから」


 蓮見先輩は、ふん、と鼻を鳴らして苦笑。


「僕はてっきり自分に似合うものを選んだのかと」

「別に。そんなこと考えたこともなかったわ」

「せっかくかけるんですから、そういうのを選べばいいじゃないですか。ピアスやイヤリングなら学校にしてきたら怒られますけど、眼鏡は誰にも怒られないアクセサリーですよ」


 そこで僕は改めて蓮見先輩の顔を見た。


「オーバルフレームなんてどうです? 顔の感じがやさしくなりますよ」

「はいはい、どーせあたしゃ顔がキツいわよ」


 拗ねたように言いながら、彼女は本を閉じた。

 こちらを見る。


「あんた、変なことに詳しいのね。てか、見方が面白いわ」

「ありがとうございます。と言いたいところですが、残念ながら受け売りです。クラスの女の子の」


 彼女のその考えに触れた後、ではファッションとして眼鏡を見たらどうなるのだろうと思って調べてみて、ひと通りの知識が頭に入ったのだ。


 と、僕が先のように返すと、蓮見先輩の態度が豹変した。


「ハァ!? また女なの? あーあ、どうせそんなこったろうと思ったわよ。……ほら、さっさと行きなさい。あたしまで遅刻させる気」


 彼女はしっしっと追い払うように手首を動かす。どうやらいよいよ女の子の話は禁句になりつつあるらしい。


 僕はそれに追い立てられて蓮見邸を出た。




 少し歩き、市営地下鉄西神・山手線名谷駅に着く。


 階段を降りてホームに立ったところで、ちょうどそこに停車していた車両のドアが閉まった。


「あれ?」


 走り出した電車を見ながら、僕は小さく声を発する。


 どうにも計算が合わない。

 乗りたい電車に間に合うように出たはずなのだ。確かに蓮見先輩と話をしていて少しばかり時間を喰ったが、それでも余裕を持たせてあるのであの程度のロスで間に合わなくなるとは思えない。


 まず腕時計を見た。どうも今のは時刻表にない電車だったようだ。これが夜中で自分も乗り込んでしまっていたら、十分にホラーだっただろう。


 今度は電光掲示板に目をやる。と、そこには人身事故でダイヤが乱れている旨の文言が流れていた。……なるほど。状況はよくわかった。電車が止まっているなら大問題だが、そうではないので今度きた電車に乗ればいいだけのことだ。


 そうして十分ほど待っていると次の電車がホームに滑り込んできた。

 これなら遅刻はまずないだろう。それはいいのだが、見るからにひどく混雑していた。ダイヤの乱れで電車の本数が減っている分、一本あたりの乗客が多くなっているのだろうか。


 流れに乗って電車に乗り込み、押し合いへし合いしながら一歩でも奥へと進もうと体をねじ込んでいく。


「うげ、混みすぎ……」


 誰に聞かせるわけでもなくつぶやかれたその声は、聞き慣れたものであるだけに、僕の耳にはっきりと届いた。


「え……」


 強引に振り返ると、そこには蓮見先輩がいた。


「げ、あんた、いたの?」

「ええ、まぁ……」


 蓮見先輩が目を丸くし、僕は曖昧に返事をする。


 どうやら後から邸を出た蓮見先輩がダイヤの乱れのせいで追いつき、同じ電車になってしまったようだ。前に立っていた僕は当然のこと、蓮見先輩もスマートフォンでも操作していたのか、同じ列に並んでいた僕に気がつかなかったのだろう。


『車内大変混み合っております。恐れ入りますが、今一歩奥へとお進みください』


 アナウンスが流れた瞬間だった。駆け込み乗車の客が乗り込んできたのか、それとも今のアナウンス通りに乗客が詰めようとしたのか、車内の密度が増した。


 その結果、


「きゃっ」


 彼女にしてはやけにかわいらしい声を発しながら、蓮見先輩が真正面から僕に密着してきた。


「ご、ごめん。後ろから押されて……」

「こんな状況ですから……」


「……」

「……」


 見下ろす僕と、見上げる蓮見先輩。




 顔が目の前にあった。




 吐息がかかるほどの距離。

 相手の瞳に自分が映っているのがわかるほどの近さ。




「「ッ!?」」


 事態が飲み込めると、一瞬遅れて僕たちは飛び上がるほど驚いた。だが、離れようにもこの混みようだ。ただの一歩も下がることはできない。


「わ、悪いけど、少し我慢して……」

「はい……」


 蓮見先輩は僕の肩に額をくっつけるようにしてうつむいた。


 我慢しろ、は本来男が言う台詞のような気がする。……いや、そうでもないのか。

 僕たちは密着状態。距離はゼロ。おかげで僕の体にはやわらかい何かが、かたちが変わるくらい押し当てられていた。


(かたちが変わるくらいあるってのもすごいな……)


 僕は、現実逃避できているのかできていないのか、そんなことを冷静に考える。


 先日豊かなのを見せつけられたばかりだが、まさか今度は体感させられるとは思わなかった。


 ある意味、我慢を強いられているのは僕なのかもしれない。


 おそらく蓮見先輩も気づいているだろうし、僕がそのことにいやでも意識させられていることもわかっているはずだ。それでもこの話題には触れてはいけないのだ。


 名谷から学園都市まではふた駅。ものの数分で着く。


 間にある総合運動公園駅は、その名の通り競技場や野球場、公園などがあるが、通勤通学の時間帯の乗り降りは少ない。おかげで状況はほとんど変わらず。


 そうしてようやく着いた学園都市で大量の学生や生徒が降りた。皆、「死ぬかと思ったー」「すごかったね」など、友達同士で言い合いながら、或いは、独り言をこぼしながら改札のあるコンコースへと上がっていく。


 僕と蓮見先輩も同じ。


 ただし、無言。


「……」

「……」


 黙ったまま並んで改札口を出て――そこでようやく僕ははっと我に返った。電車でたまたま一緒になったからと言って、律義にふたりで登校する必要はない。というより、そうするわけにはいかない。


「じゃあ、僕は――」


 僕はここで、と歩調を速めようとしたとき、


「おっはろー。紫苑ちゃんに図書委員くん」


 聞いたこともない挨拶とともに僕たちの間に割って入ってくる人影。


 それは会話の間に言葉を割り込ませてきたという意味ではなくて、彼女は文字通り、物理的に割って入ってきたのだった。


 僕と蓮見先輩の間からにゅっと首を出し、僕たちの顔を交互に見る。


「どうしたの、ふたり一緒なんて」


 椎葉茜先輩だった。


「あ、もしかして昨日迷惑かけたから、ごめんなさいしてる最中?」


 残念ながら、そのようなことはないし、昨日の夜にもなかった。むしろ反対に身に覚えのないレッテルを貼られただけだ。


「誰がよ!? あたしはただ――」

「実はあんな意地悪言ったのも、本当は――」

「こっちの話も聞きなさいよっ」


 勝手な想像と憶測を並べ立てる椎葉先輩に、蓮見先輩が苛立ちの叫び声を上げる。


「図書委員くん、図書委員くん」


 しかし、椎葉先輩は蓮見先輩を見事にスルーして、今度はこちらに話を振ってきた。


「紫苑ちゃんって見ての通り男の子みたいだけど、ちゃんと女の子らしいところもあるから長い目で見てあげてね」

「誰が男よ!?」

「ああ、それなら大丈夫です。そんなことを言われるまでもなく、僕から見たら十分に女性らしい人ですから」

「あ、あんたもッ。なに言ってんのよ!?」


 蓮見先輩は椎葉先輩を怒ったり僕に文句を言ったり、顔を右へ左へ、いや、上へ下へ大忙しだ。


 どうもよけいなことを言った気がする。このあたりで話を変えておこう。ほうっておいたら椎葉先輩もどんな勘違いをするかわかったものではない。


「椎葉先輩。昨日の本、もう読んでみましたか?」

「え? あ、あははは……」


 なぜか笑う彼女。

 これでだいたいどういう状況にあるか想像がつく。


「さては手に入れて満足するタイプですね?」

「だってー」


 と、彼女は口を尖らせた。


 するとその向こうで蓮見先輩が口を開く。


「あー、あたしもあるわー。マンガとか小説とか、とりあえず全巻買って本棚に並べたところで満足しちゃう」

「また無駄な大人買いを……」


 こっちはこっちで同じタイプらしいが、やることが豪快だ。


「読めなさそうなら言ってください。別のを紹介しますから」


 何が読みやすいかなんて案外人それぞれだ。その世界の導入として大雑把な解説のほうがいい人もいれば、ある程度しっかりした説明のほうが興味を引かれる人もいる。


「うん。わかった」

「じゃあ、僕はこれで――」


 今度こそ本当に先に行こうとしたところで、腕をがっちりホールドされた。椎葉先輩だ。僕の腕に自分の腕をからめて、逃すまいとする。


「いらない気を遣わないでいいから。一緒に行こうよ」


 椎葉先輩はねだるようにからめた腕を揺する。……残念ながら、蓮見先輩のような感触は皆無だった。


「……わかりました。じゃあ、ご一緒させていただきます」


 たぶんこう答えないと離してくれない。


 こうして僕は、蓮見先輩が避けたがっていたはずなのに、椎葉先輩を介して彼女と一緒に学校へと行く羽目になった。


「もう、何であたしがあんたと一緒に……」

「知りませんよ」


 椎葉先生の頭を飛び越えて、僕と蓮見先輩は言い合う。


「つーか、あんたさ……」


 そのままの流れで何やら文句言いたげな彼女の声。


「あたしが女らしいって、なんで思ったのよ?」

「あー……」


 僕は思わず無意味な発音をする。


 やはりよけいなことを言ってしまったようだ。そんなものついさっきの電車か先日の風呂上りか、そのどちらかでしかない。もちろん、普段の部屋着もそうなのだが、思い知ったのはインパクトのある出来事は先のふたつだ。


「それ、聞きたいですか? たぶん聞いてしまうと、後々やりにくくなりますよ?」

「……それもそうね」


 蓮見先輩もさすがに自覚があるのだろう。電車を降りたときと同じように、この話題はこれ以上触れないほうがいいと判断したようだ。


 すると僕と蓮見先輩の不可解な会話を聞いた椎葉先輩が、またも僕たちを交互に見てひと言。


「ん? 仲よし?」

「ちがうわよっ」


 くわっと吠える蓮見先輩だった。


 あれ? 確か鷹匠先輩にも似たような誤解をされていなかったか?

 もしかして僕は茜台高校で双璧と称されるふたり、それぞれと特別仲がいいと思われているのではないだろうか。

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