第4話(1)

 蓮見邸に帰ってきたのが、午後七時ちょうど。


 駅のホームで瀧浪先輩とコーヒーを飲んだ時間を差し引きすれば、僕がこの邸にきたことで登下校の時間は十五分程度短縮されたようだ。


 門を抜けて、玄関ポーチに立つ。


 深呼吸をひとつしてから、ドアを開けた。


 僕はこの家の鍵というものを持っていない。いや、正確には一度、おじさんから手渡されかけたのだが、ちょうどその場に居合わせた蓮見先輩の複雑そうな顔が視界の端に映り、断った。もう少し家に慣れてからお預かりします、と。


 そりゃあそうだろう。蓮見氏にとって僕はまぎれもなく息子なのだろうが、蓮見先輩にしてみれば突然出てきた半分だけ血のつながった弟なんて赤の他人も同然だ。その僕が家の鍵を持つとなればそんな顔にもなる。


 だから、僕はできるだけ蓮見家の人間が留守のときに出かけたり、帰ってきたりはしないようようにしていた。


(その点で言えば、図書委員をやっているのは好都合だったな)


 僕は自嘲気味に笑った。

 図書室を開ければこうして自然と遅く帰ってくることになるのだから。


 黙って玄関を上がる。


 不思議なものだ。母が生きていたころは誰もいない家に帰ってきても「ただいま」と言っていたのに、ここでは蓮見先輩がいるにも拘らず無言で帰宅している。


 廊下を進み、リビングに這入る。


 キッチンのほうを見ると、蓮見先輩が朝と同じ普段着にエプロンをつけて料理をしていた。夕食の用意だろう。


「ただいま帰りました」

「ん……」


 素っ気ない、返事とも言えないような返事。当たり前のように、こちらを見ない。


 僕とて和やかな挨拶は期待していないし、蓮見先輩もしたくはないだろう。帰宅の報告を終えて、僕は二階の自室に戻るべくリビングの一角にある階段を上がる。


 と、その途中、蓮見先輩の声が聞こえた。


「……もうできるから、着替えたら降りてきて」


 僕は振り返る。が、角度が悪いようで、彼女の姿は見えなかった。数段降りてみる。しかし、蓮見先輩は相変わらず料理の最中だった。


「わかりました」


 その背中にそれだけを告げ、僕は再び階段をのぼりはじめた。


 部屋に這入ると制鞄を投げ出し、手早く普段着に着替えた。ひと息つきたい気分だったが、すぐに部屋を出る。途中、二階の洗面所で手を洗ってから、階下に降りた。


 キッチンでは蓮見先輩がダイニングテーブルに料理を並べている最中だった。


 献立は、豚肉の西京焼きにきんぴらごぼう、ツナサラダ。

 それが二人分。


 つまりここにいる僕と蓮見先輩の分ということだ。


「あの、おじさんは?」

「今日は夜間診療の当直。帰ってこないわ」

「ああ」


 納得した。あの病院は、救急とは別に内科の夜間診療もやっているのだった。循環器を専門とする内科医である蓮見氏も当直が回ってくるのだろう。


「昼間診察をして、夜勤もやって、そのまままた翌日の診察。なかなかブラックな職業よね、勤務医なんて」


 蓮見先輩は、本当に面白くないのか、それとも僕が相手だからか――実に面白くなさそうに言った。


「できたわ。……ほら、ぼうっと立ってないで座れば?」

「あ、はい」


 皿に料理を盛りつけるその手際に感心しながら蓮見先輩と話していると、気がつけばすべての皿が並んでいて、はっと我に返る。


 言われた通り僕は席に座り、蓮見先輩も腰を下ろした。


 そうして朝と同じように、ふたりだけの食事がはじまる。

 やはり会話はなかった。だからだろうか、料理は間違いなく美味しいのに、実に味気なかった。場の雰囲気が食事にも影響を与える好例と言える。


「先輩、今度から僕を待たずに先に食べていてくれても――あ、いえ、別に気を遣っているわけでは……」


 話している途中で蓮見先輩がむっとした表情を向けてきて、僕は即座に誤解を解くために言葉の選択を軌道修正する。


 彼女は僕がまた気を遣ってこんなことを言い出したと思っているのだ。


「知っての通り、僕は図書委員をやっているので、だいたい毎日今日くらいの時間になりますから。それに合わせていると、先輩も食べるのが遅くなってしまいます」

「ああ、そういうこと」


 蓮見先輩から返ってきたのは、納得したというよりは、興味が失せたといった感じの返事だった。


「安心して。うちはこれがデフォだから」

「あ、そうなんですね」


 午後七時の夕食は、一般家庭の平均よりも遅いのではないだろうか。まぁ、案外親が医者の家は『一般家庭』ではないのかもしれないけれど。


 我が家も七時の夕食だった。ただ、うちの場合、母が蓮見氏と同じ病院に勤めていたが、図書室をあけたときの僕よりも早く帰ってくるのが常だったので、僕を待つかたちでそうなっていたわけだが。


「もしこれ以上遅くなるようだったら連絡して」

「わかりました」


 とは言ったものの、僕はその連絡先を知らなかった。だから、遅くならないよう、図書室を閉めたら真っ直ぐ帰ってくるのが無難だろう。


(早く帰ってきてもいけないし、遅く帰ってきてもいけないし……なんとも、まぁ、だんだん縛りが増えていくな)


 何か不測の事態があっても困るから、明日にでも蓮見氏にこの家の電話番号を聞いておくことにしよう。


「前から聞きたかったんだけど――」


 しばらく黙って箸を進めていると、不意に蓮見先輩が切り出してきた。


「図書委員ってほかに誰がいるの?」


 そんな問い。


 まさか彼女からそんな雑談を振ってくるとは思わなかった。もしかして沈黙を埋めようとしたのだろうか。


「あたし、あんたしか見たことないんだけど。……まぁ、そもそも数えるほどしか行ったことないから、タイミングが悪いだけかもしれないけどさ」

「僕ひとりです」

「は?」


 僕がその問いに答えると、彼女は素っ頓狂な声を発した。


「僕ひとりです」

「聞こえてるわ。……え? なに、あんたひとりなの?」


 聞こえていると言いながら確認の問いを返してくるとはどういうことなのだろう。聞こえているのではなかったか。


「去年までは当時の三年の先輩がいましたが、その人たちが卒業したら僕ひとりになってしまいました」


 そもそも地味で人気のない委員会だからだろうか。僕のひとつ上の学年は誰もいなくて、ドーナツ化していたのだ。今年の新入生で誰か入ってくれたらよかったのだが、あいにくとこの現状である。部活みたいに勧誘する機会がないせいだろうか。


「大変じゃないの?」

「まぁ、大変ですね。とは言え、そこは学校側もわかっているので、あれもやれこれもやれとは言ってこないです」


 あけてくれるだけでありがたい、というところなのだろう。当然だ。生徒のほぼ全員が大学進学を選択する学校で、図書室が開かずの間では恰好がつかない。


「大変なのに、なんでそんなことやってんの? 楽しいの? 本が好きなの?」

「特別本が好きってわけでもないですね。本に囲まれていたら幸せって人間でもないですし」

「じゃあ、なんでよ?」


 理解できないとばかりに首を傾げる蓮見先輩。


「強いて言えば、たぶん図書室があいていないと困る人間や、あいていると嬉しい人間がいるからなんでしょうね」


 どちらもすぐに彼女らの顔が浮かぶ。


「はーっ」


 唐突に、蓮見先輩は感心したような呆れたような声を発しながら、背もたれに体を投げた。


「あたしにはむりだわ。むり」


 そうして天を仰ぐ。


 まぁ、人によってはそうなのだろう。――他者と競うわけでもない。記録が出るわけでもなければ評価が下されるわけでもないし、何かを作り上げることもない。いいところ内申書に一行書き足されるくらいだ。


 単なる奉仕活動。


 誰もがとは言わないが、向かない人間もいることだろう。


「なんでまたそんなものやろうと思ったのよ?」


 蓮見先輩は再び背もたれから体を離し、今度は心持ち身を乗り出し気味にしながら聞いてきた。


「僕が中学生のときに、近くの大学で講演会があったんですよ」


 と、僕は切り出す。


「講演会?」

「ええ。アメリカの図書館で司書をやっている方の」


 たまたまその講演のことを知った僕は、何となくの思いつきで聴きにいった。


 講演会は、日本の図書館行政は遅れていて、且つ、方向性を間違ってしまったとか。図書館は本を借りるところではなく、情報を得るための場所だとか。そんな話だった。


 悲しいことに聴衆は少なくて、彼が「いかに興味をもたれていないか、よくわかりますね」と苦笑していたのが印象的だった。


「それがきっかけですよ」


 とは言え、僕には図書館の魅力というものが理解できなかった。彼が図書館のどこに惹かれ、どうして海を渡ってまでアメリカで司書になったのか――。だけど、わからないからといって切り捨ててしまうのもちがう気がした。だから、試しに関わってみようと思い、高校に上がって図書委員会に参加したのだ。


「やってみて何かいいことあった?」

「今のところは特に」


 演台に立った彼は、図書館司書とは本と人とを出会わせる仕事だとも言った。だけど、残念ながら僕にも高校の図書委員にも、そんなたいそうなことはできない。今のところ、彼が言う図書館の役割を果たせた自信はなかった。


 ただ、僕自身は本ではなく人と出会った。それは瀧浪泪華であったり、それ以外の誰かであったり。


「蓮見先輩は何かやってないんですか? 部活とか委員会とか」


 今度は僕が彼女に聞く。

 そういう空気かと思ったのだ。


 僕がこの家にきてから、おそらく初めてと言っていいほどまっとうに会話をしている。今、僕の目の前にいるのは、学校で見る蓮見先輩に近かった。だから、今はもう少し会話を続けたいと思った。




 でも、どうやらそれは間違いだったようだ。




「あたし? あたしは中二まで陸上をやってた」

「中二まで?」


 やめるにしては中途半端な時期だな。普通は高校受験に備えて引退するもので、早くて中三の夏、遅ければ秋というところだ。


「だけど――」


 と、そこで蓮見先輩の顔から表情が消えた。


「お母さんが病気で入院して、半年とたたずに死んでしまって――それであたしは何もかもやる気を失くした。このままではいけないと思ったときには、もう遅かったわ。前と同じ練習メニューはこなせなくなってたし、記録も戻りそうになかった。だから、やめざるを得なかった」


 亡くなった母親のことを思い出したのか、蓮見先輩は淡々と事実だけを告げ――それきり黙り込んだ。


 再び無言の食事が続く。


「ねぇ、」


 しばらくして、また彼女が口を開いた。


 僕のほうは見ない。視線は皿に落したままだ。




「お母さんは、あんたのこととかお父さんの不倫のこととか、何も知らないまま死んだと思う?」




 ああ、ちがった。


 思い出したのは母親のことではない。僕とは和やかに会話するような関係ではないことを思い出したのだ。


 蓮見先輩は油断したのだろう。沈黙を埋めるため気まぐれに投げた質問に思いがけず興味を引く答えが返ってきたものだから、少しばかり饒舌になってしまったのだ。だけど、ふと我に返る。こいつは父親の裏切りの証ではないか、と。


「すみません。僕には何とも……。たぶんそれはおじさんに聞いてみるしかないと思います」


 その答えを知っているは蓮見氏だけだ。


「そうね。今度、聞いてみるわ」

「……」


 それは言葉通りの意味ではなく――はぐらかしたのだ。


 当然だろう。蓮見氏に聞いて、もし望まぬ答えが返ってきたらと思うと、躊躇うのが当たり前だ。


 結局、僕たちはこれ以降、ひと言も言葉を交わすことなく食事を終えた。

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