第2章 平均値を大きく外れた平均的一日
第1話
最近の僕の一日は、さっぱり馴染めない部屋からはじまる。
朝、目が覚めた僕はベッドから下りると、まずはカーテンを開けた。窓から差し込む朝日に暴かれた部屋は、ライティングデスクやベッド、クローゼットなど、高級感ある黒の調度品によって構成されている。
これが僕に与えられた部屋だ。
ここは、僕がひとまず一ヶ月間蓮見家で厄介になると決めてから、蓮見氏が急遽用意してくれたらしい。
これだけの部屋を簡単にセッティングできるあたり、経済力のある家庭はちがう。それとも親として僕のためにかけるお金は惜しくないということだろうか。一ヶ月後にはすべて無駄になってしまうことを考えると、少し心苦しい。
僕がこの部屋にさっぱり馴染めないのは自分のセンスではないからか、それとも僕みたいな貧乏人には過ぎた部屋だからか。……いや、そこまで経済的に困窮したことはないけど。
まずはラフな部屋着に着替えて、部屋を出る。二階の洗面所で顔を洗ってから階段を下り、リビングへと降り立った。
「おはようございます」
そして、そこにいた少女――蓮見紫苑先輩に朝の挨拶をする。
蓮見先輩はソファに座り、ガラストップのローテーブルの上に広げた新聞を、前かがみの姿勢で読んでいた。今どきの女子高生らしい見た目なので、こういう部分は少し意外だ。医者である父親の影響だろうか。
まだショートパンツにTシャツという、僕と同じくラフな恰好。僕が知る女子生徒の中では最もスタイルがよく、なかなかに目の毒だ。しかし、本人は特に気にした様子はない。僕の目などどうでもいいのだろう。
その蓮見先輩はちらと僕を見やってから、ひと言。
「……おはよう」
相変わらず不機嫌そうな声だった。
「あんた、必ず時間通りに起きてくるのね」
そのわりには話を続けてくる。
てっきり最低限の会話だけで、僕たちの間に世間話などないものだと思っていた。最初は戸惑ったけど、これが十八歳の社交性だと思って受け止めることにした。
「信用される人間の基本は、時間と約束を守ることだと思っていますので」
「ふうん、そう」
蓮見先輩はつまらなそうに相づちを打った。
「図書委員なんてやってるあんたらしい面白くない答えだわ」
「ところで、おじさんは?」
蓮見先輩の言葉に苦笑してから、僕は問うてみる。
とりあえず僕は蓮見氏のことを『おじさん』と呼ぶことにした。お父さんと呼べば蓮見氏も喜ぶのかもしれないが、さすがにまだその事実を受け止め切れていないのでむりそうだった。
「今日は早く出ていったわ。これもよくあることよ。……ほら、とっとと食べるわよ」
蓮見先輩は新聞をたたむと、ソファから立ち上がる。
ダイニングテーブルに目をやれば、そこには朝食が用意されつつあった。いくつか空のまま積み重ねられた皿があるが、そちらはこれからなのだろう。
「あんたはパンを焼いて」
その予想通り蓮見先輩から指示が飛んできた。彼女はこれからベーコンエッグを作るようだ。
程なくして朝食がそろった。
トーストにベーコンエッグに生ハムのサラダ。そして、フルーツヨーグルト。それが本日の朝食のメニューだ。
蓮見氏が僕をこの家に呼んでくれたおかげで、僕は日常の雑事とは無縁でいられた。朝起きれば朝食ができているし、学校での授業を終えてここに帰ってくれば夕食が用意されている。掃除も自分の部屋だけですんだ。家にいればこうはいかなかっただろう。蓮見氏には感謝しないと。
とは言え、居候の身で何もしないというわけにもいくまい。いずれタイミングを見て僕も何かするようにしないと。僕が邸中の掃除をするのは蓮見先輩がいい顔をしないだろうから、手伝うならやはり食事の用意あたりか。
「いただきます」
「ん……」
さっそくふたりで食べはじめる。
蓮見邸は大きい。それに相応しくリビングも広ければ、当然ダイニングキッチンも広い。そこに置いてあるテーブルは四人用だが、一般的なそれよりも大きいように見えた。本当に四人で使っても窮屈さは感じないにちがいない。
このテーブルを蓮見家は数年前まで、家族三人で使っていた。それがあるときを境にふたりで使うことになり、数日前からはまた三人になった。
そして、今は僕と蓮見先輩だけ。
会話はない。
どうしてだろうと考えて、それは蓮見氏がいないからだと気づいた。
今までは彼がいた。僕は蓮見氏とひとまず普通に話ができるし、蓮見先輩は父親に対して怒ってはいるが口を利かないほどではない。だから一見して食事風景が成り立っていたのだ。
でも、その蓮見氏がいないとこのありさまだ。
(だったら、なぜ蓮見先輩は僕が起きるのを待っていたのだろう?)
そんな疑問がわいた。
彼女は僕に面と向かって家族とは認めないと言い放った。父親と一緒に先に食べていれば、きらいな僕とこうして一緒に食事をすることもなかったのに。
「蓮見先輩、今度からこういうときは、先におじさんと食べていてくれてかまいませんから」
僕がそう言うと、彼女はぴたりと食べる手を止めた。
「……もしかしてあたしに気を遣ってる?」
「いえ、そういうわけでは……」
実際にはそうなのだが、ここは言葉を濁しておく。
「まぁ、どっちでもいいけど」
と、蓮見先輩は投げやりにこぼした。
「あたしね、きらいなの。裏表のある態度。いつもはいやいやでもやってるのに、やらなくていい理由があるときだけ嬉々としてやらないってのもそのひとつ。あたしはきらいならきらいってはっきり言うし、やりたくないことは最初からやらない」
「……」
つまり僕がきらいでも食事は一緒にすると決めた以上、そうしなくていい口実を探すような真似はしたくないということか。
まったく。どこかの裏表のある先輩も少しは見習ってほしいものだな。尤も、あそこまではっきりしていると、逆に好ましくあるのだが。
「なに? おかしい?」
「いえ、特には」
苦笑は顔に出していないつもりだが、その気配を微妙に感じた蓮見先輩がこちらを睨んできた。
彼女は、ふん、と鼻を鳴らし――それっきり会話はなくなる。
やがて食事も終わりかけたときだった。
「学校ではあたしとあんたが姉弟になったなんて言わないでよね」
不意に蓮見先輩が口を開いた。
「言いませんよ。言ったところで誰も信じない」
「でしょうね」
彼女は白けた調子で同意した。何せ、事実は小説よりも奇なり、みたいな話だからだろう。
実際、試しに言ってみたが、クラスメイトたちにはできの悪い冗談だと思われた。その一方で、僕がこんなことで冗談を言わないと知っている奏多先輩は疑いもしなかった。あの人ならこちらが改めて言わなくても、言いふらしたりしないだろう。
「でも、いちおう。これでも身内の恥だしね」
そして、僕に釘を刺すのは蓮見先輩だった。
「わかりました」
これ以上言うのはやめておくことにしよう。
§§§
食事を終えると、部屋に戻って学校に行く準備をする。
当然、登校は別々だ。
「じゃあ、先に出ますので」
階下に降り、蓮見先輩に声をかける。
その彼女はキッチンにいた。すでに制服に着替えていて、どうやら弁当の用意をしているようだ。
特に返事がないので、僕はそのまま家を出ようとした。
「……ねぇ」
しかし、そこで呼び止められる。
「今、お昼はどうしてるの?」
足を止め、戻ってきた僕に蓮見先輩が問うてきた。自分は作業をしたままだ。こちらをまったく見ない。
「え? 学食に行ってますが?」
「前は?」
さらに問いを重ねてくる。
「母が弁当を作ってくれていました」
その母ももういない。
まだ癒えていない傷を抉るような無遠慮な彼女の質問に、僕はややむっとしながら答えた。
「そう」
ようやく蓮見先輩がこちらを向いた。
「じゃあ、その弁当箱、今度持ってきて」
真っ直ぐ僕を見ながら、そんなことを言う。
「え?」
「あるんでしょ?」
「まぁ、家に戻れば」
ここまで彼女の意図がわからないまま答えていたが、ようやく漠然と察した。何せ蓮見先輩は今まさにそれをやっている。
「もしかして作ってくれるんですか?」
「そう言ってるつもり」
彼女はぶっきらぼうにそう答える。
「どうせいつも自分とお父さんの分を詰めてるから、ひとつ増えてもそんなに手間は変わらないわ。でも、弁当箱は自分で用意しなさい。あたしはそこまではしない」
「わ、わかりました」
蓮見先輩の一方的に要求を突きつけてくる態度に圧倒されて、僕はたどたどしく返事をした。
「あたしの場合はさ、お母さんが病気だったから。病院に見舞いに通いながらいろいろおしえてもらえた。でも、あんたは――」
語る彼女の言葉はそこで途切れ、
沈黙。
やがて蓮見先輩はガシガシと乱暴に頭をかいた。そんなにしたらせっかくセットした髪が台無しだろうに。
「あー、いいわ。忘れて。この話、うまく着地させられそうにないから」
自分で言いたいことがうまくまとまっていないらしい。
「ほら、早く行きなさい。あんたが行かないと、あたしも出られないんだから」
「え? あ、すみません。それじゃあ」
しっしっ、と手を払う蓮見先輩。最初から最後まで、実に一方的だ。僕はその言葉に追い立てられるようにして蓮見邸を出た。
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