第4話

 それ以来だ。彼女がこの図書室に足繁く通うようになったのは。


 もちろん、目当ては僕。


 図書室が閉まる少し前、利用者の人数が片手で数えられるくらいになると、同類とみなした僕のところにやってきて、いくらか話をしていくのだ。


 最初は淑女然とした表の顔で。

 ふたりきりになると人目を意識しない裏の顔で。


 その中で彼女は語った。




「わたしにとって、いま自分がどうすればいいかわかるということは、周りがわたしに何を求めているかわかるということなの。だから、わたしはその期待に応え続けて今のわたしになった」




 容姿を褒められれば、美しくあろうと己を磨いた。

 成績を賞賛されれば、優秀であろうと勉学に励んだ。

 微笑を賛美されれば、微笑みを絶やさないよう努めた。




 つまり今の瀧浪泪華という人間は美しく、優等生で、いつも優しく微笑んでいる――周りがそうあってほしいと望んだ、理想の具現化なのだ。




「でも、あるときふと思った。わたしにはちゃんと『自分』があるのだろうかって。もしかしたら『空っぽ』なんじゃないかって」




 ここであのとき僕に問いかけた言葉につながるわけだ。


『あなた、ちゃんと「自分」はある?』


 それが彼女の抱える悩み。


 その後、瀧浪先輩は自分にも向けたその問いに対しひとつの答えを出し――日々の日課のように、よりいっそうこの図書室に通うようになった。挙げ句の果て、最近では先のようにつき合えと言い寄ってくる始末。同類なのはいいとして、僕みたいなののどこがいいのだろうか。


「悪いけど、僕は今のところ誰ともつき合うつもりはないよ」


 僕は突き放すように返す。




 一方、僕は瀧浪泪華を警戒すべき相手だと認識した。『同類』であるが故に懐に入られる。それが怖いと思ったのだ。だから、瀧浪先輩と出会って間もなく、彼女に敬語を使うことをやめた。


 奇妙で、且つ、感覚的な言い方になるかもしれないが、自分を冷静に客観視し、場の流れに合わせて適切な発言や表情を用意する僕は、瀧浪先輩に対してはむしろ無防備だ。警戒しているからこそ取り繕わない本来の自分で相対することに決めた。




「あら、わたしじゃご不満?」

「まさか」


 瀧浪先輩でも不満とか、どんな男だ。ハリウッド女優でも狙っているのか?


「単に僕がそういうのに向いていないだけ」

「向いていない?」


 首を傾げ、問い返してくる瀧浪先輩。


 そう。僕という人間は恋愛に向いていない。もしかしたら友達と友情を結ぶことすら向いていないかもしれない。この感覚は彼女にならわかると思ったのだがな。……まぁ、いいか。


「忘れてそうだから言っておくけど、僕は母親を亡くしたばかりだ。そんな人生の余剰分でやるようなことに割く余裕はないよ」


 僕は彼女の言葉を遮るようにして言葉を重ねた。


「だからこそじゃない。弱っている今がチャンスと思ったのよ」

「ひどい話だ」


 僕は思わず天を仰ぐ。


「打算で動く女性はきらわれるよ」

「女は打算で動くものよ」


 そうきっぱり言われるといっそ清々しい。ますます恋愛なんてするものじゃないと思えてくる。


「それにこれくらいじゃ静流はわたしをきらわないわ」

「……」


 その自信はどこからくるのだろうか。


 だが、実際、彼女の言う通りではあった。僕は瀧浪泪華のこの裏表のある性格をむしろ好ましく思っている。先ほどの一歩間違えたら男に拳で殴られそうな台詞も、彼女が言う分には許せてしまうのだ。




 真壁静流は、瀧浪泪華に好意をもっている。




 そこは間違いなく確かだ。だが、僕には恋人だとか男女交際だとかに踏み込めない理由もあった。


 僕は致命的な『欠落』を抱えているのだ。




 チャイムが鳴った。


 時刻は午後五時五十五分。六時の本鈴の前の予鈴だ。六時には特別な理由がないかぎり下校しなければならず、予鈴はそろそろ帰る準備をしろと言っているのだ。


 故に、図書室の閉室時間も六時。


 図書委員の僕としては、残っている生徒に退室を促すのが仕事だ。もちろん、目の前にいる瀧浪先輩も除外はされない。


「そろそろ閉めるんで、とっとと出てもらえないか」

「一緒に帰れる?」

「残念ながら、今日はもう少しばかり仕事が残ってるんでね。お生憎様」


 きっと瀧浪先輩の誘いを断る男など、この茜台高校広しと言えども僕くらいのものだろう。


 僕の代わりにカウンターに座っていた先生方が何もしてくれなかったのは前述した通り。おかげで細々とした仕事がまだいくらか残っているのだ。


「そう。なら仕方ないわ。また今度ね」


 それを挨拶代わりに瀧浪先輩は帰ろうとして――そこで一度動きを止めた。

 僕へと振り返る。


「静流、お母様が亡くなっていろいろ大変でしょうから、何か力になれることがあったらわたしに言ってね」


 それは最初に聞いた言葉とよく似ていたが、そのときほど白々しくなく、打算も感じられなかった。


 要するに、本心。


 これもやはり瀧浪泪華であり、実に卑怯だと思う。


「ありがとう。そのときは遠慮なく頼らせてもらうよ」


 僕がそう答えると、瀧浪先輩は満足げに微笑み、図書室を出ていった。


 それを見送ってから、


「さて、と――」


 と、僕は意識的に発音する。


 この図書室にはもうひとり残っている。


 開室して間もなく、いちばんに入ってきた三年の女子生徒だ。彼女はあれからずっと席に座ったまま、思案してはノートにペンを走らせ、ノートにペンを走らせては思案しを繰り返している。


 僕は彼女のもとに歩み寄った。




「奏多先輩」




 名を呼ぶと彼女――壬生奏多みぶかなたが顔を上げた。


 長身に映える長いナチュラルストレートの黒髪に、切れ長の目。蓮見紫苑や瀧浪泪華に勝るとも劣らぬ美貌の持ち主だ。


 これなら先のふたりとともに並び称されてもよさそうなものだが、その氷のように冷たい相貌と超然とした態度のおかげで、陰で女帝と呼ばれつつもアンタッチャブルな扱いとなっている。――この学校の暗黙の了解。だからこそ先ほどの瀧浪先輩も、彼女はいないものとして素の顔を見せたのだ。


「ああ、静流」


 彼女もまた、僕を名前で呼ぶ。


「もう閉室ですよ。集中しているところ申し訳ないですけど」

「お前、相変わらず楽しそうな人間関係ね」


 奏多先輩は自分の前に広げていたノートを閉じながら、僕を見上げてくる。そうしながら暗に退室を促す図書委員としての僕の言葉には答えず、そんなことを言うのだった。口もとにはわずかに苦笑が浮かんでいる。


 楽しい人間関係なのは否定できない。何せ普段はお淑やかな瀧浪泪華が、ここでは裏の顔を見せるのだから。


「実は最近さらに愉快になりまして」

「何かあって?」


 奏多先輩の好奇心がほんの少しだけ鎌首をもたげる。


「蓮見紫苑先輩、ご存知ですか?」

「蓮見? ああ、あの子ね。もちろん知ってるわ」


 アンタッチャブルで世捨て人みたいな奏多先輩でも、この学校に二年と少しもいればさすがに知っているか。


「彼女が僕の姉になりました。おかげで今は蓮見家で厄介になっています」

「……」


 奏多先輩がすっと目を細くした。


 別に「お前は何を言っているんだ」と睨んでいるわけではない。僕が口にした言葉の意味について考えているのだ。だが、彼女をよく知らない人間なら、思わずたじろいでしまうにちがいない。


 そして、わずか数秒後。


「お前の父親が、あの子の父親でもあった?」

「説明が省けて助かります」


 奏多先輩は実に聡明で、頭の回転も速い。


「そう。冗談みたいな話ね」

「まったくもって同感ですよ」


 しかも、悪い冗談の類だ。


「そんなこと言って、案外まんざらでもないのではなくて? 両手に華だものね」

「両手、ね……」


 つまり蓮見紫苑と瀧浪泪華が華ということなのだろう。


「だといいんですけどね」


 僕は苦笑して誤魔化す。


 確かに見た目だけならそうなのだろう。


 でも、蓮見先輩にとっては僕以上に悪い冗談で、おかげで僕は見事に蓮見先輩からきらわれてしまっている。


 他方、瀧浪先輩はあの通り性格に難がある。同類とみなされ言い寄られている現状は、普通に考えれば幸せなことなのだろう。だけど、残念ながら僕はそういうのに向いてはおらず、懐に飛び込まれることを怖れてもいた。


 それでも両手に華というなら、僕にはもう一本手が必要になる。

 そう思って奏多先輩を目をやれば、麗しき孤高の女帝は僕にも己にも無関心な様子でノートや筆記用具を片づけていた。


「帰るわ、静流」


 奏多先輩は、程なくすべて制鞄にしまうと、席を立って出入り口へと歩き出した。


「お気をつけて」


 それを見送る僕。


 彼女が出ていくと同時、午後六時の本鈴が鳴った。……時計仕掛けみたいな人だな。


「さて、と――」


 またも僕は意識して声を出す。


 とっとと残っている仕事を片づけてしまうことにしよう。やるべきことがあるのはいいことだ。それをやっている間は、よけいなことを考えないですむ。

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