第11話 友情の廊下


 自衛隊の教育隊は、前期、後期合わせて約6か月間である。陸上自衛隊は、三か月の前期教育で基礎を学び、その後、成績や適性、本人の希望などによって決定した職種ごとに、それぞれの駐屯地へと別れ、後期教育を受ける。ほとんどの場合が、そのままその部隊へ配属となる。

 学生たちは全員、教育期間中は長期休暇を除き、寝食を共にし、訓練を受け、休みの日も単独行動は禁止されているため、文字通り、24時間を共に過ごす。

 中学、高校では毎日顔を合わせるが、平日のみで、せいぜい一日8時間程度だ。月に160時間。一月720時間を共に過ごす自衛隊は、時間だけ見ても実に4.5倍である。ましてや厳しい訓練で叩きのめされ、励まし合った仲だ。教育隊の同期は兄弟のように仲良くなることも少なくない。後期教育も同じ部隊なら尚更だ。

 横野にとって、中村がそうだった。

 だが、最初は仲良くなる気さえなかった。

 ラグビー一筋で、花園にも出場経験のある横野は、ベッドバディ(2段ベッドの上と下のコンビ)中村の入隊理由がアニメだと聞いて怒りすら覚えた。訓練についてこれず、足を引っ張っているから余計にそう思った。同じ班だったが、励ましたりはせず、むしろきつく当たった。

 入隊して三週間ほどしたころ、高熱を出して隔離部屋で寝込んだ。高卒で入隊した横野は、一人で寝込んだことなど今までなく、急に心細くなった。クラクラして、トイレへ行くのも難儀した。

 急に催して、床に嘔吐した。部屋を出ることもできなかった。普段使わないロッカーやベッドなどが押し込まれ、常に薄暗く狭苦しい部屋に、酸っぱい匂いがたちこめた。ふらふらして片付けもできない。情けなさとさみしさで涙が出た。

 突然ドアが開き、中村が入ってきた。手には大量のスポーツドリンクを持っている。


 「あ~、吐いちゃったか。あ、これ、飲んで」


 と、何でもないことのように差し入れを置いて帰った。呆然としていると、バケツやぞうきんを持ってきて、吐しゃ物を片付け始めた。


 「おい、いいよ。自分でやる」


 「いや~横野にはいつも助けられてるしさ。ほら、俺ら、バディじゃん」


 吐しゃ物を拭いたぞうきんを絞って、また拭いた。10分くらい黙って拭いていた。

 言いたいことは山ほどあった。いつも助けてなんかいない。きつく当たっていただけだ。なぜここまでしてくれるんだ。

 出ていこうとする中村に、やっと一言絞り出した。


「中村、ありがとう」


「はやく良くなってよ」


 一人になった部屋で、また泣いた。暖かい涙だった。

 持続走で、100点まであと2秒が切れず、体力徽章を取れなかったとき。

同じ部隊になったとき。

30km行軍を完歩したとき。

うれしい時も悔しい時も抱き合って泣いた。分かち合った。

中村とは、何度も抱き合って泣いた。

今回で何度目かわからない。だが、これが最後になることだけは、わかっていた。



「おい!そいつを今すぐに落とすんだ!化け物になる前に!」


田中が声を荒げる。

本田が田中の胸倉をつかみ上げる。


「黙れ。そんなことは中村が一番よくわかっている」


あまりの迫力に、田中はすぐに口を閉じた。

全員が、少し遠巻きに二人を見守る。中村は泣きじゃくっている。横野は何かを中村に伝えているが、声は聞こえてこない。

本田は二人に近づいた。話を聞くのは野暮かもしれないが、とっさのときに中村を守らなければならない。横野の顔は、中村とは違い、落ち着き、諦めが見えた。


「頼む。中村。ただで死にたくない。何か、役に立ちたいんだ。時間がない」


「う、うん。わかったよ」


 二人は立ち上がり、歩き始める。逆は何度もあったが、横野が中村に肩を借りるのは初めてのことだった。


「オイ。どこに行く気だ!」


「本田二曹も手伝ってください。居室に拘束します」


 田中を無視して本田に言った。さっきまで泣きじゃくっていた中村が、覚悟を決めた男の顔になっていた。


「何をする気だ……まさか」


「はい」


 すべてを察した本田は、佐藤や田中に、少しでも休んでおくよう伝えると、横野を背負い、5階に降りた。


 暗い廊下は、いつもより長く感じた。

 これから、唯一無二の友を使って、自分が生き残るための実験を行う。不明瞭な部分を少しでも明かす為に廊下を歩いている。人の道を外れた、非道という名の廊下を進むことに、もう迷いはなかった。


 両手両足をロープで縛りベッドの足に固定した。ロープはある程度姿勢を変えられるよう、ゆとりを持たせてあったが、その姿勢は、牢獄に捉えられた囚人さながらであった。

 親友の手から受けるそれを、横野は黙って受け入れ、中村も躊躇わなかった。本田はただじっと二人を後ろから見ていた。もし、佐藤鋭一がこうなったとき、同じことを自分はできるだろうかと思わずにはいられない。

中村を、何がここまで突き動かしているのか、わからなかった。


「きつくないか」


「大丈夫だ」


「体に変化があったら教えてくれ。感覚でいい。暑いとか、寒いとか、そんなのでいい」


「噛まれたところが、異様に痛い。今は、それくらい」


 中村はもう泣いていなかった。

 本当は泣きたかった。薄い望みにすがりたかった。噛まれたところを切断して感染を止める方法は、映画ではよくある。

【ワールド・ウォー・X】という映画では、1000人に一人くらいの割合でウイルスに抗体を持っていた。【28秒後】でも、主人公の妻と息子がそうだった。だが、それを口にするのは、親友の覚悟に対して失礼だと思った。

 横野は見栄っ張りだし強がりだった。辛くてもきつくてもそれを隠していたし、顔に出てしまっても口では絶対に「平気だ」と言っていた。そんな横野が中村は好きだった。


「なんか、いろいろ思い出が蘇ってくる。走馬灯みたいなもんかな。関係あるのかな」


「あるかも。【旧感染】では、ゾンビになる直前に、一番幸せだったころの記憶がよみがえるって解釈があったし」


「あ、じゃあ違うわ。中村と初めて風俗行った時のことだもん」


「どんな走馬灯だよ」


「あの時の相手の名前、憶えてるか」


「もちろん、ミユキさんだよ。(20)ってなってたけど、絶対(25)くらいだったって、そのあと焼き肉食いながら話したよね」


「あのときさ、二人で行って、結局待たされて、中村と入れ違いで俺が入ったじゃん?ずっと黙ってたけど、俺もミユキさんだったんだよね」


「え!うそ!そんなことある!?ていうか、なんで言わなかったんだよ」


「初体験が同じ相手で、しかも入れ違いとか言えないだろ!完全な穴兄弟じゃん」


「もうそれ真の兄弟だよ」


 二人は大笑いした。本田だけ、静かに泣いていた。


「はぁー……やっと、言えた。もう心残りねーわ」


「……」


「30分くらいたったか。まだ痛いくらいだな。動かせるし、見た目も変わってないだろ?」


 中村はうつむいたまま黙っている。


「メモ取るなりしろよ!お前が……」


「無理だよ。俺には無理だよ。横野がいなくなったら、俺には無理だよ。頼むよ。死なないでくれよ」


「中村、俺だって、し、死にたくねぇよ。う、うぅ、死にたくねえよ」


 暗い居室に、今度は泣き声が響き渡った。大きな声だった。

 当たり前だと本田は思っていた。20歳そこそこの彼らが死を受け入れるなど不可能だ。先ほどまでの落ち着きは、諦めからくる達観と、非常による感覚のマヒでしかなかった。二人で語る思い出話がそれを崩し、感情を引き戻したのだ。

 ひとしきり泣くと、二人はまた思い出話をして、泣いた。

 何度も何度もそれを繰り返した。泣いて落ち着くと、思い出したかのように横野の変化を確認していた。


 開始から一時間半。横野の体調が急激に変化し始めた。


「なんか、意識が……すごい熱があるときみたいな」


 中村が額に手を当てるが、体温は高くない。


「なかなか、ゾンビにならないな」


「主人公の仲間とか、重要人物は変化が遅いんだよ」


「なら、中村が、主人公だな」


「俺はそんな柄じゃないだろ」


「ゾンビ映画の主人公なんて、だいたい冴えない奴だろ」


「はは、そうかも」


「中村、生きろよ。お前は、何が、何でも」


「うん。うん。……横野、その、どうしてほしい?」


「ん?……あぁ、好きなだけ試して、殺してくれ。その後は、その辺で寝かせてくれ」


「わかった」


「返事をしなくなったら、俺は、もう、ここにいない。思考が止まったときが死だろ」


「うん。そうだね」


「俺は、まだお前のこと、考えて、るよ。生きてるよ。中村」


「うん」


「気にせずやっちまってくれよな。俺は一足先に、エンジェルクラブで、待ってるからよ」


「それ、俺らが卒業した風俗じゃん」


「天国だろ」


「うん。俺も行きたいよ」


「やり切ったら来いよ。少なく、とも、素人童貞のままは、来る、なよ」


 横野の言葉が途切れ途切れになり始めた。かなり苦しいだろう。それでも懸命に話している。


「難易度高いけど、わかった。頑張るよ」


「中村、なんか、食いもの、ないか。腹、減ってきた」


「何がいい?パンとかお菓子しかないけど」


「あー、あれ、食っておけ、ば、よかったな。土曜の、朝の」


「土曜の……【まるごとウィンナー】?好きだったもんな。ごめん。ないや」


「あれが、最後、なんて、思わないもん、な」


たかが菓子パン一つすらあげられないことが、悔しかった。最後の晩餐すら、選ばせてやれない状況が憎かった。親友との別れが、こんな暗い部屋で、こんな終わり方になるなんて、想像もつかなかった。


「横野、ペッちゃんこだし、期限切れだが、いいか」


 本田はポケットから平たくなった【丸ごとウィンナー】を取り出した。部屋を出る際にポケットに詰め込んだものだ。袋も破けてしまっている。


「はは、さすが本田二曹だ。あざ、す」


 袋を開け、中村が手渡した。力なく握り、食べた。辛うじて咀嚼するが、目はほとんど閉じている。


「あー……やっぱ、うめぇ……」


 手からパンが落ち、口からもこぼれ落ちた。胡坐をかいたまま、眠るようだった。


 本田は中村の肩に手を置くと、そっと二人を引き離した。

 その直後、横野だったそれは、目を見開き、立ち上がり、襲い掛かろうとする。


「横野、横野!」


 中村の呼びかけには応じない。暴れようとしてロープを引くだけだった。

 本田は廊下に置いていたツルハシを持ってきた。安らかな別れのために隠していた。


「中村、外に出てろ」


 前に出る本田を右手で制止して、首を振った。


「いいえ、本田二曹。実験はこれからです」


 本田はその気迫に圧倒された。

 力強い、熱い涙が頬を伝っていた。

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