第7話 もうちょっとでFになる

「じゃ、まず身長を測ってもらおうかな」


 舞果は柱にぴったりと背をつけて気をつけをした。背筋を伸ばすと彼女の豊かな胸が余計に強調される。


 俺はそれができるだけ視界に入らないようにそっぽを向きながら、彼女の頭に定規を当て、柱に鉛筆で印をつけた。巻き尺の引き手をつま先で踏み、印まで伸ばす。


「百五十九・三……いや、四? 百五十九・三五――」

「百五十九ね」

「アバウトだな」

「直司が細かすぎるんだって」


 舞果は呆れたように言った。ひとにものを伝えるならできるだけ正確なほうがいいと思うのだが。


 ――それにしても、百五十九センチか。思ったより小さいな。


 なんとなくイメージ的に百六十センチ半ばくらいだと思いこんでいた。


「じゃあつぎはスリーサイズね」

「スリーサイズ!? 服を買うのにスリーサイズって必要か?」

「ついでに下着も買うから。ちょっときつくなってきちゃって」


『ちょっときつくなってきちゃって』


 その言葉に思わず舞果の胸部を見てしまった。


 ――まだ成長中、だと……?


「どこ見てるの?」


 舞果は口元にうっすらと笑みを浮かべ、俺を上目遣いで見た。


 俺ははっとして視線を上に向けた。


「い、いや。――じゃあ測るから」

「よろしく」


 と、両腕を横に伸ばす。


 俺は舞果の横に回りこんでしゃがむと、身体に触れないよう気をつけながら巻き尺をヒップに巻きつけた。


「なんで横から?」

「そりゃあ――」


 ――前や後ろからだと、なんかこう、いやらしいから。


 などと言えるわけもなく。


「このほうが正確に測れるんだよ」

「そうなの?」

「ああ」


 知らんけど。


「ええと、シャツの上からだから一センチ引くとして……八十七センチ」

「あ~、また大きくなっちゃった」


 悲痛な声をあげ舞果は自分の尻をつかんだ。俺は弾かれたように顔をそむける。


「これ以上は嫌だなあ……」

「べつに大丈夫だと思うけど」


 舞果はにまっと笑った。


「直司、大きいお尻のほうが好きなんだ?」

「は!? 違う、そういう意味で言ったんじゃない!」


 あくまで自己肯定感の低い舞果を励ますつもりで言ったのだ。


 ――好きだけども!


 それは否めない。


「ほ、ほら、つぎ、ウエスト測るぞ」


 巻き尺を巻きつけようとしたが、豊満な胸のせいでシャツが持ちあがり、どこがウエストなのか分からない。


 舞果は口をとがらせた。


「胸のせいで寸胴に見えるでしょ? これ困るんだよね。シャツを買うときも、身長的にはMサイズなのにワンサイズ上じゃないとへそが出ちゃうし」


 ――そんな苦労が……。


 胸に関しては大は小を兼ねないこともあるらしい。男性の認識とは大いにずれがある。


 舞果は鳩尾のあたりを手で押さえた。そのせいでいわゆる『乳袋』に近い状態になり、胸の形がくっきりと浮き出る。


 俺は慌てて視線を下げ、ウエストに巻き尺を一周させた。


「え、ええと、六十・八センチ」

「六十センチね」

「いや、六十・八セン」

「六十センチね」

「いや、仮に四捨五入しても六十一セン」

「六十センチね」


 舞果は食い気味に訂正してくる。


「……」

「六十センチね」

「まだなにも言ってないだろ!?」


 六十センチが譲れないラインのようだ。


 食い下がっても舞果の機嫌を損ねるだけと思い、俺はつぎの場所を測ることにした。


「じゃあ、バ、バストな」

「ふふっ、よろしく」


 また横から巻こうとしたところ、舞果からストップがかかった。


「駄目、バストは前から」

「な、なんでだよ」

「だって、ちゃんとトップバストの位置で測らないと」

「トップバストって」

「まあ、乳首?」

「ち――」


『乳首』が俺の頭のなかでリフレインした。あまりに直接的な単語に意識が白く濁る。


「横からだとずれるでしょ――って、聞いてる?」

「聞いてます」

「なんで敬語?」

「じゃあ、は、測るぞ」

「ん」


 舞果は後ろ髪をかきあげるような仕草で腕を上げた。俺は巻き尺を持って彼女の背中に腕を回す。


 ――ち、近い……!


 ド迫力のふくらみが眼前に迫る。


 目をそむけたまま巻き尺を前に回した。


「こら、ちゃんと見ないと測れないでしょ」


 渋々、視線を正面にもどす。


「ねえ、わたしの、どこだと思う?」

「わ、分かるわけないだろ……」

「でもこのままじゃいつまでも終わらないよ? だいたいここかなってところで測ってみて?」

「じゃ、じゃあ……」


 俺は当てずっぽうで巻き尺をくっつけた。


「あ」


 舞果が短い声をあげた。そして艶然と微笑む。


「正解」


 どうリアクションしていいのか分からず、俺は無言になってしまう。


「ふ~ん。そこが直司の理想の位置かあ」

「そういう話じゃないだろ……!」

「べつにいいじゃん、彼女なんだし。――で、何センチ?」

「ええと、九十センチ――九十センチ!?」


 衝撃的な数字に、俺は思わず叫んでいた。大きい大きいとは思っていたが、まさか大台(なのかは知らないが)に乗るとは。


 ――九十、六十、八十七。


 多分、この数字は一生忘れないことだろう。


 ともかくスリーサイズを測り終え、俺はほっとして巻き尺を巻きとる。


「ちょっと待って、まだ終わってないよ」

「え? だってスリーサイズだろ?」

「そうだけど、アンダーも測らないとカップが分からないじゃん」

「アンダー?」

「胸の下」


 と言われても、シャツが持ちあがっているせいでどこなのか分からない。


「ど、どうやって測れば?」

「ん~。じゃあ、ここは自分で測るよ」

「へ?」

「なに?」

「……いや、べつに」


 舞果は巻き尺を受けとると、こちらに背を向けてシャツのボタンをはずした。


「……」


 ――べつにがっかりしてない。がっかりしてないぞ?


「六十九」


 ボタンのシャツを留めながら言う。


「トップとアンダーの差が二十一センチだから、Eだ。あともう一センチ大きかったらFだったのになあ」

「なんでちょっと残念そうなんだよ。大きいと困るんじゃないのか?」

「わたしは困るけど、Fのほうが彼氏的には嬉しいでしょ?」


 と、悪戯っぽい笑みを向けてくる。


「そ、そんなこと……」


 胸の大きさ、まして誰が決めたかも分からないカップなどという単位で、俺が一喜一憂するとでもいうのだろうか。するわけないだろう、少ししか。


 そのあと舞果は、父さんのお下がりのノートパソコンでZUのサイトを物色した。


「ねえ、どの色がいいと思う?」

「どれ?」


 画面に色とりどりのブラジャーが大写しになっていて目がちらちらする。


「そ、そういうのは、自分の好きな色にしたほうがいいんじゃないか?」

「え~? でも、せっかくだから彼氏に喜んでもらいたいじゃん」

「ふうん、そういうもんか」


 などと冷静を装って返したものの、実は顔面が崩れそうになるのを堪えるのに必死だった。大人っぽく妖艶な舞果も素敵だが、こうやって子供っぽく甘えてくる彼女もまた愛らしくて魅力的だった。


「なら紫とか」

「へえ」


 舞果はにやりと笑った。


「エッチ」

「なんでだよ!?」

「紫はエッチじゃん」

「黒のほうがエッチだろ」

「黒だとエッチだから、あえて紫を選ぶっていう心性がエッチ」

「心性がエッチってなんだよ!?」


 ひとをドスケベかのように。


「もうひとつ欲しいんだけど、直司はどの色がエッチだと思う?」

「選ぶ基準変わっちゃってるな! あと俺たちエッチって言いすぎだからな」


 多分、もう三ヶ月分くらい『エッチ』と口にした気がする。


 下着をカートに入れたあとも舞果は「部屋着も欲しいなあ」とか「あ、これかわいい」などとつぶやきながらショッピングをつづけていた。


「直司、エプロンも買ったほうがいいかな?」

「い、いらん!」

「え? 料理するとき使うじゃん。――それとも裸エプロンのこと本気にしてたの?」


 にいっと笑う舞果。


 もうこれ以上は身が持たないと感じ、俺は隣の部屋に逃げこんだ。





 翌日の夜、バイトから帰ると、玄関前の廊下にZUの段ボール箱が畳んで置いてあった。


 ドアを開き、ダイニングへ入る。


「ただいま」

「あ、おかえり」


 キッチンに立っていた舞果が返事をした。


 ――なんかいいな、これ。


 誰かがいる家に帰ることがこんなにも胸を満たすとは思わなかった。


 ――そういえば今日は、寄り道することなんて考えもしなかったな。


 なんだかんだ言って、俺はこの状況を楽しんでいるのかもしれない。


「昨日買ったやつ、もう来たんだ?」

「うん。おかげさまでサイズもぴったり」


 舞果はにっと笑う。


「あとで見せてあげるからね」

「い、いや、いいよ。――そ、それよりなに作ってるんだ?」

「鱈のフライ、タルタルソース添え。白米、味噌汁とともに」

「フランス料理風に言ってるけど要するにフライ定食な」

「風情がないなあ」


 料理にもオプション料金を支払っている。舞果は「料理は好きだしべつにいらない」と断ったのだが、話しあいの末、俺一人分を作る場合のみ三百円という料金設定となった。


「舞果、魚好きだよな」

「肉も好きだよ。でも魚のほうが健康にいいから」


 食事の話をしていたらいよいよ腹が減ってきた。


「大盛りにしてもらえる?」

「だーめ。もう夜九時を過ぎてるし、あとは寝るだけなのにたくさん食べたら身体によくないよ」


 本人曰く『毎日コンビニのハンバーガーを食べてそうな顔』の舞果は、意外なほど食事に気を遣う。あの健康的なスタイルは地道な努力によって保たれているということだろうか。


 ――あれ?


 あきらめて隣の部屋にリュックを置きに行こうとしたところ、違和感を覚えて振りかえった。


 椀に味噌汁をよそう舞果が身につけているもの。


「エプロン……」


 ――やっぱり買ったのか。


 デニム生地で、お腹のポケットに黄色いワンポイントがある。


 ――猫だ。


 ワンポイントは、前足を伸ばし、お尻を高く上げて伸びをする猫の刺繍だった。


 俺は昨日の、猫みたいな仕草をする舞果の姿を思い出していた。


「なに?」


 舞果はにやりと口角を上げた。


「裸エプロンを想ぞ――」

「よく似合ってる」


 声が重なった。舞果が目をぱちくりする。


「え?」

「いや、似合ってるなって」


 猫っぽい舞果に猫の刺繍はまるでトレードマークのようにしっくりとくる。


「あ、そ、そう……」

「いまなにか言ってたよな? なんて言ったんだ?」

「べつに」


 舞果はうつむき、口をつぐんでしまった。


 ――あ、あれ? 機嫌悪くしちゃったか……?


 しかしなにが引き金になったのか分からないから謝ることもできない。


 なんとなく気まずいままその場を離れ、荷物を隣の部屋に置き、洗面所で手を洗い、食卓につく。


 フライ定食が出された。しかし――。


「なに、これ……?」

「なにが?」


 正面に座った舞果がちょっとふてくされたみたいに言った。


「夕飯だけど」

「いや、そうじゃなくて。――この量」


 ご飯も千切りキャベツも、映えを意識した喫茶店のパフェみたいにこんもりと盛りつけられていた。味噌汁もなみなみによそわれている。


「自分が大盛りにしてって言ったんでしょ」

「でも身体に悪いからって」

「しっかり噛んで、ゆっくり食べれば大丈夫」


 ――そういうものか?


 猛烈に腹が減っていたのでありがたいのだが、いままで急な心変わりが一悶着の予兆になっていただけに身構えてしまう。


「……いただきます」


 俺はびくびくしながら食事をはじめる。フライのざくっとした歯触りとほろりと崩れる柔らかい白身。味噌汁の濃さはちょうどよく、山盛りの白飯がみるみる減っていく。


「あの、おいしい、です……」

「そう」


 舞果はあごに手をつき、明後日の方向を向いたままぶっきらぼうに返事をした。


 とくにちょっかいをかけられることもなく、食事は無事に終了した。


「ごちそうさまでした……」

「お粗末さま」


 食器を片して流しで洗っていたとき、ふと疑問に思った。


 ――そういえばなんで舞果はずっとエプロンを着けてたんだ?


 調理は終えていたし、片付けも俺がすることになっているし、いつまでも着けておく必要はない。俺が食事中のあいだずっと、なにをするでもなく俺の正面に座っていたのも謎だ。


 片付けを終え、食卓でスマホを見るともなく見ていると、風呂からあがった舞果が、


「じゃ、おやすみ」


 と横を通りすぎた。


 さっきとは打って変わり上機嫌な表情。いまなら尋ねても大丈夫だろうかと、俺は恐る恐る呼びとめた。


「あ、あのさ」


 舞果は笑顔で振りかえった。


「ん?」

「さっき怒ってなかった……?」

「え? 全然」


 きょとんとしている。演技には見えない。


「さっき、フライ定食を食べてたとき――」

「『鱈のフライ、タルタルソース添え。白米、味噌汁とともに』ね」

「フライ定食を食べてたときさ」

「意外と強情だね」

「なんか急に無口になったような気がしたから」

「べつにそんなこと――」


 と、言いかけて、舞果は「あ」となにかに気がついたみたいに短い声をあげた。


「あれは、怒ってたんじゃなくて、その……」


 彼女にしては珍しく、もごもごとなにか言っている。


「え? なんて?」


 すると舞果はかっと顔を赤くして怒鳴り声をあげた。


「う、うるさいなあ! とにかく怒ってないんだって!」

「お、怒ってるじゃん……」

「あーうるさいうるさい! おやすみ!」


 寝室の戸がぴしゃんと閉められた。かえって怒らせてしまったようだ。


 先日やいまの怒り方を見ても、たしかに舞果は怒りを内に溜めて黙りこむようなタイプではない。ということはあのとき、舞果は怒ってはいなかった。じゃああれは――。


 ――どういう感情……?


 まあ、怒ってなかったなら、それでいいんだけど。

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