第6話 ワイシャツを着た猫

「直司~。洗濯終わったからカゴを運んでもらってもいい?」


 脱衣所のほうから小瀬――じゃなくて、舞果、の声がして、俺の心臓はどきりと跳ねた。


 さっき初めて下の名で呼びあったばかりなのに、舞果はもう何年も前から一緒に住んでいる恋人のような声で俺を呼んだ。人見知りがどういう感覚かも分からないと豪語しただけのことはある。


 一方、俺は呼ばれただけでどきまぎしてしまっている。しかし下の名で呼びあおうと言いだしたのは俺だ。せっかく彼女がその気なのに水を差すわけにはいかない。


「舞果、舞果、舞果、舞果……」


 少しでも早く慣れようと、俺はぶつぶつ言いながら脱衣所へ向かう。


 洗濯はオプション料金を支払ってやってもらった。舞果は「べつにいらない」と断ったが、


「俺は舞果を『彼女』として買った。彼女だからと言って必ずしも家事をやるわけじゃないだろ? だからこれは正当な料金だ」


 と、説き伏せた。


 あんな状況だった舞果にできるだけお金を渡したい。それはまちがいなく本音だ。しかし理由はそれだけではないような気がしていた。


 俺のなかで、無償の奉仕に甘えることへの抵抗感がある。それはおそらく、ひとと深く交わることへの恐れなのではないかと思う。


 一歩踏みこんで拒否されるくらいなら、最初から踏みこまないほうがいい。だから金は支払うことで適度な距離感をとりつつ、しかし離れることはない関係を維持したい。


 そんな関係が、俺にはとても心地よいのだ。


「お待た――せぇ……!?」


 ドアを開けたと同時に目に飛びこんできた光景に、俺の語尾は思わずうわずった。


 舞果はワイシャツを着ていた。それはいい。問題なのはワイシャツしか着ていないことだ。


「なんだよその格好!?」

「裸ワイシャツだけど」

「名称は聞いてないんだよっ。なんでそんな格好をしてるか聞いてる!」

「だって全部洗濯しちゃったから」

「なんで全部しちゃうんだよ。洗いがえの分は残しておけばいいだろ」

「だって匂うし……。あ、直司がちょっと臭いほうが好みだっていうなら、つぎからそうするけど」

「そういう性癖はない!」


 舞果は口元に笑みを浮かべた。


「じゃあ、裸エプロンのほうがよかった?」

「なにが『じゃあ』なんだ……。というかうちにエプロンはないし」

「なんだ、残念」


 あったらしてくれたということだろうか。


 ――惜し……じゃねえ!


 ちらっと顔を出した俺の本能を俺の理性がぶん殴って引っこませた。


「第一なんで俺のワイシャツ着てるんだよ。自分のパーカーがあるだろ」

「男の子のワイシャツだからふとももまで隠せるんだよ。自分のパーカーなんか着たら下半身丸出しじゃん」

「ま、丸出しとか言うなよ……」

「あ、さすがにパンツは穿いてるよ?」

「どっちにしろ装甲が薄い……!」

「それにさ、ほら――」


 腕まくりをしていた袖をもとにもどす。手がすっかり隠れ、袖口が垂れさがった。


「こういうの、男の子、好きでしょ?」


 おどけた調子で招き猫みたいな仕草をする。


「ニャーン。ふふっ」


 ――おうふ……!


 俺はデレッとしそうになり、口元を覆って顔をそむけた。あまりに愛らしく、あまりに魅惑的。もともと猫っぽいキャラをしているのも相まって、猫舞果は破壊力が高すぎる。


「か、カゴを持っていけばいいんだな?」


 動揺を悟られないうちに退散しようと、洗濯カゴに手をかける。


「あ、待って」


 舞果が思い出したように手を叩いた。


「なに?」

「遅くなったけど、シャツ借りたから」

「本当に遅いな!?」


 さっきから声を張りすぎて喉が痛い。


「直司は元気だね」

「おかげさまでな」

「じゃあ、その元気でカゴをベランダまで運んでくれる?」


 俺はカゴを持ちあげた。


「お、さすが男の子。力持ちだね」


 癖なのか、舞果は語尾をささやき声にすることが多い。いまも『だね』がささやき声だった。その吐息混じりの声がなんだか妙に艶っぽくて、耳にふうっと息を吹きかけられたように背中がぞくぞくとしてしまう。


 さっきからツボを突かれすぎて理性がやばい。俺は逃げるように脱衣所をあとにした。





 洗濯物を干し終えたあとも、舞果はまだ裸ワイシャツでうろうろしている。とてもよい光景だが、まったく気が休まらない。俺の精神力はそろそろ限界だ。


「なあ、ジャージを貸すからさ、せめてそっちを着てくれないか?」

「やだ」


 俺のまっとうな提案は二文字で一蹴された。


「洗濯物が増えるじゃん」

「ちょっとくらいいいだろ」

「わたしがこの格好をしてるとなにか困ることでもあるの?」

「い、いや……、ないけど」

「じゃあべつにいいでしょ」


 本当は目のやり場に困っているのだが、俺の欲望を舞果に悟られるのがひどく恥ずかしくて、正直に打ち明けることなどできない。


 言葉につまる俺を舞果はじっと見つめている。観察するような視線。居心地が悪くなり、俺はぶっきらぼうに言った。


「とりあえず服を買えよ。洗濯するたびに着るものがないんじゃ不便だろ」


 家賃なし、食費、光熱費は折半だから、服を買うくらいの余裕はあるはずだ。


「わたしは大丈夫だけど」

「でも」

「あ」


 反論しようとしたところ舞果はなにか思いついたように短い声をあげた。ちょっと考えたあと、にいっと口角をあげて言う。


「うん、分かった。買う」


 嫌な予感しかしない。先日も急に心変わりしたあと一悶着があったし。


「じゃあZUズィーユーにでも行って――」

「駄目だよ、もったいない。一番近いZUでも電車で往復五百円以上かかるじゃん。ネット通販なら送料無料だよ?」

「でも試着したほうが」

「大丈夫大丈夫、ちゃんと測れば問題ないよ」


 そう言って寝室に引っこみ、手になにか持ってもどってきた。


 それは百均で売ってそうな巻き尺だった。


「はい」


 と、手渡され、俺は、


「え?」


 と疑問の声をあげる。


 舞果は両腕を横に伸ばし、


「測って」


 と、笑みを浮かべた。


 ――これかあ……!


 女の子の至近距離に近づくだけでも緊張するのに、身体を測る、まして裸ワイシャツの女の子をとなると、考えただけでも脳が熱暴走を起こしそうだ。


 これもサブスク彼女としてのサービスのつもりなのだろうか。そりゃ彼女に裸ワイシャツでスキンシップを求められれば嬉しいに決まってる。でもちょっとサービスが過剰じゃないだろうか。まあ、あの夜みたいな求められ方と比べればかわいいものだが。


 いずれにしろ服は買ってもらわねば、洗濯のたびに裸ワイシャツを拝む羽目になる。


「分かった」


 だから俺は了承するしかなかった。

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