第5話 それは遅れてやってくる

 契約を交わした日の翌朝。起床してダイニングへ行くと、昨日と同じようにテーブルで頬杖をついていた小瀬水さんがぱっと顔をあげた。


「あ、おはよう」

「あ、うん。お、おはよう……」


 俺は視線をそらし、ぼそぼそとつぶやくように言った。小瀬水さんは怪訝な顔をしたが、すぐに明るい笑顔になる。


「今日の朝ご飯はね、塩サバと大根の味噌汁。あと昨日買った玉子焼き器をさっそく使ってみた」


 きれいな形をした玉子焼きがテーブルに供される。




 昨日、例の契約書にサインしたあとビジネスホテルに赴き、正式にチェックアウトした。そのあと銀行へ行き、下ろした三万四千円を封筒に入れて小瀬水さんに渡した。


「ありがとう」


 と、礼は言った彼女は、なんだかとても複雑な表情をしていた。当面の生活資金を手に入れた安堵感。俺に対する猜疑心。そういったものがないまぜになったような、こわばった笑みだった。


 これから始まる同居生活への不安がさらに色濃くなる――かと思いきや、そのあとで立ち寄った百均の店で小瀬水さんが、


「お茶碗とお箸。ペッパーミルもほしいなあ。あ、玉子焼き器! 玉子焼き器は絶対に必要だよね!」


 と、大いに上機嫌で買い物に興じている様子を見て俺は、


 ――あ、けっこう大丈夫かも。


 と、気抜けしたのだった。


 しかしそれは昨日の話。今日は――。




 玉子焼きを口に運ぶ。柔らかく、滑らかな舌触り。ほろっと崩れて、じわりと甘みが広がる。


「ね? おいしいでしょ?」

「う、うん」

「玉子焼きはやっぱり甘いのが好き。朝だし、糖分もとりたいしね。有永くんは甘いのとしょっぱいの、どっちが好き?」

「え? あ、あ~……、どっちも?」

「そう……?」


 不審げな視線を向けてくる小瀬水さん。俺はうつむき、もくもくと朝食を食べた。


 食事を終え、食器を洗う。ダイニングチェアに座っていた小瀬水さんの横を通りすぎ、隣の部屋にもどろうとしたところを呼びとめられた。


「ねえ、今日からいよいよ正式に彼女になったわけだけど。どんなことしてほしいか考えた?」


 しなを作って微笑みかける小瀬水さん。俺は顔をそむけた。


「あ、いや、まだ……。考えとく」


 と、部屋に引っこもうとしたところ。


 バン!


 と大きな音が鳴り、俺はびくりとなって振りかえった。


 小瀬水さんがダイニングテーブルを叩いたらしかった。柳眉を逆立て、俺をにらみつける。


「さっきからなんなの?」

「え?」

「目をそらしたり生返事したり!」

「あ、あの」

「やっぱりわたしの言ったとおりだった! すぐに飽きて、ぽいって捨てるんじゃん!」

「いや、ちが――」

「なにが違うの? ――もういい。お金は返すし、出ていくから」


 俺の目の前を通りすぎる小瀬水さんの顔は怒り心頭といった感じで、でもなぜかちょっと涙ぐんでいるようにも見えた。


「いや本当に違うんだって!」


 小瀬水さんの手首をつかむ。しかし俺ははっとしてすぐに手を離した。


「気を悪くさせたんなら謝る。でも飽きたとか、ほんとにそういうんじゃないから」

「だったらなんで」

「それは――」


 非常に言いづらい。しかしためらっていてはまた誤解を与えてしまう。俺は腹を決めて言った。


「朝、起きるだろ? そしたら、なんか……、俺の部屋に同級生がいたので……」

「は? 一昨日からいるじゃん」

「そうなんだけど! 昨日までは一種の興奮状態にあって……。いや、小瀬水さんを買ったのを後悔してるとかじゃなく、その……、冷静になってみると、どう接したらいいんだろうって」

「え、待って、まさか――」


 小瀬水さんは信じられないものを見るような眼差しを俺に向けた。


「人見知りしてるの? いまさら?」


 図星を突かれて顔がかあっと熱くなる。


「だから、あの……、基本的にこれが本来の俺と思ってもらえると……」

「……」


 小瀬水さんはしばらくぽかんとしていたが、やがて、


「ふっ――、あは、あっはははははは!!」


 堪えきれずといった様子で腹を抱えて笑いだした。


 ――まあ、笑うよな……。


 笑いが治まるまで、俺はじっと羞恥に耐えた。


 ひとしきり笑い、小瀬水さんは胸に手を当てて息を整えている。


「小瀬水さんは人見知りとかしなさそうだな」

「しないね。どういう感覚かも分からない」

「治したいとは思ってるんだけど……。どうしたらいいかな?」

「え? べつに治さなくてよくない? 病気じゃあるまいし」

「へ?」


 予想外の返答だった。


「でも、暗い奴より明るくてコミュ力高い奴のほうがいいだろ?」

「日向を飛ぶチョウチョも暗い石の下でじっとしてるダンゴムシも同じ虫じゃん。どっちがいいとかないと思うけど」


 自由な小瀬水さんらしい平等な言葉だった。


「小瀬水さん個人としては? 同居人はもっとコミュ力高いほうがよくない?」

「あ、無理無理。わたし、あんまりぐいぐい来られるの嫌だから」

「同じ虫でもぐいぐい来られるのは嫌なんだ」

「そりゃ好き嫌いはあるよ、人間だもん」


 俺は勇気を出して尋ねてみた。


「じゃあ、俺は?」

「生理的に無理な奴の家になんかお邪魔しないよ」

「そ、そう……」


 俺は顔を伏せた。しかしこれは人見知りをしたからではない。顔がにやけるのを抑えられなかったからだ。


「あのさ、してほしいこと、ひとつ思いついたんだけど」


 すると小瀬水さんは艶やかな笑みを浮かべた。


「いいよ、なんでもする」

「じゃあさ……」

「うん」

「名前で呼んでくれない?」

「うん?」


 彼女は目を丸くした。


「あ、名前って、下の名前って意味で」

「いや、そうじゃなくて。――本当にそれだけ? なんでもするって言ってるのに」

「え? ああ……。じゃあ、もうひとつ」

「なんだ、やっぱりあるんじゃん」

「小瀬水さんのこと下の名前で呼んでいいか?」

「ふざけてるの?」

「な、なにが?」

「だって、そのていどのこと」

「そのていどって……、人見知りにとって下の名前で呼びあうなんて大事おおごとだぞ!?」

「ええ? ごめん……」


 小瀬水さんは釈然としない表情で謝った。


「じゃあ、さっそく頼む」

「直司」

「いや、それじゃあ名前を口にしただけだろ。もうちょっと、なんかの用事で呼ぶ感じで」

「意外と注文多いなあ。――直司~。あのね、――できちゃった」

「なにがだよ!?」

「玉子焼きが上手に」

「そこは絶対倒置法にしたら駄目だろ」

「うるさいなあ。はい、じゃあ今度はそっち」


 俺はせき払いをした。


「あ、あ~……。ま、ま……、ま、いいか」

「曖昧に終わらせようとしてない?」

「してない! 俺ほんとそういうの許せないタイプだから」

「はいはい、御託はいいから」

「う……。――ま、……舞果」

「なあに? 直司」


 心臓をつかまれたみたいに胸がきゅうっとした。これ以上、顔面崩壊を我慢することは無理だ。俺は隣の部屋に行くていで背中を向けた。


「こ、これからも名前で呼びあうようにしよう」

「そんなに恥ずかしいならやめればいいのに」

「いや、やる」


 小瀬水さんは――いや、舞果は、俺の人見知りを受けいれてくれた。でも俺はやっぱりなんとかしたいと思っている。


 逃げたところで、その先にあったのはべつの孤独だった。同じ過ちは繰りかえしたくない。しかしそれ以上に、舞果ともっと話をしたい、気の置けない仲になりたいと、シンプルにそう思った。


 背後から舞果のため息が聞こえた。


「もうちょっとこっちから攻めるか……」


 低いつぶやきに俺は振りかえる。


「え?」

「こっちの話」


 舞果は肩をすくめて微笑んだ。

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