第2話 走る、しゃべる、買う
俺は見知らぬコインパーキングにいた。
「はあっ、はあっ、はあっ……!」
周囲にひとの気配はない。どうやら男を巻いたようだった。
「はあぁ……」
――助かった……。
黄色い鉄柵に座りこむ。
なんてひどい大人がいたものだろう。未成年の女の子に乱暴しようとしたうえ、それを糾弾したら逆ギレで襲いかかってくるなんて。理性をどこかに置き忘れてきてしまったのだろうか。
いつもどおりの退屈な一日だったはずが、まさかラストにこんな展開が待っているなんて思いも寄らなかった。
小瀬水さんは無事に帰ったのか、どうしてこんな時間にあんな場所を歩いていたのか、やはりあの噂は本当だったのだろうか。いろいろな疑問は思い浮かぶが、頭が混乱していてうまく考えがまとまらない。
ひとまずからからの喉を潤したい。駐車場の端にある自販機に向かうべく、疲れきった脚に力を込めて立ちあがろうとした、まさにそのときだった。
「見つけたぞ」
「ほわあああああああああああああ!!??」
背後からとうとつに声がかかり、俺は思わず叫び声をあげて柵から転げ落ちた。
コンクリートの地面に尻餅をつき、某光の巨人の必殺技みたいに手首を交差させる。防御と威嚇のつもりだ。
しかし柵の向こう側に立っていたのはさっきの男ではなかった。
小瀬水さんだった。
「『ほわあ』って……!」
彼女は腹を押さえて笑っている。
無事だったことにはほっとしたが、あまりに爆笑するのでだんだんむかっ腹が立ってくる。しかしなにか言い返すにしても尻餅ス○シウム光線状態ではなんら説得力がないと思い、俺は立ちあがって尻の砂を払った。
「そんなに笑うことないだろ」
「ごめんごめん。でも面白かったよ?」
「それなんのフォローにもなってないけど」
「すまなんだ」
「すまなんだって……」
小瀬水さんは自分の頬をはさむみたいにぴしゃりと叩いた。
「これでも感謝はしてる。ありがとう。助かったよ」
「あ、うん……」
急に礼を言われ、文句を言おうとしていた気持ちはしぼみ、それどころかなんだか照れくさくなって俺は話をそらす。
「そういえば、あいつは?」
「ああ、あれ? 走りはじめてすぐにしゃがみこんでゲロってた。かなり酔っぱらってたみたい。酒臭かったし」
「すぐに? 俺、かなりの距離を走ったのに……」
「いい運動になったね。今夜はよく眠れるんじゃない?」
耳をくすぐるような声、のんびりとした口調。先ほどまでの興奮がすうっと落ち着いてくような気がした。
「いい大人がどうしてあんなことを」
俺がそう言うと、小瀬水さんはうっすら笑った。
「大人を信頼してるんだね」
「え?」
冷めた声の響きに、俺は思わず聞きかえしてしまった。
「彼女と一緒に来てたみたいだけど、泥酔しすぎて愛想尽かされたみたい」
またもとの口調にもどる。いまさっきの冷たい声が幻だったかのようだった。なんだか触れてはいけない気がして、俺は気がつかなかったふりをした。
小瀬水さんは自販機でペットボトル飲料を二本買い、俺のほうに掲げて見せる。
「お茶とスポドリ、どっちが好き?」
「スポドリかな」
「あれ? 意外。じゃあ、はい」
と、お茶のほうを投げて寄こした。
「いやなんでだよ」
「スポドリはわたしが飲むつもりだったから」
「じゃあなんで聞いた」
ともかく、いまはのどの渇きを癒やしたい。キャップを開け、口をつける。一息で半分以上も飲んでしまった。
「お~、いい飲みっぷり。いける口だね」
「爽○美茶にいける口とかあるのかよ」
「さあ? わたしは聞いたことないけど」
「じゃあなんで言った」
言動が適当すぎる。
「そうだ、これいくら?」
俺はリュックのポケットにある財布に手を伸ばす。
「いや、
適当なくせに妙に律儀なことを言う小瀬水さん。
というか。
「俺の名前、知ってるんだ」
「クラスメイトだし当たり前でしょ。いまやっと思い出したんだけど」
「最後の一言がなければ喜んでた」
「正直すぎちゃってごめんね」
おどけたように言って、小瀬水さんは悪びれもせず笑う。
教室にいるときの彼女はいつも物憂げで寡黙だ。なのにいま目の前にいる彼女はよくしゃべる。あんなことがあったからテンションが上がっているのか、それともこれが素なのか。
俺は後者であってほしいと願った。ふたりでピンチを乗り越えて、夜のコインパーキングで清涼飲料水を飲みながら談笑する。それはまさに、俺がけっして手に入れることができないとあきらめていた青春の一ページ的な体験だった。
「さ、そろそろ帰ろうかなあ」
小瀬水さんが伸びをしながら言った。
もう少し話していたかったが、もう遅い時間だし、あの男がまた現れないともかぎらないからあまりのんびりもしていられない。
物騒な夜道を帰る女の子にかけるべき言葉がある。しかし青春難民として過ごしてきた俺はそのセリフをさらりと口にするスキルを持ちあわせてはいない。
頭の中で何度もリハーサルをし、「よしっ」と小さくつぶやいて気合を入れてから、俺はようやく彼女に声をかけた。
「よ、よかったら家まで送るけど」
「大丈夫」
一蹴された。
――ちっくしょう!
俺は自分のふとももにパンチした。
脳内リハーサルでは万事うまくいって、なんなら彼女の家に上がってコーヒーまでごちそうになっていたのに。
言い方がキモかったのだろうか。やはり慣れないことなんてするもんじゃない。
俺があまりに落ちこんでいたからだろうか、小瀬水さんは付け足した。
「あ、違うよ? 有永くんが頼りにならないとか、信用できないとか、家を知られたくないとか、これ以上一緒にいても時間の無駄だと思ったとかじゃなく」
「違うならそんなに具体例挙げる必要なくない……?」
「家、ここだから」
あごをしゃくって示したのは四階建ての古びたビル。一階入口の看板にはこう書いてある。
『ビジネスホテル
「……ん?」
――ビジネスホテル……?
「ええと……。実家でビジネスホテルを経営しているということ?」
「はい? ――あ、違う違う。客として宿泊してるの」
疑問が晴れたと同時に疑問が深まった。
なぜホテルに? 親と喧嘩でもして家出したのだろうか。
しかし事実は俺の予想を大きく上回った。
「わたし、家がないから」
「……」
絶句した。
なぜ家がない? 親は? 親戚は? 行政に相談は?
頭の中につぎつぎと疑問が湧きでてくるも、そのどれもが、いまさっき初めて言葉を交わした相手に尋ねることができるようなカジュアルな内容ではない。
だから俺は遠回りに質問した。
「ホテル住まいなんて金がかかるんじゃないか?」
「でもビジネスホテルぐらいしか未成年が安全に泊まれる場所ってないから。お金は、バイトのがあるし」
「……そのバイトっていうのは」
「ライブハウスの受付だけど」
ほっとした。やはりあの噂は噂でしかなかったのだ。
しかしその安心は長くはつづかなかった。
「まあそこ、潰れたんだけどね」
「は?」
「出演者のひとりがやばい薬に関わってたみたいで、そのとばっちり」
「え、じゃあ、収入は」
「ないよ。ホテルに泊まれるのも今日までだし新しいバイトを探さないとだけど、住所不定でスマホも持ってない未成年を雇ってくれるところなんて、まあないよね」
小瀬水さんは「まともなところではね」と付け足した。
「じ、じゃあ、明日からどうするんだよ」
「まだ野宿はきついし、『まともじゃないほう』のバイトをするしかないかな」
「……それって、どういう」
「ん~。噂が噂じゃなくなったり?」
「そんな」
「まあ仕方ないよ。生きるにはお金が必要だからね。いずれにしろ、有永くんには関係のないことだよ」
俺は打ちのめされたような気分になっていた。彼女が『まともじゃないほう』のバイトに手を出さざるを得ないことも、仲間だと思っていた彼女に「関係ない」と切って捨てられたことも。
「今日は本当にありがとう。お礼はまた改めて。じゃあ」
小瀬水さんは手を振ってホテルのほうへ歩いていく。
家がなく、金がなく、親もいない、頼れる人間もいない。同じ高校の、同じクラスの女の子が、まさかそんな悲惨極まる事態に陥っているなんて考えもしなかった。ほかのクラスメイトもそうだろうし、なにも手を打たないところを見ると教師だって気づいていないのだろう。彼女のバイト先の同僚も、ホテルの受付も見て見ぬ振りだ。
俺は教室の中で不可視化された存在だ。しかし彼女は教室の中だけでなく、社会からも不可視化された存在だった。
彼女は『エリクサーを使いきった』わけではなく『そもそもエリクサーを持っていなかった』のだ。
「関係ない」と言われたからといってすごすごと手を引いてしまっては、彼女はずっと誰からも見えない存在のままだ。
遠のく小瀬水さんの背中。このまま黙って見送ったら、もう二度と会えなくなってしまうのではないか。
「待って!」
そう思い至ったとき、俺はすでに彼女を呼びとめていた。
「なに?」
彼女は振り向き、小首を傾げた。
「俺が金を出す、って言ったら?」
小瀬水さんに必要なのは、とにかく金だ。幸い多少の蓄えがある。しかし――。
「そんなことをしてもらう理由がない、って返す」
彼女はぴしゃりと拒絶した。
「その援助に対してなにもお返しできないしね」
「……」
「もういい?」
再びホテルのほうへ歩きはじめる。
気持ちが焦る。
『まともじゃないほうのバイト』
『噂が噂じゃなくなったり?』
小瀬水さんが知らない誰かに買われてしまう。それを想像するだけで頭がかあっと熱くなり、なぜか涙が出そうになる。
嫌だ。単純にそう思った。
――誰かに買われるくらいなら、いっそ……。
「じゃあさ!」
小瀬水さんは呆れた顔で振りかえった。
「今度はなに?」
俺は意を決して、その言葉を口にした。
「俺が小瀬水さんを買う」
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