第3話 値切りたい彼女

「…………はい?」


 俺の申し出に、小瀬水さんはぽかんとした。


「小瀬水さんを、買う、って言ったんだ。だからその金で当面をしのいで、ちゃんとしたバイトを探せばいい」


 小瀬水さんはくつくつと笑いだした。


「大人しそうな顔して意外と大胆なこと言うんだ。いいよ、じゃあどこで――」

「ただし、はしない」

「……なにそれ?」

「今日みたいに俺と話をしてくれるだけでいい」

「はあ? 話すだけでお金を? 馬鹿じゃないの。正直うさん臭いよ」


 小瀬水さんははっと息を飲んだ。


「ごめん、ちょっときつかった。――でも、しばらくホテルに泊まれるようなお金を貢いでるなんて親にばれたら、有永くんまずいでしょ」

「親は――」


 口にしかけたとき、ぐらっと視界が揺らいだような気がした。


 中学一年のとき両親が別れ、父子家庭になった。中学二年のとき、子供のいる女性と父親が再婚した。家に居場所がなくなった俺は、遠くの高校に進学した。そして現在に至る。


 べつに新しい家族に嫌がらせをされたとかそういうことはない。むしろなじもうと努力してくれていたと思う。俺だって自分なりに頑張った。でもそういう『気を遣う空間』が俺には耐えられなかった。


 早い話、俺が人見知りとコミュ障をこじらせたのだ。


「有永くん?」


 固まってしまった俺を見て、小瀬水さんは怪訝な顔をしている。


「ごめん。――いま一人暮らしだから問題ない。金のほうもバイトしてるから大丈夫」


 娯楽にも交際にも使う予定のない、貯まっていくだけの金だ。まるでエリクサーのように。


「で、どうかな。悪い話ではないと思うんだけど」

「そうだね、願ってもない話」

「じゃあ――」

「だから受け入れられない」

「へ?」


 予想外の返答に俺は思わず間抜けな声を出した。気兼ねしてしまうとかなら分かるが、いい話だから断るって――。


「どういうこと……?」

「そんな一方的な善意、信じられるわけないでしょ」

「でも、俺は本気で」


 小瀬水さんの表情が険しくなる。


「いまはね。明日、気が変わらないって証明できる? 明後日は? やっぱり失敗したって絶対に後悔しない?」

「それは」

「どうせすぐに飽きて、ぽいって捨てたりするんでしょ?」


 まくしたてるような早口。声はかすかに震えている。どこか飄々とした雰囲気の小瀬水さんだからこそ、この事態はただごとではないと感じられた。


 ――捨てられることを怖がってる……?


 なんだかとても意外な気がした。


 そんなことしない、と返事をすることは簡単だ。もちろん俺は本気で小瀬水さんを救いたいと思っている。しかし言葉だけで不安を拭い去ることは難しい。


「第一、わたしなんかにそんな価値があるとは思えない」


 わたし。小瀬水さんの言葉には自己肯定感の低さが垣間見えた。


 一方的な施しを与える、受けるような関係はとてもいびつで、容易に破綻してしまうもの。彼女にはそういう価値観が根づいているようだった。


 で、あるならば、俺がすべきことは。


 ――小瀬水さんをしっかりと求めること。


 かけがえのない価値があると、行動で示すこと。


 小瀬水さんを見つめる。俺と同じ青春難民の女の子。とてもきれいで、そしてとても話が弾む。


 そんな女の子に、俺が真に求めることは。


「じゃあ――」

「じゃあ、なに?」


 答えはすでに見つかっている。しかし俺の性格が言葉をせき止めた。


 怖い。もしも拒否されたら。嘲笑されたら。


 ――駄目だな。またできない理由ばかり探している。


 しかしなにも言わないでいたら、このまま小瀬水さんがふっと消えてしまうような気がして、そのほうが何倍も怖い。


 俺はようやく、その言葉を口にすることができた。


「か……、彼女になる、とか?」


 このごに及んで『とか?』などと語尾を濁してしまった無様な俺を笑わば笑え。


「彼女……?」


 小瀬水さんは怪訝な顔をした。


「彼女って……、ガールフレンドのこと?」

「そ、そうだけど」


 改めて確認されると非常に照れる。顔がハロゲンヒーターであぶられたかのように熱くなり、俺はうつむいた。


「わたしなんかが彼女になって、有永くんは嬉しいの?」

「嬉しいに決まってるだろ」

「ほんとに?」


 納得できないといった表情だ。自尊心の低い小瀬水さんを俺がいくら褒めたところで堂々巡りだ。だから俺は一歩、具体的なほうへ話を進めた。


「価格を決めよう」


 小瀬水さんは虚をつかれたみたいに目を丸くする。


「価格?」

「小瀬水さんの価格。自分ではいくらだと思う?」


 彼女は目をうろうろさせた。


「きゅ……、九百八十円くらい」

「やっす!?」


 今日日きょうび、ラーメン一杯も食べられない。


「え、や、安いかな?」

「桁違いに安い」

「じゃあ九千八百円とか?」

「さっきからそのバーゲンセールみたいな値付けはなんなの?」

「不人気商品なので」

「もっと自信を持ってくれ」


 小瀬水さんは少し口をとがらせるようにした。


「逆に有永くんはいくらだと思うの?」

「俺は……、まあ、十万とか」

「なんだ、わたしの値付けより安いじゃん」

「どういう計算!?」

「え? だって、一年ででしょ? 十二で割ったら八千円ちょっと」

「違う違う! ひと月で」

「ひと月!? 優に一年は食費に困らない金額だよ!? それをひと月で!?」

「『優に』は無理だろ!」


 いままでどんなやばい生活をしてきたんだ。


「高すぎる。引く」


 拒否をするみたいに両手のひらをこちらに向ける。しかし表情は満更でもない感じで、俺はもう一押しだと意を強くする。


「じゃあ、あいだをとろう」


 スマホの計算機アプリで平均を出す。そして画面を小瀬水さんのほうへ向けた。


「五万四千九百円」

「う……」


 彼女はひるんだように一歩、後ずさった。


「も、もう一声!」

「そっちが値切るのおかしくない!?」

「で、でも、四万九千円たす五千九百円なんて……!」

「え、なんで分解したの?」

「だって、ご、ごま……円なんて大金、口にしただけで動悸がする……」


 と、胸を押さえた。


「四万は大丈夫なのか」

「四万は、ギリで」

「それでもギリかよ」


 五万四千九百円という値付けはむしろ激安の部類だろう。レンタル彼女は一回のデートで数万円という話を小耳にはさんだことがある。


 しかしこのままの価格では小瀬水さんの健康を害してしまう恐れがある。値下げもやむを得まい。


 そのときふと、ある金額が思い浮かんだ。


「なら、三万四千円は?」

「まだ高い感じがする……。というか、その金額ってなに? 妙に半端だけど」

「ひと月の給料。俺、バイトしてるから」

「仕送りは?」

「もらってるけど、なにかあったときのために余裕が欲しくて」

「堅実だね」

「だろ?」


 まあ、まさか同級生を買う資金になるとは思わなかったが。


「それで、どう?」

「わたしにそんな価値があると思えないけど……」


 あくまで自分の価値を認めない小瀬水さん。これはもう、心の奥底にこびりついた錆のようなもので、俺が一言二言声をかけたところで落としきれるものではないのだろう。


「ならさ、こう考えてくれ。その金額に見合う働きをすればいいって」

「……なんでそんな必死なの?」


 小瀬水さんは俺をじっと見た。その猜疑心に満ちた眼差しに、胸がちくりと痛む。


 同じ青春難民で、親近感を覚えていた。「関係ない」って拒絶されてしまったけど、だからってこの気持ちが消えるわけじゃない。


 ――そうか、胸が痛いのは……。


 これが片思いのようなものだからなのかもしれない。


「わかった。わたし、『彼女』をやる」

「……え?」


 小瀬水さんのとうとつな心変わりに、つい返事が遅れてしまった。


「話に乗るって言ったの」

「な、なんで急に?」

「嫌なの?」

「まさか! めちゃくちゃ嬉しい」


 ――よかった……。


 なぜ翻意したのかは分からないが一安心だ。ほっとして脚の力が抜け、また座りこみそうになった。膝に手をつき持ちこたえる。


「じゃあ、今日は有永くんちに泊まるね」

「は!?」


 声変わりをしてからもっとも高い声が出た。


「なんで!?」

「逆に聞きたいんだけど、有永くんは、男に襲われそうになって傷心の彼女をホテルに放置するわけ?」

「うっ」


 言葉につまる俺、したり顔の小瀬水さん。


「荷物とってくるね」


 そう言ってホテルのほうへ走っていった。

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