第5話
「じゃあ、やめてしまうのかい?」
答えられなかった。俯く私にお爺さんは、「もう夜も更けてきたし、寝ようか。明日は淵の方へ行くと良い」と言ってくれた。
次の日、私は渓谷への道を登って行った。右側には川がある。透明度が高いのか、薄い水色をしていた。
あんな仕事辞めてやる。けれど、私には他に何があるか、わからなかった。
思考は何度も同じ道を辿る。
身体だけはただ、前に進め続けた。
昨日は人もまばらだったのに、今日は一転して観光地らしく多くの客が居た。そこで、ああ、今日は土曜かと思い出す。曜日の感覚さえ失ってしまっていたことに初めて気がついた。
大勢の人がいるのに静かで、昨日から一転して、あんなに暑いはずだったのに、淵に近づくにつれてもう暑くなくなっていた。木がたくさん生えていて、詳しくはわからないけれど、様々な種類の草木が芽吹いているようだった。こんなに遠くまで来られたのだと、感慨深くなる。
その時、ふいに気付いた。
本当に母が心の底から私を憎んでいたのなら、こんなに自由になれる力は持てなかったのかもしれない。
今、私がここに来れたのは、自分の能力をコントロールして、それを仕事にして生計が立てられているからだ。あの学校の学費だって、相当なものだったはずだ。
私がわかることというのは、経験と共に変化していくのかもしれない。
そうだ、だから私は、この仕事をしてみようと思ったのだ。人の心を見えるように手助けをし、縺れた関係の糸を解くことが出来る可能性を持ったこの仕事を。
今まで自分を歩かせてくれたのかが何かを思い出せそうな気がした。
そう言えば、昔、こんな山で修行をした覚えがある。
私の能力に気付いた母親は、その力を操るための訓練学校に私を入学させた。全寮制の学校で、ああ、母は私を捨てたのだなと当時は思った。
その学校での課外授業の一環で、東京の外れにある山で訓練をする事になった。講師として招かれたあの人は、まるで魔法のように、人の心を形にしてみせた。
それは優しさだけでは出来なくて、厳しさまでもを内包していて、この人のようになりたいと思った。
「良くも悪くも、人の人生なのよ」
その人は私に、そう教えてくれた。
「強くなりなさい」
そんなことを考えている内に、木陰のような道をひたすら登っていたのが突然、開けた場所に出た。
目の前には、青より深い、光に透かした緑のような色の水が広がっていた。
崖の上から止め処なく落ちてくる渓流を見ている内に、自然と涙が溢れてきた。この旅に出たから、初めての涙だった。
私が仕事を始めた一年目。絡まった糸。上司に白い目で見られながら必死でした援助。
「ありがとう」
それが、私の支えだった。初めて自分に、意味が生まれたと思った。
自分にも、何かが出来るのだと。
どの人のどんな記憶も、美しい色をしていた。それに気付くと同時に、自分の記憶も美しいのだと思えた。
苦しんでいる時に生まれる色が他人の心を打つのなら、苦しみも少しは紛れるような気がした。
自分の辛い記憶も決断も、未来ではただただ美しいものなのだろう。
そんなのは嫌だと泣いた少女の想い出さえも。
それで良いのだと思えた。どこかへ向かう為のエネルギーになるなら、何だって使ってやろうと思えるようになった。
だって、この世界にはまだ見たことのない美しい場所があるのだと、知ることが出来たのだから。
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