あにうえはしにました

 学院の制服の上から皇国空軍の濃緑の飛行服フライトジャケットを羽織り、カナメ・サギリは白い息を吐き出した。

 海が近いのだろう。今日のアンヌーンは朝靄と言うには少しばかり濃すぎる白の中に居る。そのせいか多少は温かい朝だが、それでも“衣装”として与えられた飛行服は頼もしかった。


 ――彼が来てからはこう言う朝は初めてのはずだが……


 どう思ったのだろうか?

 レンガに足音を刻みながら、ふと、カナメは暗褐色の髪をした隻眼隻腕の竜騎兵のことを考えた。

 口元に笑みが浮かぶ。

 彼に対し、恋愛感情は未だ湧かない。

 それでも人として好意を持つことは出来た。小さな弟の為に国と立場を迷いなく捨てれると言うのは、尊敬に値する。

 そして腕の立つ竜騎兵と言うのも良い。アンヌーンは空の国だ。そうすると子供の頃、どうしたって男の子は竜騎兵に憧れ、女の子は竜騎兵に恋をする。

 政治の道具として使われることが決まっていたカナメですらその例に漏れず、きっと自分が嫁ぐ相手はとびっきりの竜騎兵なのだと幼い頃は考えていた。

 山城樹雨。レフティ。彼はその点、幼い時分の理想そのものだった。

 それに――


「……」


 カナメは無言で右手の人差し指で唇に触れる。昨日の夜のことを思い出した。温度も残っていない。感触も残っていない。そもそも唇には触れられていない。顔を近づけられただけだ。だから精々、息が……吐息が、重なっただけだ。

 だが、それが返ってカナメの頬を熱くする。


「……僕の想像よりも、紳士だったな」


 思わず呟いてしまった一言。

 少女は朝靄の中、それが誰にも聞かれていないことを確認する様に周囲を確認した。







 カナメはそれなりに樹雨に対して好意を抱いている。

 そして樹雨の有用性は昨晩の緊急発進スクランブルで示されてしまった。

 それならば、余りのんびりとしている余裕はない。本来なら昨日の夕方にカナメの下校に合わせる形で役所に寄り、籍を入れるはずだったのにそれが出来なかったのが失敗だ。

 そも、緊急発進スクランブルへの応援部隊が足の遅い魔女部隊ウィッチ・ブルームだったことからも分かる通り、帝国側は未だ引き込めると考えている節が見える。


 ――もしかしたらバルクホルン氏が動いて居るのかもしれない。


 そんなことを考えて、追い出す様に首を振る。

 あの人が本気で動いて居れば娘を宛がってお終いだ。樹雨も恩義があるからカナメよりもそちらを選ぶだろう。

 何と言っても、カナメが恋愛感情を抱いていない様に、樹雨の方もカナメに対して恋愛感情は持って居ない。

 だからカナメは、朝早くにアパルトメントの一室をノックした。

 本来の予定なら昨日の内に引っ越していてもおかしくなかった部屋だ。


「……」


 ノックをしたあと、軽く手櫛で前髪を整える。少しドキドキしている自分の心臓が可愛く思えた。彼もそう思ってくれるだろうか? そんなことを考えた。

 少し、待った。ドアが開かない。


「もしかして――」


 竜舎だろうか?

 昨日の夜、別れ際に、朝に尋ねることを伝えはした。伝えはしたが、相手は竜騎兵だ。

 その昔、竜騎兵と騎竜の一晩の別離を永遠の様に謳い上げる詩人が居た。

 彼が元竜騎兵だと言うのが彼等の生態の本質だ。

 恋人未満の相手との約束など忘れて、竜舎で宝物を磨いているのかもしれない。

 カナメはそんなことを思った。十分に有り得そうだった。

 迎えに行くべきだろうか? そんなことを考える。だが、そんな思考は五秒で打ち切られた。


「アメのおうちにごようですか?」


 可愛らしい声。下から。

 そちらに視線を落とせば、頭の上に灰色の仔竜を乗せ、とうのバスケットを両手で抱えた男の子がいた。

 暗褐色の髪と、同じ色の一つだけの瞳。

 顔立ちは全く似ていないのに、その特徴的な髪と目だけで樹雨との血縁を感じさせる男の子だった。


「……ごようですかー?」


 言葉が出てこないカナメに、小さな男の子、小雨が、軽く小首を傾げてもう一度。頭の上の仔竜もそれに合わせる様に器用に傾いていた。


「あぁ、うん。僕は君のお兄さんに用があるのだが……」

「あにうえ? あにうえは、ねとるよ?」

「うん? 騎竜の世話はしないで良いのかな?」

「してからねた。あのね、アメのごはんもよういしてくれなかったんだよ?」


 鉈を見せながら『これでどうにかしろ』と言われた、と小雨。


「……それは、中々酷いな」


 昨晩の疲れが残っていると言うことは理解する。それでも、小さな弟にこの仕打ちは――


「だからザリガニつった」

「……」


 あ、どうにかなるんだ。

 思った以上にこの小さな男の子はたくましいらしい。


「でもどろくさかったから、しょうしょうさんとこにいった!」


 これはあにうえのごはん! と、バスケットを掲げて見せてくれた。


「では、これから君は兄上を起こすのかな?」

「……」


 バスケットを足元におろし、無言でがさごそとポケットを漁って小雨が腕時計を取り出す。無骨なそれは間違いなく、樹雨の持ち物だろう。小雨はそれを三回ほどひっくり返してからカナメに見せて来た。


「……しちじ、すぎてる?」

「過ぎているな」


 逆さまで突き付けられたソレを見て、微笑ましさにカナメの頬が緩む。

 それを誤魔化す様にしゃがんで目線を合わせながら、うん、と頷くカナメ。アナログ時計は七時二十分を示していた。


「ならおこす」


 言って、ドアを開けて部屋に入って行く小雨をカナメは見送る。「――!」「……、……」すると程無くして兄弟の会話らしき音が聞こえて来た。はきはきとした幼い声と、濁った低い声。しばしその攻防が繰り広げられて――


「あとごじかんだって」


 むぐむぐとサンドイッチを齧りながら小雨が帰って来た。食べ物で買収されたらしい。


「……約束してた綺麗なお姉さんが来てると言ってみてくれないか?」


 はい、飴。と、買収を被せながらカナメ。小雨は無言でポケットに飴を入れると再度部屋に戻って行った。そうして繰り広げられる二回目の攻防。動く気配が奥からして――


「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!」


 何故か叫びに近い苦悶の声が響いたあと、頬を飴で膨らませた小雨が帰ってきた。


「あにうえは、ドアのとこにこゆびぶつけてまるくなってます」

「……」


 何と言って良いのか分からず、言葉を探すカナメ。

 その姿を見ていた小雨は上手く伝わっていないと判断したらしく――


「あにうえはしにました!」


 とても元気に実兄の死を教えてくれた。








あとがき

樹雨が甘やかさなければ小雨は割と一人でどうにかするらしい。

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