352勝0敗

 拓馬くんに将棋を教えてもらった日から一年が経ちました。


 あの日以来、強風モードの扇風機みたいな目まぐるしい日々を送っています。

 手始めに父にねだって将棋盤と駒、各種将棋本を買ってもらいました。

 本での勉強や棋譜並べだけじゃ満足できなくなるとパソコンを買ってもらってネット将棋ができるようにしてもらったし、小学生将棋大会にも出ました。


 あと、あの日以来拓馬くんはほぼ毎日我が家に来るようになりました。目的は私との対局。自分が教えた子にいきなり負けたのがよっぽど悔しかったんですねえ。ちなみに現在まで私の全勝です♡


 まあ要するに私は深く、深く、将棋沼に落ちてしまったのです。沼での生活も悪くないというか、もはや沼の中じゃないと呼吸できない感じですね。将棋楽しい。


 そして今日も今日とて拓馬くんと指しています。

 彼は将棋の勉強しすぎで視力がずっぽり落ちてしまい眼鏡をかけるようになりました。加えて室内にずっとこもってもいるので肌も大根のように白いです。


「むむむ……」


 将棋盤の向こうの眼鏡大根が何やら呟いています。逆転の手がないか熟考しているのでしょう。 

 

 ヘヘン!無駄なことを!


 もう5手前に私の352勝目は確定しているのであって山梨一カワイイ上に慈悲あふるる小五女子である私はその不変的事実を優しく告げてあげるのだった。


「拓馬くん、この将棋はもう5手前に終了してますよ」

「5手前? ……あっ」


 拓馬くんの顔面がさらに青白くなり小刻みに震えだす。お気づきになられたようだ。

 彼の敗北を悟った顔を見ることが私が将棋を指す動機の一つなんですよね。楽しい。


「〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ」

「そろそろ聞かせてもらいたいですねぇ。い・つ・も・の♡」


 青白かった顔色が赤く染まりあごを斜め30度上げると彼は叫んだ。


「チクショ――ッ! 次は勝ってやる―――ッ!!」


 涙目になりながらぴゃあと部屋を出て行った。ああっ気持ちいい……っ!

 父は仕事から帰ってきてビールを飲むと本当に幸せそうな顔をするが、私も同じ気持ちかもしれない。


 勝利の余韻に浸りながら駒を片付けていると母が部屋に入ってきた。

 何やら苦笑いを浮かべている。


「拓馬くん、また泣きながら帰っていったわねぇ」

「そうですね。いつも通りコテンパンにしてあげましたからね!」

「あなたはそれでいいだろうけど、拓馬くんは心配ね」

「えっ、何が?」

「何がって……明日研修会の試験日じゃない? 前回の試験ダメだったんでしょ? いつもの通りあなたにヤラレちゃったら試験に響かないかなって」


 そういえばそうでした。

 私たちは日本将棋連盟の研修会に入ろうとしている。明日は2回めの入会試験日なのだ。


 研修会とはプロ棋士養成機関である奨励会しょうれいかいの下部組織です。

 プロ棋士になる方法はいくつかありますが、一つは研修会でステップアップして奨励会入会、そして奨励会三段リーグを勝ち抜いて四段プロになるというルートがあります。これが私が最も採りやすく、最も堅実なルートでしょうね。

 

 そう、私はプロ棋士を目指すことにしました。

 私も将棋始めてからオトナと指すことも増え、たいていは勝てるんですけど勝てない人には勝てなくてそういった事実が実に気に食わないんですよね。

 プロになりタイトルも取り、世界で私が一番将棋が強いと証明してやりたいのですよ!


 ちなみに拓馬くんは「私に置いていかれたくない」ってのが研修会入りを目指す動機だそうです。ふっふっふ、いヤツめ。


 その拓馬くんは前回の試験で全敗だった。具体的には4局やって0勝4敗。

 

 拓馬くんも決して弱くはないのですが、前回は対局相手の相性が悪かった。定跡じょうせきで押せる相手にはかなり勝てるのですが(私みたいな)感覚派には弱いんですよね。


 確かに母の言う通り今日もコテンパンにしたのはまずかったかもしれない。

 大事な試験の前ぐらいは加減してあげるべきだったかしら。

 

 でも私にとっても明日の試験は大事。

 私は前回の試験で2勝2敗で既に最低クラスのG以外に入れるのは決まっている。

 だけどプロを目指すには一つでも多く勝って上のクラスに入りたい。研修会試験は戦績によって入れるクラスが変わるのだ。

 試験前にわざと負けるなんてしたらきっとリズムが崩れてしまう。

 

 やはりいつも通り全力で勝つしかなかったのだ。

 そんなことを考えながら床についた。



 翌朝。


 私は母を連れ立って甲府駅の信玄像前へ向かった。6時50分に拓馬くんとそこで待ち合わせです。

 

 試験会場の将棋会館は東京は渋谷区にあります。

 小学生だけで渋谷まで行かせるのはちょっと…ってことで母も来てくれるのだ。


 デキる女である母と私は「ちょっと早すぎたかもねー」「まぁ私たち顔だけの女じゃないですし?」とキャイキャイ言いながら6時30分に信玄像前に着いた。 


 拓馬くんは既に像の下で待っていた。

 集合時刻に遅れたわけじゃないですがなんだか申し訳ない気分です。

 

 母も眉毛をハの字にして謝った。


「ごめんね、拓馬くん。待った?」

「いえ、僕も今来たとこですから」

 

 そう言って彼は笑みを浮かべたが、どこかしら表情はこわばっている。血色も悪い。あまり眠れていないのかも。

 

 やはり緊張してるのかな、なんて考えてると私も緊張してきた。

 母に導かれるまま甲府駅の改札をくぐり、鉄骨渡りしそうな名前の特急に乗り、いつの間にか新宿駅に着いていた。

 

 ご存知の人も多いでしょうが新宿駅は超巨大駅。四方しほー八方はっぽー十六方じゅうろっぽーから人が来ます。私や拓馬くんのような子供は大人たちに視界や行く手をさえぎられて迷子になりがちです。


「ほら、お母さんの手を握って」


 そういうわけで母が手を差し出している。

  前回新宿来たときは恥ずかしながら手繋ぎしたわけですが、やっぱ小5にもなってお母さんと手繋ぎって抵抗があるんですよね。


「今日はいいです。ソウブセンとかいう乗り場まで行くだけでしょ? 一度通ってるから大丈夫ですよ」

「うーん、わかったけどちゃんと付いてきてね? 拓馬くんはおばさんと手繋ぐ?」

「いや、いいっす……」


 拓馬くんの顔が真っ赤になった。大事な対局の前なんだから純情な青少年をからかわないであげて欲しいですね。


 母の背中を追いながら駅構内を歩いていく。

 新宿は我が街甲府と違って実に色んな人がいる。パツキンの外国人やゴスロリなお姉さん、身体に何本も鎖を巻きつけたお兄さん(ヘビメタ?)なんかも闊歩している。

 

 はぐれないため心惹かれつつも彼・彼女らをスルーしてたのですが、どうにも気になる人を見つけてしまった。


 お坊さんだ。綺麗に頭を剃り上げてる。しかも袈裟まで着ている。

 もちろんお葬式なんかでは見かけたことはあったんですが、駅で見かけるというのが新鮮で何より頭部がキラキラと輝いていたのでつい見つめてしまった。


 「はっえ~~、お坊さんも電車乗るんだ」などと大変無礼なことを思ったあと、視線を母に戻した。



 いない。



 いない、いない、いない。


 母の姿が見当たらない。見渡す限り見知らぬ後ろ姿。


 どうしよう、はぐれてしまった!


 慌てて前に行こうとしても黒山の人だかりで思うように進めない。

 心臓がバクバクする。

 対局時間に間に合わなかったどうしよう? どうなってしまうだろう?

 もしかしたら再試験は出来ない?

 冷や汗が吹き出す。

 それよりも二度とお母さんたちと会えなかったら?

 目元がジンと熱くなる。


「お母さん! お母さん!!」


 恥ずかしがってる場合じゃないので叫んでみた。

 何人か大人が振り返ったが、その中に母の姿はない。


 みじめさと絶望で、堪えていたものが目からあふれ出す。


「あ、いたいた。何やってんだよお前こんなとこで」

 

 拓馬くんが呆れた顔で隣に立っていた。

 

「いやぁ~、5年にもなって迷子で泣くとかwww 次お前と指すとき思い出して笑っちまうだろな……っておい!暴力はよせ!イタイ!」


 怒りと恥ずかしさでポカポカ殴ってしまった。


「ったく、助けがいのないヤツだぜ。ほら、手ぇ出せ」

 

 そういって拓馬くんは自分の手を差し出した。


「握れと?」

「また迷子になるだろーが」


 今度迷子になったらホントに試験間に合わねーぞと脅されてしまったので、しぶしぶ彼の手を取る。


 柔らかい手だった。骨とかちゃんとあるんだろうか。手のサイズも私より小さい。そういえば身長も私の方が高い。


 その小さい彼がグングン私を引っ張っていく。


 新宿のような都会でも手繋ぎ男女小学生は珍奇なようで、周囲の人らがギョッと驚いたり、ニマニマと口角を上げたり、手をすり合わせて「ありがてぇ、ありがてぇ」と呟いたりしている。ええい拝むな拝むな。

 

 恥ずかしさのあまり自分でも耳が熱を帯びているのをが分かる。

 拓馬くんはどうだろうと見てみると彼の耳も真っ赤だった。

 恥ずかしいならやめればいいのにという気持ちと、恥ずかしいのに繋いでくれているという気持ちがないまぜになった。


 総武線そうぶせんホームに降りると母が鬼の形相で待っていた。

 「だから言ったじゃない!」から始まる5分間のお説教のあと、ホントに時間がやべぇことに気づいて三人で電車に飛び乗り、千駄ヶ谷せんだがやえきから将棋会館まで全力ダッシュしてことなきを得た。

 着いたころには迷子時の冷や汗とダッシュした際の熱い汗でベタベタでしたね、ええ。

 

 こんな状態だったので将棋の調子も上がらず、試験結果は1勝3敗でした。トータルで3勝5敗。


 迷子にならなければあと一つは勝てたと思う。

 つまり将棋に勝つには、将棋以外の部分も鍛えねばならないってことです。具体的には移動中はシャイニングヘッドに注目しないとか。


 拓馬くんも1勝3敗でした。一つ勝てて心底ホッとしたようだった。

 なんでも「1勝もできなかったら入会できない」と思ってたらしい。なるほど、それで朝からあんなに緊張してたのか。

 「0勝でも入会はできますよ?」と教えてあげるとフリーズして動かなくなった。口から魂が出ていったんだと思う。



 帰りは新宿から甲府行きのバスに乗った。

 「行きは体力温存のため特急乗ったけど、帰りはそんなの気にしなくてもいいよね?」 とのことである。バスの方が運賃安いんですって。世知辛いですね。


 帰りのバスの中、中央道に上がったころ隣席の拓馬くんが船を漕ぎ始めた。

 寝てもらうのはけっこうなのですが……なぜか私の方に頭を倒してくるんですね。

 

「拓馬くん、私の肩は枕じゃないてすよ?」


 返事がない。死ぬほど疲れてるってやつですかね。

 仕方ないので頭を真ん中に再セットする。


 3分後。

 再び拓馬くんの頭が私の肩に乗ってきた。

 真ん中に再セットする。


 2分後。乗ってきた。

 ンゴー、ンゴーとイビキもたて始めた。やかましい。


「実は起きててわざとやってます?」


 疑惑の眼差しで見つめながら頬をつねってみたが、ンゴンゴ言うだけでビクともしねぇ。

 ため息をついて再セット。


 4分後。また乗ってきた。しかもよだれが漏れてきている。

 あーもうヤになっちゃうなぁ。

 仕方ない、母に助けを求めよう。

 

「お母様、ご相談があるのですがよろしくて?」

「どのようなご用件でしょうかお嬢様?」

「これ見て。こんな感じで拓馬くんが私の肩に頭乗せてくるんだけど。頭どけてもしばらくするとまた乗ってくるしどうしたらいい?」


 母はこちらに振り向いて状況を確認すると、ため息をついた。


「疲れてんでしょ。そのままにさせてあげなさい」

「や!イビキうるさいしヨドが溢れてきてて臭いし!」

「あなた今日拓馬くんに迷子から助けてもらった恩があるでしょうが」

「う、それはそうですが……」

「迷子に気づいたのも拓馬くんだったし、『僕が探してくるからおばさんはホームで待ってて』って言ってくれたわ。自分の対局で頭がいっぱいでもおかしくないのに……本当に偉い子」


 そう言って柔らかな眼差しを拓馬くんに向けた。

 拓馬くんに心から感謝しているようだった。

 

「だから肩ぐらい貸してあげなさい。あなた下手したら今日試験受けれなかったのよ?」

「むう……」

「ところであなた拓馬くんにお礼言った?」

「そういえばまだですね」

「ちゃんと言っておくのよ。私も寝る」


 そう言って母は前へ向き直り寝息を立て始めた。早い。


 実際母の言う通りであったし、私も感謝はしているのだ。

 ただ拓馬くんにお礼を言うのが照れくさいというか、隙を見せると煽られるのでむかつくというか、素直になれないのだ。


 だからノンレム睡眠で聞いてないうちに言ってしまおうと思う。


「拓馬くん、今日はありがとう」

「いえいえ、どういたしまして」


 !?


 眼鏡大根がぱっちりお目目を開けてニヤついた視線をこちらに向けている。

 おかしい、熟睡してたのでは?


「今さっき起きた。いやー、感謝されるってのは気持ちいいなあ。これからも拓馬お兄さんを頼ってくれて構わんよ?」


 なにが拓馬お兄さんか。一度もそんな呼び方したことないわ!

 怒りと恥ずかしさで彼の両頬を両手でつねる。


 拓馬くんは痛い痛いと言いながらニコニコ笑っていた。

 

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