第1話 現実は曖昧
ヒマだ。ものすごくヒマだ。こんなことなら、この無駄に長い春休みの期間だけでも日雇いのバイトに登録しておくべきだったか。
今の俺にはベッドから起き上がるという行為さえ面倒くさい。とは言え、何か食わなければ「大学生孤独死」という見出しが明日の新聞の一面を飾ってしまう。いや、発見されるまで数日かかるから、明日ってことはないか。友人がほとんどいない俺は、どのぐらいの日数で発見してもらえるだろうか。
去年、あのパンデミック騒ぎの最中にも関わらず、それなりに名の通った企業に就職が決まったのは本当にラッキーだった。残りの大学生活は単位獲得という消化試合になる。それなりにこなしていれば、将来は自動的に安泰していくだろう。
しかし。将来の安泰以上に、いま目の前に迫る退屈と空腹に不安を覚えてしまう。それは俺をとことん甘やかす両親から「一人暮らし」という名の天国を与えられた代償なのかもしれない。
意を決して、俺は身体を起こし、ベッドに腰掛ける体勢になった。ワンルームの自室を見渡すと、テーブルの上に空のペットボトル。昨日まではそこに紅茶が入っていたのだが、今は「ひと思いにリサイクルしてくれ」と言わんばかりに、覚悟を決めて倒れている。とても面倒だが、お前の最後は俺がしっかりと見届けてやる。安らかに眠れ。
腹を満たす前に、カラカラに渇ききった喉を潤すため、ベッドからようやく立ち上がって冷蔵庫の扉を開ける。が、家電量販店の売り物のように中身がない。いや、カタログや作り物の野菜なんかが入っている分、家電量販店が勝っている。
「コンビニでも行くか……」
ため息混じりに独り言。勢いで閉めた冷蔵庫の扉は見届けず、バタンと重めの音を立てて無事に閉まったことを耳で感じ取る。洗面台で軽く顔を洗い、使い古したサンダルをつっかけ、家着姿のまま徒歩3分の場所にあるコンビニに向かった。
……そこまでは覚えている。しかしだ。
なぜ今、俺は病院らしき場所のベッドに横たわっているのか。なぜ今、目覚めた感覚があるのか。さっきまでの、いつも通りの日常が夢?いや、むしろ逆だろう。この状況の方がよっぽど現実感がなく、実に夢らしい。
「瀬戸さーん。
返事をする間もなく、俺の名前を呼びながらシャッと間仕切りカーテンが開かれ、ズケズケと女性の看護師が近付いてきた。
「良かった、意識が戻られたんですね。具合はいかがですか?」
クリップボードを片手に、彼女は尋ねてくる。
「あの、すみません。ここは……?」
質問に質問で返すのは俺の嫌いな行為ナンバーワンだ。それをしてしまった自分を一瞬嫌悪するが、そんな嫌いな行為をしなければならないほど、事態が飲み込めない。
「あ、そうですよね。覚えてらっしゃいませんよね。ここは自由が丘総合病院です。……瀬戸さんは……その……」
看護師が少し口ごもったのが気になった。しかし、黙って耳を傾ける。
「瀬戸さんは、ご自宅の近くで交通事故に遭われて、こちらに救急搬送されてきたんです」
「……はい?」
「あの、ですから、車にはねられて……」
彼女の言っていることの意味はわかる。が、それが俺に起きた出来事であるという意味まではわからない。
「車を運転していた方がすぐに救急車を呼んでくれたみたいで、救急車内の応急処置も、当院での処置も順調に済みまして。あの手の交通事故は、打ち所が悪かったり、処置が遅れると、最悪の場合……」
死ぬって言いたいのか、看護師は言葉を濁した。いっそ死んで、異世界転生して勇者になるのも悪くなかったかもしれないが、そんなライトノベルのような物語は俺に用意されていないらしい。
「でも瀬戸さんは本当に運が良くて。意識の回復に1日もかかりませんでしたし」
「車にはねられたこととか、全然覚えてないんですけど……」
「交通事故のショックで軽い記憶障害になることは珍しくありません。少し不安かもしれませんが、外傷の跡も残りませんでしたし、すぐに退院しても問題ないと先生もおっしゃっていましたよ」
先生というのはこの場合、俺の担当医のことだろう。たしかに、この看護師の言うことが事実であれば、交通事故に遭った身体だとわからないほどに調子が良い。気になるのは、少しの身体のダルさと、抜け落ちた事故の記憶。
「そうですね、身体は特に問題なさそうですし」
「何か少しでも具合が悪いと感じるところはありますか?」
看護師は、本題に戻す。
「うーん。少しダルいというか重いというか……疲労感みたいなものを感じます。あとは、その、事故のときのことを全く思い出せないのは、ちょっと気持ち悪いですね」
苦笑いを浮かべながら、正直に答えた。
「えーと……疲労感……と、記憶障害に対する不安感……っと」
手に持ったクリップボードにボールペンで俺の症状を書き込んでいく。
「もし良かったら、当院の臨床心理士をご紹介しますが?」
「り、りんしょう…?」
「事故や怪我のあと、メンタルをケアしてくれる専門のカウンセラーですね。記憶障害が治ることまでは保証できませんが、不安感を和らげてくださいますし、必要があればお薬も出してくださいます」
なるほど。
「一度、カウンセリングを受けてみますか?お忙しい先生なので、すぐに予約が取れるかわかりませんが……」
わからないことは、わかるようにしたい主義の俺だ。少し大袈裟な気がしたが、ここは……
「ぜひお願いします」
「わかりました。では退院の手続きと、カウンセリングの予約を行いますので、準備が済みましたら待ち合いにお越しください」
看護師は軽くお辞儀をして、シャッと間仕切りのカーテンを閉めて去っていった。いや、すぐ隣のベッドの方からまた同じ声が聞こえる。患者を回って診る時間なのだろうか。
ベッドに備え付けてあった時計を見ると、17時を回っていた。俺がコンビニに出かけたのは、たしか午前中だったはずだ。この半日の間、自分に何が起きたのか、とても気になる。カウンセラーの先生なら、そのヒントぐらいくれるのではないか。そんな期待を抱きながら、いかにも病院で着させられるガウンを脱ぎ、そこにあった自分の服に着替えようとした。
そこで初めて、事の重大さに気が付く。なんだ、このボロ布は。よくよく見てみれば、たしかにこれは俺の部屋着だったものだ。しかし、ズタズタに引き裂かれ、少しの原形も留めていない。それどころか、大部分が赤茶色に染まっている。この赤茶色は、おそらく血だろう。俺はこんなに出血したのか?どう見ても、大事故に巻き込まれているじゃないか。この部屋着の惨状を見て、無傷で半日で退院できるのが奇跡であるということぐらい、何もわからない俺でも想像に難くない。大量の血の跡に、少しの吐き気をこらえながら、再びガウンを羽織った。
「看護師さん、売店で服って買えますかね?」
着慣れないジャージで、俺は待ち合いのベンチに腰掛け、自分の名前が呼ばれるのを待っていた。カウンセラーの先生の予約は、このあと18時から運良く取れた。まずは処方箋の受け取りが先なので、こうしてペットボトルの紅茶を飲みながら、ぼんやりしている。
自由が丘総合病院といったら、このあたりではかなり大きな病院だ。内科や外科はもちろん、さまざまな診療科があり、待ち合いの空間も広い。待っている人もさまざまだが、やはり少し老人が多いだろうか。
ある人はスマートフォンをいじり、ある人は備え付けの大きなテレビを見ている。それぞれに時間を潰している。人間観察は嫌いではない。観察されるのは嫌いだが。
「瀬戸渉さーん」
ピンポーンという電子音とともに俺の名前が呼ばれた。モニターに示されたカウンターで処方箋を受け取る。手術の費用などは想像よりも遥かに安く、車の運転手側の賠償になってもならなくても、どちらでも良い程度だった。いや、払ってもらえるものは払ってもらうけれども。
一通りのやり取りを終え、心療内科の場所を聞いて、向かう。その途中、不自然なほど安い費用のことが気になり、領収書などに目を通した。特に変わったことは書いていない。ただ、安いというだけで。
念のため、処方箋にも目を通す。身体の疲労感を和らげるための薬か漢方か、そんなものが処方されているはずだ。そこに書かれていたのは、俺でも知っている意外な薬品名だった。
「……ポーション?」
その瞬間。スマートフォンから耳をつんざくような爆音のブザーが鳴った。病院にいるほかの患者のスマートフォンも同時に、同じ爆音のブザーが鳴る。よぎるのは巨大地震の可能性。しかし続けざまに、スマートフォンから聞いたことのない速報が伝えられる。
『緊急モンスター速報。緊急モンスター速報。近隣にモンスターが出現しました。屋外にいる人は至急近くの屋内に避難してください』
慌てふためく病院内。
「モンスターだ!隠れろ!」
「この病院は大丈夫なんだろうね!?」
何かの冗談にしては手が込みすぎている。ひと昔前に流行ったフラッシュモブのようなものだとしたら、どれだけ凝っているんだ。
俺は、ほぼ無意識でスマートフォンのSNSを確認していた。こんなとき、情報収集するにはSNSが一番早い。さまざまな天災を乗り越えてきた俺たちの世代が得た知見である。
タイムラインは早くも「モンスター」の話題で埋め尽くされている。その中で見つけた画像付きの情報にはこう書かれれていた。
『多摩川からスライム。線路づたいに移動してるっぽい』
溶けかかったゼリーのような、ネバネバした緑色の物体が線路を這っている画像。なんだこれは。なんなんだこれは!?もはや正気でいられない俺は、たまたまそこに居合わせた男に声を荒げて質問する。
「なんなんです!?これ!?モンスターって!?」
男性は不思議そうな顔をして俺の顔を見てきた。
「モンスターはモンスターだよ。君も知っているだろう?」
「いや、俺の聞きたいことはそういうことじゃなくて!」
「ああ、これはスライムと言ってね。見た目の割に素早くて近付くと危険なんだ。近付かなければどうということはないよ」
「いや、いやいやいや!そうじゃなくて!!」
話が噛み合わない。この男は、そんなこと常識だと言わんばかりに会話のマウントを取ってくる。埒があかない。
「……すみません、ありがとうございました」
俺は軽く会釈し、再び病院の待ち合いへ駆け足で戻る。その間もSNSの情報はどんどん更新されていく。
『ババアが1人逃げ遅れてるらしい』
『やばくね?』
『ババア1人だけで済んだか』
なんだこの状況は?人が死ぬのか?モンスターに殺される?
俺が交通事故で死んで、異世界転生でもしていたなら納得できるのかもしれない。そんなファンタジーな出来事はあり得ないのだが。現に、俺は死んでもいないし、ここは異世界でもない。間違いなく、俺が生まれ育って、大学生として生活している現実そのものだ。こんな現実、あってたまるか。
待ち合いに辿り着くと、さっきよりも人が溢れていた。患者ではないような人も見受けられる。今、屋外からここに逃げ込んできたのだろうか、息を切らせている人もいる。備え付けのテレビから流れてくる情報にかじりついている人も多い。テレビのニュースは、早くもヘリコプターで現場上空から生中継の映像を流している。
『こちら現場の上空です。辺りはだいぶ暗いですが、ご覧の通り、多摩川から現れたとされるスライムは電車の線路を伝い、渋谷方面に北上しています』
その映像を見て、重要なことに気がついた。これって、今居る場所のすぐ近くじゃないか!テレビからではなく、外から直接ヘリコプターの音が聞こえてくる。
『ただいま、自由が丘の上空です。老人が1人逃げ遅れているという情報もありますが……あっ!いました!老人が道路に座り込んでいるようです!』
SNSに書かれていたババアか。このままモンスターに襲われて、本当に死ぬのかよ。
『なんとか逃げのびてほしいものですが……あっ!何者かが老人に走って近付いています!スライムもすぐ近くにいます!大変危険です!』
テレビのカメラは必死にブレを抑えながら、最大望遠で、老人に近付いて走っていく女の姿を捉えた。
「
まさかと思ったが、知っている人間だった。同じ大学の後輩だが、喋ったこともなければ、キャンパスで会ったこともない。向こうは俺のことなんか絶対に知らないだろう。なぜ俺が一方的に彼女を知っているかと言うと……
「あれ『剣聖』じゃないか?フェンシングの……!」
「啄木鳥選手のフェンシング部の大学ってこの近くだったっけ?」
「いくらフェンシングの日本代表だからって、モンスター相手は危なくねーのかよ!?」
そう。彼女は「剣聖」という異名を持つ、フェンシング女子フルーレ日本代表選手の1人。要するに有名人だ。国際大会に向けた調整期間として、大学で自主トレをしている。だから、この近くに居合わせてもなんら不思議はない。しかし、ちょっと武器が使えるからと言って、ババア1人を助けるために、得体の知れないモンスターに命がけで立ち向かうものだろうか。
「おい、2階の窓から肉眼で見えるぞ!」
「お願い、こっちに来ないで……」
「剣聖がんばれ!」
お前ら、女子1人が命懸けでババアを助けようとしてるのに、野次馬しかしない気なのか?そんなに薄情だったか、この国は。おい、日本代表選手だぞ。国の宝だぞ。ウチの大学の後輩だぞ。将来の国民栄誉賞候補だぞ。いや、知らないけれど。
ふと、我にかえる。嘘くさい正義感が自分の中に芽生えている?面倒事に巻き込まれるのを人一倍嫌い、人生の大半を孤独に過ごしてきたじゃないか。事故に遭って頭でも打ってしまったのだろうか。その可能性はなくはない。しかし、それ以上に「こんな大人になりたくない」という反面教師が、衝動となって心を突き動かしている。そんな気がする。
こんなとき、格好良い奴はなりふり構わず女子を助けに行くのだろう。俺は熱くなった頭をなんとか冷やし、リスクとリターンを天秤にかけ、その結果を冷静に見つめる。ここで死ぬか、生きている価値がないまま逃げ生きるか。迷わなかったわけじゃない。誰だって死にたくはないだろう。しかし……
俺は、格好悪い中途半端なタイミングと決断で、病院を飛び出した。
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