第10話
「どこか行きたいところはあるの? ジェラール」
「きみに任せるさ」
モニカはジェラールを連れ、馬車には乗らずに城を出た。真っ青な空では初夏の太陽がさんさんと輝き、空気も熱を帯びている。
「帝国と緯度は変わらないはずなのに、こっちは暑いねえ」
「そんなに厚着してるからよ」
「サジタリオじゃ、五月はこれくらいが普通なのさ」
今になって、モニカも気候の差異が大きいことを知った。
レガシー河の流域にあるソール王国は、五月頃から気温が高くなり、十月の中旬まで暑さが続く。沿岸部の国ほど苛酷な蒸し暑さにはならないが、快適ではなかった。
それに対し、サジタリオ帝国の帝都は内陸にあり、北風が直撃することもあって、冬は寒さが厳しいという。
ソール王国とサジタリオ帝国で衣類の感覚が違うのも当然だった。
「あなた、ひょっとして、夏物の服はあまり持ってきてないんじゃない?」
「そりゃあ、まだ五月だからね」
「じゃあ、服でも見に行きましょうか」
無難な行き先に決め、モニカたちは城下の大通りを練り歩く。
「これは姫様! 街にいらっしゃるとは、お珍しい」
「ふふっ! ちょっと野望用で、ね」
祖父が健在だった頃は、アンナやブリジットとともに城下で遊ぶこともあった。顔馴染みの民も多く、モニカには気さくに声を掛けてくれる。
「そちらの紳士はどちら様で?」
「ええと……最近ソールに帰ってきた友達なの。ねえ、ラル?」
咄嗟に誤魔化してしまったが、ジェラールも自然体で合わせてくれた。
「外交官の父を継ぐため、留学していたんだ」
「そ、そうそう! だから衣替えの時期なのに、夏物が足りなくって……」
サジタリオ帝国の第二王子が城に居座っていることは、民にも知れ渡っている。そのジェラールが堂々とソールの城下を闊歩しては、反感を買うのは目に見えていた。
「ラル、か……悪くない」
「ごめんなさい。急に聞かれたものだから」
「いいさ。きみとはもっと親密になりたいからね」
モニカとジェラールは城下の皆と挨拶を交わしつつ、大通りを南へ。
今日は木曜日だけあって、どこも空いていた。手頃なオープンカフェに目をつけ、ふたりで角のテーブルにつく。
「城下町に慣れてるんだね、モニカは」
「お爺様が好きにさせてくれたのよ。民の暮らしを知るのも大事だ、って」
お気に入りのホットケーキを待ちながら、モニカは彼の甘いフェイスにじとっと冷ややかな視線を返した。
「あなただって、帝国で随分と好き勝手してるそうじゃない。王子様がいかがわしいカジノなんか作ったりして、何考えてるのかしら」
ジェラールは頬杖をつき、しれっと言ってのける。
「別にギャンブルを奨励してるつもりはないよ。ゲームが好きでね」
「みんなは、そうは思わないでしょ」
「それがいいのさ。この醍醐味がわかる『通』は、おれしかいないっていうのが」
とても一国の王子とは思えなかった。嫡子として上に立派な兄がいると、弟はだめになるものらしい。クリムトがあれほどしっかりしているのも、長男のゆえだろう。
やがてホットケーキ、ジェラールにはガーリックチキンとポテトが運ばれてくる。
「お酒はいいの?」
「こんな昼間から飲まないよ。そもそも、おれはそんなに飲むほうじゃない」
ジェラールはポテトを齧りつつ、モニカのランチ風景を眺めていた。
「きみのほうこそ、お昼がホットケーキで足りるのかい?」
「あなたほど大きな胃袋じゃないもの」
オープンカフェのために風が吹き、モニカの髪を波打たせる。
「……ここに来て、よかったよ」
「どうしたのよ。急に」
「おれは思ったことを正直に言ったまでさ」
いつしかジェラールの双眸にはモニカだけが映っていた。
「八年前はあんなに小さなお嬢さんだったのに……綺麗になったな、モニカ」
「……へ、変なこと言わないでったら」
男性に初めて『綺麗』などと言われ、心ならずも動揺してしまう。
臣下の者や民から『お美しい』と世辞を贈られるのとは違った。真剣なまなざしで容貌を隅々まで吟味されるかのようで、恥ずかしくもなる。
食事のあともジェラールはコーヒーに味を占め、なかなか席を立とうとしなかった。
「この店が気に入ったの?」
「まあね。戦争中の帝国じゃ、なかなかこうは行かないからさ」
その意味がわからず、モニカは小首を傾げる。
サジタリオ帝国は今なお連戦連勝、破竹の勢いで支配圏を広げていた。帝国貴族は勝利のたびに祝杯をあげ、民も帝国の栄光に胸を躍らせているはず。
「そろそろ行きましょ。ジェラール」
「なんだ、『ラル』と呼んでくれないのかい?」
遅くならないうちにモニカは休憩を切りあげ、オープンカフェをあとにした。
「そうね……案内してるわけだし、あなたにもあれを見せてあげるわ」
「その気になるのが遅いよ、モニカ。『あれ』って?」
「少し歩くわよ。ほら、こっち」
ソール王国の城下には世にも珍しいものがある。
それは、地図のうえでは『川』のように城下の南西部を横断していた。モニカとともにジェラールはその溝を柵越しに覗き込んで、異様な深さに息を飲む。
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