第10話:薬師

 あれから二週間が経ち、異世界生活を始めてから早くも一か月が経った。来る日も来る日も森で採取し、狩り、鍛錬を積むという繰り返しの日々であったが、創慈は今はそれで満足していた。無力感と不安感に苛まれた一か月前とは違い、戦う技術を得、世界の知識を得、そして多少の勇気を手に入れることが出来た。ユーラシから見ればまだまだ未熟であるが、創慈は着実に成長している自分に充実感を得ていた。


 それに加え、【闘気操作】を会得してからと言うもののユーラシの修行が実を結び出したのか、続く様に【短剣術】や【体術】を得られたことも、彼に自信を持たせる大きな要因にもなっている。

 未だに何故自分はこの世界にやって来たのか、創慈はそのヒントすら掴むことは出来なかったが、異世界生活という点で見れば、十分に順調であると言えた。

 そして、今日もいつもと変わらぬ日々を送る。送る、はずだった。


 リーンリラ森林、そこは魔物が住まい跋扈する魔の森。強い魔物や厄介な魔物など、それこそ深部にさえ行かなければ出会うべくも無い。だが時折何かを追ってきたか、それとも縄張り競争に負けて追放されたか、それとも単なる気まぐれか、彼らは穏やかな浅部にやってくる。

 そしてそんな時、どうしようもない割を食うのは、大概が未熟な者である。結局のところ、狩りとは力こそが全てなのである。


「ソージ、止まれ」


 薬草をノルマ分かき集め、次は狩猟に移ろうかという時、突如ユーラシは少々緊迫した声を出して創慈の足を止めた。


 創慈はすぐに足を止め、ユーラシのその目線の先にあるものを確認する。そこは少し開けた草場だった。しかしそこに生えている草花は少し変で、明らかに何かが這いずり回ったかのように跡が付いており、そこの植物は須らくのような痛み方をしていた。十中八九、魔物の痕跡だ。それもまだ出会ったことのない種の、と創慈は看破する。

 ムラりと生物学者である創慈の好奇心が沸き起こりかけるが、ユーラシの声色を思い出し、いつでも戦闘に入れる様に構えを取った。

 そこに、ユーラシからの注意が飛ぶ。


「これは『ウィグアジド』って魔物の痕跡だ。何の気まぐれか知らねぇが、こんな場所まで出てくるとはな……。いいか?ソージ、奴は不意打ち一辺倒の厄介な魔物だ。見た目は……何つーか説明しにくいけど、ドロドロで胃液みてーにモノを溶かす体を持ってんだ。そこまでサイズはねぇから、その辺の草影に隠れてると思うぜ」


 痕跡が新しいからまだ近いぞ、と付け加えゆっくりと開けた場所の中央を位置取った。そうして、ユーラシの指示により背中合わせに全方位へ警戒を飛ばす。

 こんな時、ビーグルが居ればより確実にウィグアジドを補足で来ただろうが、生憎彼は本日の狩猟に行っているので不在だ。帰ってくるまでにはもう少し時間がかかるだろう。そして、それを待つ時間もこの場には存在しなかった。


 ピリピリとした空気が流れる。創慈には分からないが、確かにヤツは"居る"とユーラシは何かを察知したかのように言った。臨戦態勢になった二人から、闘気が立ち上る。油断なく周囲……特に足元に広がる草花やその縁の茂みなどを、だ。


 しかしソレは意外なことに、ユーラシに向かって樹上から飛び出した。


 僅かに創慈の視界に映ったそれは、細く半端な長さのシルエットだった。位置関係の都合上、創慈に一瞬遅れてユーラシも気付く。しかし、気付きはしたがソレはかなりギリギリまで迫っていた。


「鱗蛇ッ!あの時逃した奴か!」


 ユーラシは少々無理な体勢で、鱗蛇を一閃の下に打ち払う。腹の鎌に当たった上まともに力の入っていない斬撃だったので大したダメージは入らなかったが、自切したことにより体重がかなり落ちていたのであろう鱗蛇は衝撃に耐えられず吹っ飛び、そのまま逃げていった。

 攻防こそ一瞬。だがこの状況でのその一合は、ユーラシにとって致命的とも言える大きな隙となってしまった。


 緑の塊が草影から、まるで爆発したかのように弾け飛んだ。その矛先は、無理な一閃を繰り出し体勢の崩れた……ユーラシだ。踏ん張りの利かぬ体勢で回避行動は、出来ない。


 それは紛れもなく、咄嗟の行動だった。

 何か思考があった訳ではない。ただ、己の大切な人の危機に体が勝手に動いただけだ。

 気付けば彼は、ユーラシを倒れ込む様に突き飛ばし魔物の前に躍り出ていた。そして、その身に纏った闘気が集中力と身体に追いつかず霧散してしまっていたのは、彼の未熟故か。


「ソージ!」


 ユーラシが叫ぶ。狙いの逸れたウィグアジドの粘体は、そのまま創慈の右足の下半分にどちゃりと覆いかぶさった。

 接触した途端に熱に近い激痛が走り、創慈の脳を襲った。紛れもなく、溶かされている。


「ぐぅぅぅぅぁあああ!」


 我慢出来ようもない痛みに、絶叫が漏れる。何だかんだ、今までの狩人生活において、彼はまともな負傷などしたことが無かった。そして彼の人生においても、これ程までに強い痛みは初めての経験だった。

 痛みで目がチカチカと瞬き、一瞬にして冷や汗やら脂汗が吹き出し……しかし払うことも出来ない。生身の手で触れば、余計に被害が広がるだけだ。


「クソッ!」


 切迫した声色でユーラシが声を荒げる。そしてその勢いのまま、怒りに満ちた表情でウィグアジドを創慈から引き剥がした。その手は溶かされることなく闘気で保護されており、半透明の体の中にある拳より少し小さい程の赤い核を握り込んでいる。


 そしてそのまま、核を握り潰す。すると、途端にウィグアジドの体は粘度を失ったかのように手から零れ落ち、地面の染みになった。


「大丈夫か?!」


 ユーラシはウィグアジドを殺した後、すぐに創慈に寄り添った。そして水筒を取り出し、惜しげも無く水を患部に振りかけ洗浄する。ジクジクと脈動する痛みに水の冷たさがさらなる刺激となり、創慈の口から僅かに呻きが漏れた。

 患部は酷い化学熱傷を引き起こしており、皮膚が爛れていた。右足を守っていた狩人装衣もボロボロに溶かされており、破損している。


「骨まではいってねぇが……」


 右足を少しでも動かすと、酷い痛みが創慈を襲った。これでは狩猟どころか立つことすらままならない。

 ユーラシは自分の失態に、悔し気に唇を噛む。ウィグアジドは本来もっと森の奥にいる魔物だったとはいえ、狩りは何があるか分からない。予測できぬ状況、それに幾つかの不運が悪い形で積み重なり、今回の事態に陥ったのだ。この世界は弱肉強食……強いて言うならば、この試練を乗り越えられなかった彼らの責任だ。


 そしてユーラシは、自分の失態に対する悔しさ以上に、何か頭が冷たい様な熱い様な言い知れぬ感情が湧き上がっていた。

 しかし、今はそんなことを考えている場合ではないと、ユーラシは雑念を払って思考を巡らせる。

 決断を叩き出すのは、そう時間は掛からなかった。


「ソージ、これ以上の狩りは無理だ。一旦街に帰るぞ」

「は……はい……つっ」


 ユーラシはゆっくりと創慈の腕を取り、立たせる。苦痛に顔が歪み、息が荒い。いつも湛えていた穏やかな笑みなどそこにはない。

 負傷した創慈を長く森に留めておくわけにはいかないので、なるべく早くこの場から動きたかったが、そうすると傷に障るので非常にヤキモキするほど緩慢に創慈の体をユーラシは背負った。


 ユーラシに背負われるなど、普段の創慈ならば羞恥やら何やらで慌てふためくだろうが、今はそんなことを考えられないほど余裕が無い状態なのでされるがままだ。多少の抵抗はあるかと思っていたユーラシにとって、これはちょっとした僥倖である。


「よし、ちゃんと掴まってろよ?【疾走】ッ!」


 グンッと慣性の衝撃を感じた瞬間、見る見る内に景色が後ろへ飛んでいった。創慈の霞む視界に映るのは、最早緑と茶の残像のみだ。




 そうして五分ほどで森を抜け、平原を爆走し、リーンリラの門まで辿り着いた。ユーラシもユーラシでそれなりに無理をしたらしく、息がかなり荒い。しかし、そんなものはお構いなしに衛兵へ二人分の狩人証を押し付ける様に見せ、さっさと街の中に消えていった。


「ちょっと裏に入るが、怖がんなよ?」


 ユーラシが背中に背負う創慈にそう声を掛け、大通りを幾らか進んだ後にあった脇の路地へ入っていく。少し暗く入り組んではいるが治安が悪そうというほどでもなく、時折すれ違う人の身形も悪くない為、創慈は霞む頭でちょっとだけ変な場所にある目的地に向かっているだけだという印象を持った。


 ここまでやってくると多少緊迫感が薄れたのであろうユーラシは、落ち着いた足取りで……しかし少しだけ早足をしつつずんずんと奥に進んでいく。創慈も痛みは薄まらないが少しは慣れ、辛うじて話が出来る程度にはなった。そこで、ようやく目的地について尋ねた。


「僕たちは、どこへ向かってるのですか?」

「なーに心配すんな。アタシの馴染みの薬師のとこに行くだけだ。組合支部にも医療部はあるけど、あのばあさんの方が腕はいい」

「なるほど……ッつ」


 時折痛みに呻く創慈に気を使いながら、ユーラシと創慈はそこへ辿り着いた。

 そこは何の変哲もない、『薬屋』とだけ書かれた看板を掲げた二階建ての一軒家だった。


「ばぁちゃん!いるかぁ!?」


 創慈を背負っていて両手が塞がっているので、乱暴に足で扉を開けた。ついでに大声で件の薬師であろう人物を呼びかける。すると強い薬や草をすりつぶしたような匂いが中から漂い、思わず顔を顰めてしまう。


「なんだい、騒々しい子だねぇ」


 中にいたのは、安楽椅子に座りギコギコと音を鳴らしながら分厚い本を読み耽る、小柄な婆だった。その顔は乱暴者に対する怒りや軽蔑ではなく、手間のかかる子供に対する優しい呆れが浮かんでいる。


「急患だ、ばぁちゃん。ウィグアジドにやられたんだ」

「おや、これまた面倒くさい魔物にやられたもんだねぇ」


 ユーラシが珍しく、縋るような声を滲ませた。それを受けた婆は創慈の方へ目を向けて、一瞬だけユーラシと見比べ興味深そうな笑みを浮かべた後、そこに座らせなと簡易な診療台を指差した。


「わかった。ソージ降ろすぜ、気を付けろよ」


 それに従い、ユーラシはゆっくりと創慈を診療台に降ろした。創慈もなるべく右足に体重を掛けぬように台の縁に腰を掛けた。改めて自らの足を見た創慈は、治るのだろうかと不安を感じてしまう。それほど熱傷が酷いのだ。


 ユーラシと入れ変わる様にして、薬師が創慈の前に立つ。その眼差しは患部に突き刺さっており、ふむ……と思案気な声を漏らす。


「あの……これは治るのでしょうか……?」


 そのあまりの難しそうな表情に不安を刺激され、思わずといった様子で創慈は尋ねる。すると薬師は創慈の顔も見ずに静かに首を振った。


「ダメだね、傷もそうだが……ウィグアジドには微量な麻痺毒が含まれてるんだよ。ここまで酷いともう歩けなくなるねぇ……」


 薬師は悲痛そうな表情と声で創慈にそう告げた。

 それを聞いた婆の後ろに立つユーラシの顔が、サッと青ざめ、言葉も出ないと言わんばかりに口をパクパクさせる。創慈もまた同じように言葉も出ず、言い知れぬ絶望が胸中に広がった。

 すぐにユーラシは薬師に詰め寄り、まるで泣きそうな……悲鳴じみた大声を上げた。


「おいばぁちゃん!嘘だろ?!ソージの足……治んねぇのか?!」

「あぁ、嘘さね。ウィグアジド程度の毒じゃ人間の足は潰せないねぇ」


 サラリと、婆は言った。

 ユーラシと創慈の時間が止まる。そんな様子を薬師はヒョッヒョッヒョと実に楽しそうに嗤った。二人は一杯食わされたのだ。


「ビビらせんなよ畜生!」


 ユーラシが怒りの声を荒げ、しかし心底安心したかのような表情でそこらにあった椅子に乱暴に座った。そして長い息を吐き、文字通り胸を撫で下ろした。


「ヒヒヒ、安心しなユーラシ……と、そこの坊主。これくらいじゃ全然大丈夫さね。まぁ、多少跡は残っちまうだろうが、それも戦士の勲章だねぇ」

「よ、良かったですぅ~~~……」


 冷や汗が引っ込むほど安心した創慈は、後ろ手に診療台に凭れた。もう様々な意味で終わったかと思ったのだから、その脱力感たるやすさまじいものがあったのだ。ついでに精神的衝撃の方が大きすぎて、一時的に痛みを忘れられていた。これを狙っていたのかどうかは、余人には分からない。


「さて、さっさと治療を始めようかね。ちょいと染みるよ」


 薬師は言葉と同時に手を動かし、瓶に入った何かしらの薬液を布に沁み込ませ、患部に当てた。ツキンと痛んだが、彼は大の大人なのでグッと堪えた。

 続いて、深緑の軟膏を皮膚の爛れた箇所全体に塗り込む。これが一番痛かったが、冷静になった今ユーラシの目の前で痛みに喘ぐのも何か気恥ずかしかったので、目に涙を湛えながらも我慢した。ちなみにユーラシは、うわぁ痛そ~などと言いながら作業を見つめていた。

 軟膏を塗り込んだ後は、これまた何かの薬液を沁み込ませた包帯を右足に巻いて、作業は終了した。


「さて、とりあえずこんなもんかね。そこでだけど坊主……えーっと、ソージって言ったかね?」

「あ、はい。内……ソージ・ウチミヤと申します」

「うむ、ソージ。アンタには治るまでここで寝泊まりしてほしくてねぇ」

「えぇ?!」


 何と、それは言わば入院勧告だった。ユーラシも驚いている様子を見ると、彼女もこれは予想外だったことが、創慈には窺えた。

 創慈はひとまず理由を尋ねてみることにした。


「あの……理由を聞いても?」

「あぁ当然さね。と言っても、大した理由じゃないよ。さっきも言ったようにウィグアジドに受けた傷はちょいと処置が面倒でねぇ。そうそうある事じゃないが……微弱な麻痺毒が身体に残れば、別の病に繋がりかねないからのぉ。それに……ソージ、お主生粋の戦士と言う訳ではあるまいだろう?」

「え!?」


 戦士ではない……というよりかなり戦士の卵であることは間違いない。間違いないが、それを言い当てられた創慈は図星の衝撃で思わず答えに詰まってしまった。


「ヒヒ、それくらい肉付きを見たら分かるさね。アンタはどっちかというと学者みたいな体をしてるからねぇ。と、話を戻そうか。今塗った薬は少し新しい薬でねぇ……その経過が見たいのさ。ついでに、もしさっき言った様な不調が現れたらすぐに診れるしねぇ。どうだい?アンタに損は無いだろう?」

「それはそうですが……あの、お金等は……?」

「あぁ、別にいいさね。こっちは治験に付き合ってもらってるしねぇ。あと、訳は知らないがユーラシの縁者なんだろう?なら別に金なんかとりゃしないよ」

「ま、ソージとしちゃ宿代も浮くしいいじゃねぇか。遠慮せず世話になっとけって」


 ユーラシも肯定的な意見を述べた。日本人的というか、少々遠慮がちな創慈もこれには押され、申し訳なさを感じつつも好意に預かることにした。


「はい……ではよろしくお願いします」


 そうして、創慈の束の間の治療生活が始まった。

 ふと、ユーラシと寝食を共にしなくなるのかと考えると、寂しさが心の奥で沸いたが……それはなるべく外に出さぬよう押さえつけておいたのだった。




 創慈を寝泊り部屋……薬屋の二階の部屋に送ってから、ユーラシと薬師は一階に降りて来ていた。


「んじゃ、ばぁちゃん。とりあえず荷物持って宿引き払ってくるわ」

「おや、アンタもここで寝泊まりするきかい?」

「へへ、いいだろ?どうせ部屋は余ってんだし」


 ユーラシは快活な笑みを浮かべて、薬師に了承を迫った。薬師も、特に気にした様子もなく肯定の意を述べる。


「それにしても、アンタが"男"を連れてくるなんてねぇ……やっとこさオトシゴロが来たのかい?ユーラシ、ヒッヒッヒ」

「なっ!変な言い方するんじゃねぇよ!誰があんなひょろっちぃ奴……」

「カッカッカ!あんなにちびっこいガキだったのにねぇ……。アタシだって伊達にウン十年女やってないよ」


 顔を真っ赤にして薬師の言葉を否定するも、あらゆる経験が劣るユーラシは何も言い返すことが出来なかった。そして、あまりに悔しい敗北を喫するや否や逃げる様に薬屋から出ようと扉に向かう。

 しかし、扉に手を掛けた瞬間、質の違う薬師の声がユーラシを引き留めた。


「ガラシャラの奴から伝言だよ。今週末、大事な話があるからアジトに来いってさ」

「親父がか……分かった……」


 冷や水をぶちまけた様に静かな空間に、ユーラシの声だけが響いた。

 そして彼女は、薄暗い扉の向こうへ姿を消した。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る