第6話:魔物
茂みから姿を現したのは、両耳と丁度逆三角形が出来る位置に角を生やした、中型犬ほどの大きさの白い兎だった。何かから逃げる様に慌てた様子で現れたそれは、二人の人間の姿を認識し、ぎょっとして立ち止まる。
「んだよ角兎か……」
先程の物理的に重苦しかったユーラシの気迫は直ぐに鳴りを潜め、いつの間にか抜刀し構えていた短剣を下ろす。その表情は呆れ半分、安堵半分に少しだけ照れが滲んでいた。
そうしてユーラシは創慈の方へ半身振り返り、角兎を短剣で指差す。
「見ろソージ、あれが角兎っつー魔物だ。まぁ魔物っつっても全然凶暴じゃねぇし、それどころか臆病で強くもねぇんだけどな。でもこんな最浅場に出ることはあんまねぇはずなんだけどなぁ……」
「へぇ、あれが魔物なんですね……とてもじゃありませんが……」
角が生えているだけでタダの大きな兎にしか見えない。ユーラシが突然の遭遇者に疑問を抱いている影で、創慈はメガネの位置を正しつつそんな事を言おうとしたまさにその時、ようやく硬直から立ち直った角兎があろうことかこちらに向かって突進し始めたのだ。
「おわ!」
その唐突な攻撃に驚き、創慈はユーラシを挟んで対峙しているのにも関わらず大きな声で驚嘆を上げてしまう。そのついでに体をビクリと跳ねさせ、半歩ほど下がるという兎相手に何とも情けない姿を見せてしまうのだった。
「おっと」
そんな創慈の醜態とは反対に、ユーラシは余裕の表情で向かってきた角兎を完璧なタイミングで蹴り飛ばす。兎とは言え突っ込んできた中型犬ほどの大きさの野生動物を蹴り飛ばすという、何とも現実離れな光景に創慈は呆気にとられた。
もの凄い勢いで吹っ飛んだ角兎は幹の太い木に頭からぶつかって止まり……されど死ぬどころか気絶すらせずに、ふらついてはいるもののまだその四本の足で地面に立っていた。その光景もまた、創慈の思う現実とはズレていた。
「ま、対して闘気も練ってねぇ蹴りじゃこんなもんか」
だがユーラシは何一つとしておかしなことはないと言った様子で、振り抜いた右足を地に着ける。その足には何やら薄い黄色のモヤが纏わりついている様に見えたが、それもすぐに霧散していく。
(これが……度々ユーラシの口から出る"闘気"というモノでしょうか……)
「見えたか?ソージ。一応見える様にはしたはずだけどよ」
「え、えぇ……黄色いモヤの様なものが……」
その創慈の返答に、上出来上出来と上機嫌に頷くユーラシ。彼女曰く、普段は一般的な戦闘メソット的には、闘気は隠して使うのが常らしいが、今回は咄嗟だったことに加え創慈の教育のために見える形で闘気を使用したらしい。
「そもそも闘気とは何なのでしょうか……?魔法とは別物であることは、昨日の言葉の端々から窺えるのですが……」
「んー、闘気の説明は難しいなぁ……。魔力と似て非なるモノっつーか……」
創慈の疑問に対する返答をうんうんと唸ってユーラシは首を傾げる。この世界に詳しくない創慈は言葉の先を推測するにも難しく、ただ唸りが解消されるのを待つしかない。
だがその待っている緩やかな時間もまた、ダメージを負わせるに留まった角兎によって破られる。
思わぬ反撃を受けた角兎は脳震盪から回復したもののパニックに陥っており、歯を剥き出しにしながら二人に威嚇し始めた。
「んあ?変だな……何で逃げねぇんだ?」
先程ユーラシが言ったように、角兎は臆病な魔物だ。魔物とは言え外敵の方が多く、常に被捕食者。そんな自然界を生き残るために聴覚を冴えさせ、臆病者になることで文字通り脱兎を武器に生存域を広げてきた。
だがこの個体は明らかな格上の人間
逃亡対象
相手に退かず、あろうことか威嚇までする始末だ。
「ソージ、ちょっと気ぃ張っとけよ?何か変だ」
「え?あ、はい!」
気を張れと言われてもどうすればいいか分からない創慈。だが何もしないわけにもいかず、とりあえず周囲を警戒した視線を彷徨わせておいた。
そんな再び訪れた緊迫の空気。先に動いたのは角兎の方だった。
ギィ!と獣特有の濁った雄叫びを上げて頭を突き出し、その次の瞬間には何と額の角が淡く光り射出された。角は短いがそれなりに鋭く、射出速度はそれなりに早いので当たれば流血は巻逃れないであろう雰囲気を醸し出していた。
視線を彷徨わせつつも角兎から目は逸らせていなかった創慈も、この攻撃は流石に予想外過ぎたが、何とか咄嗟に横に転がり射線から逃れようとした。そう、あくまで逃れようとした、だ。実際には彼にそんな反射神経は無く、身体が硬直する一方だ。
「わぁ!」
身体が動くより声が先に出る。そしてその次にようやく身体が動き始めたが、既に遅い。彼の動きの速さでは躱せない位置まで角はすでに飛んできていた。
万事休すか……だが角兎と創慈の間にはもう一人いる。そして彼女は……紛れもなく武芸者だった。
「あぶねっ」
真っ直ぐ飛んできた角を、手で掴む。側面から受け止められたそれはそこから先には行けず、彼女の小ぶりな手に収まっていた。
そうして危機が去ったかのように思われた。創慈も同じように考え、安堵の息を漏らす。だが、ユーラシだけはまだ剣呑さを収めてはいなかった。
「まだだぜソージ……角兎の角飛ばしは攻撃用じゃねぇ……逃亡用だ。それによほど追い詰められねぇ限りやらねぇほどの手段でもある……。なのにアイツは逃げねぇ。十中八九……何かに追われてここまで来たな。後ろに退かねぇのが良い証拠だ。だから……まだ何か来るぜ」
創慈が返答をするよりも先に、まるでその言葉に正解だと言わんばかりに一陣の風が吹いた。
そして上空から現れたそれは、創慈の目には追い切れぬ速度で黒い影が一直線に降下し、砂埃を舞い上げつつ角を失った角兎を踏み潰した。
砂が晴れる。そこにいたのは、人の子供よりも体高のある黒い羽毛の鷲だった。溢れる気迫と羽に残る紫の
残影は……角兎の様な十把一絡げの魔物ではない、強者たる真の魔物の威風を創慈に叩きつけていた。
ユーラシもそれに呼応したように、全身に黄色のモヤ……闘気を纏い、隠すこともなく闘気を立ち上らせる。
「アイツは大狩鷲……この森の主種だ。もっと奥に住んでるはずだが……兎を追いかけてこんなことまで来たみてぇだな」
一瞬たりとも大狩鷲から目を離さないユーラシ。両手で構える二本の短剣は陽の光を浴びて鈍く光っている。今にも闘いが始まりそうだった。
だが同時に、創慈に魔物の説明を出来るほどの余裕がユーラシにはある様に創慈には感じられた。事実、最大限に大狩鷲を警戒し、すぐさま動ける体勢を保つユーラシではあったが、そこに決死は無く、あくまで戦えぬ同行者を守る様な位置取りを心掛けていた。
「とは言っても、見た感じアイツはまだ子供だな。成体よりも大分小さい。その分力もよえぇはずだ」
「えっと……?」
我彼の力の差を、自分に言い聞かせている様には思えない。明らかに自身に向けて放っている言葉だと創慈は認識した。だが、その真意が読めなかった。確かにあの体高で幼体ならば、成体はどこまでの巨躯を持っているのかとも思うが、最後の言葉は今戦うでもない創慈に言うには少し不自然のように思えた。
「ソージ、いい機会だ。あのスキルを試してみな。アイツは育てばかなり強力な戦力に……お前の武器になるぜ。なぁに、心配すんな。もし失敗してもアタシが狩ってやるからよ」
「……なるほど」
【生物操作】……それは創慈だけの常ならぬ力。本人としても隠すつもりはあるが封印するつもりもなかったので、早い段階でほどよく強い魔物に出会えたのは運が良かったと言えるだろう。
理屈で考えればそうだ。だが、創慈の感情は些か恐怖の方が勝ってた。もし失敗したら……ではない。もしこの力を十全に使い、彼女の言う武器を得た時、僕はどうなってしまうのだろうか、と。
再三言うが、彼は気弱な人間だ。しかしそんな人間ほど身に余る力を得ればその心はどう変わるか、どう歪むかなど分かったものではない。彼は善良ではあるが強くないのだ、身体だけでなく心も。
しかし、だからと言って戦闘も出来ない創慈ににとって、魔物という武器を手に入れるのは生きるために必要なことであることは間違いなかった。
「分かりました、やります」
覚悟を決めて、ユーラシの背後から大狩鷲に向けて右手の平を突き出す。【観察】と同様、スキルの扱い方は感覚で理解していた。
大狩鷲も戦闘態勢に見える創慈に感化され、翼を広げて周囲の空気が薄っすらと変質していくのが分かるほどの魔力を展開する。
【生物操作】
創慈が呟く様に、されどハッキリとその言葉を口にする。それは一瞬のことだった。
創慈には何の感覚も無かったが、大狩鷲は何かを感じたらしく、回避行動を取るかのように羽ばたいたが、すぐにそれも止まり再び地面に降り立った。第三者であるユーラシは成功したのか失敗したのか分からず、故に緊張と解く訳にもいかないので予断なく大狩鷲を見る。
その感覚は大狩鷲が地面に降りた時には既に感じられていた。言葉にするには難しい、自分と大狩鷲の間に繋がる意識の線の様な……心が通じたと言うべき感情が。
「……成功です」
吐き出す様に結果を伝える。そして意識すれば大狩鷲は静々と戦意を欠片も見せずに、創慈の元へ歩み寄った。
「ハハ……すげぇな……」
ユーラシはその大狩鷲の様子を見て、乾いたような笑いを漏らす。本来ならば大狩鷲は決して人には懐かない。何故ならば、彼らは賢く……またプライドが高いからだ。そして種族に対する仲間意識が強く、他種に対しては時に恐ろしい程の残虐性と凶暴性を発揮する。そんな魔物なのだ。運よく卵を入手し、生まれた時から世話をすればその限りではないかも知れないが、大狩鷲の巣に入り卵を盗って帰るなど並程度の狩人では自殺行為だ。彼らは同族を害する者を絶対に許さない。
だが、それが今覆された。ユーラシは確信する。【生物操作】の恐ろしさを。そして……可能性を。
「うーん、この子のステータスなどは見れませんねぇ……」
ユーラシが戦慄している裏で、彼らは何ともほのぼのとした空気を醸し出していた。
まるで甘えるかのように大きな頭を創慈に擦り付ける大狩鷲。その愛嬌はやはりこの子は幼体なのだと、創慈に納得させるには程よい威力を持っていた。創慈はそんな大狩鷲の頭を撫でつつ、何とか従魔のステータスを見られないか四苦八苦していた。結果は芳しくないようだが。
そんな折、彼らの温い空気に当てられ毒気を抜かれたユーラシが、ようやく戦慄から回復し創慈に話しかける。
「ソージ。あー、なんつぅか……アタシが提案したことだけどよ、自分が何したか分かってるか?」
何となく、彼らの雰囲気を見ていると、創慈は自分がどれだけのことをしたのか理解できていないのではないかとユーラシは思い至り、尋ねる。
「えぇ……分かっていますよ。傍から見ても先ほどまでのこの子は……とても人間に懐くような動物には見えませんでした。紫のモヤ……あれが魔力でしょうか?そんなものを撒き散らして明らかに完璧な戦闘態勢……それをたった一言で消し飛ばして、あまつさえ使役してしまうなど……どこまでも常ならぬ力であると理解しました」
「……分かってんならそれでいいよ。ま、実際に使ってみて如何に自分がやべぇモン持ってっか実感したろ」
「そうですね、正直ちょっと怖いです。怖いですが、僕にとって最も大事な力であることも分かりました」
ユーラシが鍛えてくれるとは言えど、自分がどこまでやれるか……それどころか戦えるようになる未来がとんと見えなかった。もし実際にそうだった場合、この能力は何よりも大きい自分の武器になる。
暗い未来も明るい未来も、要は能力
道具
の使いよう。自分が悪いことに利用したり、助長して能力を振り回しさえしなければ、きっと良い方向に未来は傾くだろうと創慈は考えた。考えたついでにユーラシに語ってもみた。
「かかっ甘ぇ甘ぇ《あめぇあめぇ》。だが、悪くはねぇなぁ……特に創慈みてぇな弱っちい奴ならよ。……悪いことすりゃ自然と敵は増えるもんだからよぉ、戦いたくなけりゃ敵を作らねぇ方がいいぜ」
創慈の生温い理想を笑い、されど肯定する。そして最後に言ったことには妙な実感がこもっている様な気がした。
「そういえばソイツどうすんだ?流石に街には連れて帰れねぇぜ?」
理由は言わずもがな、大狩鷲を街に持ち込めば大騒ぎだ。
「うーん、そうですねぇ……とりあえず狩人にも見つからないように言って、森に隠すしかありませんねぇ。依頼で森に来た時に狩りを手伝ってもらうと言う感じでしょうか」
「まぁそれしかねぇわな」
と、そんなこんなでひと段落付いたため、当初の予定である帰還に移ることにした。大狩鷲……と言っても判別がつかなくなりそうなので、使役した大狩鷲の子供にはビーグルという名を付けて狩人に見つからない様に森の奥へ帰した。去り際にて忠告した時、ビーグルはクエーという何とも間の抜けた、分かっているのか分かっていないのかという返答を残し、上空へ飛び去った。
そして二人もまた、来た道をなぞり街へ帰る。
◇
夕刻にはまだもう少し早い時間、二人はリーンリラに到着していた。すでに衛兵に顔を覚えられており、すんなりと関所を突破。今向かっているのは狩人組合支部だ。
「あそこちょっと怖いんですよねぇ……」
今朝のことを思い出し顔を青くする創慈。というのも、狩人は基本的に肉体派な人間が大多数なので、皆筋肉ダルマなのだ。そして顔も厳つく、顔面に傷跡などがあればそれは余計にだ。支部の受付場には順番待ちや食事等でたむろしていた輩が多かったので、創慈は終始ビビり気味だったのだ。
「なーにビビってんだよ」
しかし小柄な彼女は既に慣れきっているのか、それとも単純に肝が座っているのか平然としている。そして、ちょっとした悪戯を思い付くだけの余裕もまた、ある。
「朝は基本的に皆大人しいけどよ、こんくれぇの時間になると酒飲んでがら悪くなった連中もいっぱいいるぜ?」
あと単純に数が増えると一言言い残し、そそくさと先を急ぐ。アルコールが入り余計に厳つくなった男連中を想像し、さらに青ざめる創慈は待ってくださいよ~と言いつつ早足にユーラシを追いかけた。一人で支部に入れば、どんな目に合うかなど考えたくも無かった。
「はい、薬草束が二十五と角兎の角で銀貨二枚と銅貨七枚ですね」
依頼物の報告と納品を行う受付にて、換金が完了する。組合職員はそれなりに良い職業なのか、受付を担当する者達は皆一様に言葉遣いが丁寧で身なりも綺麗だ。そして内部作業をする者達もまた同様に。
「ようし、ソージ。まだ日も傾き切ってねぇしこのまま市場に行くぜ」
報酬金を受け取るや否や、ユーラシは創慈の腕を引っ掴み、まるで連行するかの様な勢いで組合支部を出た。
「ちょ、ユーラシ?!」
「ソージの服は紛れるっつってもまだ物珍しいからな、とりあえず服買いに行くぞー」
黄昏前で人の行き交いが多い中、すれ違う人の流れを躱しつつユーラシは迷いない歩調で突き進む。ちなみに創慈はユーラシに腕を掴まれているという状況に困惑と緊張、そしてちょっとした嬉しさによりあわあわと忙しない表情を浮かべて、無理矢理足を動かすのであった。当然のことながら、ユーラシは前を向いているので創慈の感情を推し量るなど不可能だ。
しかし創慈からはユーラシが良く見える。少し焼けた空の赤を受けて、ユーラシの金髪は煌びやかに輝いていた。それはもう、創慈にとっては眩しいほどに。
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