第35話

「君は、確か以前友達を連れて来た子だね?」

 

 手術室の扉の前にたどり着くと、そこには四人の人間がいた。


 その内の一人は白衣に身を包んだ壮年の男性、以前田所君の治療をした医者だ。僕は、彼に蓮の状態を尋ねる。


「そうか、彼女が言っていたのは君のことだったんだね。すまないがはっきりと言わせてもらうよ」


 固唾を飲み込む。


「助かる確率は、二割以下だ。それにもし、助かったとしても病気が治るわけじゃない。これまでよりも、死に近づくことになるだろう」

 

 暗い、明かりが半分消えた廊下。


 僕はそのまま崩れ落ちた。走りっぱなしで足が言う事を聞かなくなったからなのか、それは定かではない。


 何も考える事ができない。頭の中が真っ白になる。

 

 二割以下。


 恐らく五割と言われても、絶望感に覆われていたことだろう。


 七割でもだめだ。八割でも九割でも。僕が欲しいのは十割だ。必ず蓮は助かる、といった曲げようのない事実だ。


 それ以外にはもう、何もいらない。僕の命さえ、なくなってもいい。


 僕は、立ち上がり医者に話しかける。


 忘れていたわけではないけれど、僕はケサランパサランであり、蓮に幸福をもたらすためにこの生を生きている。


 これまで彼女の望みを聞くことに躍起になっていた。頑なに望みを言わなかった蓮だったけれど、そんな彼女は今、まさに死の淵にいる。


 もうすぐ自分が死ぬ。そんな状態で命ある者は一体、何を望むのだろう。そんなこと、助かりたい以外にあるはずがない。


 死の淵から早々に引き返し、生の世界に戻りたいと望むに決まっている。


「蓮と、話をすることはできないんですか?」


「それは、できないよ。今まさに手術中なんだ。私と別の先生の二人で、交代しながら執刀している。私は今休憩しているから、別の先生が蓮ちゃんを見てくれているよ」

 

 視線を医者から廊下へ移す。何も為すすべがない。


 蓮と話をする事ができれば、望みを聞いて病を治すこともできたのだけれど。


「あの子は、すごい子だよ。薄れていく意識の中で自分で救急車を呼んで、手術が始まる寸前まで意識を保っていたんだ。身体もまともに動かなかっただろうに」


「…………」


「あ……ごめんよ。違うんだ、強い子だからきっと助かるだろう、とそう言いたくてね。――そうだ、これ。手術に入る前にね、連ちゃんから渡されていたんだ。もし、白い髪をした男の子がやって来たら渡してくれって。何でも、私の望みだそうだよ」

 

 半ば分捕るようにして、僕は医者の手から一枚の紙を手に取った。


 蓮は、残していたのだ。


 自分が口では言えない状態になることを見越して予め、望みを紙に記しておいた。


 生き残る為の望みを。


 彼女の魂が込められた直筆ならば、言葉と同様の価値を持つ。即ち、言葉が文字に置き代わるだけで、望みを叶えることに支障はないのだ。

 

 助かる。蓮は――助かる。

 

 絶望の闇が雲散霧消し、光の筋が差し込んでくる。僕はゆっくりと手の中を紙を開いていく。そこには――


『病を治してください。死にたくないです、お願いします」


 とは書いていなかった。


 予想を裏切った、そんな文章だった。


「な……なんで……」

 

 理解ができなかった。


 これから死ぬというのに、何故こんな望みを書いているのか、理解できなかった。理解したくなかった。

 

 これでは、蓮を助けることができない。

 

 蓮の望みは、ある意味くだらなかった。いや、現状を考えれば、くだらなすぎて思わず涙が零れてしまうほどだ。


「君は、本当に優しい子なんだね。私も精一杯力を尽くしてみる。だから、どうか気をしっかり持ってくれ」

 

 ぽん、と僕の頭の上に手が置かれる。


 温い。


 温もりが頭から入り込み、心の臓に流れ込んでくる。僕はいまだ顔を上げることができない。


「先生、どうか部屋でお休みになって下さい」


 女性の声が聞こえた。恐らく看護師だろう。


「いや、いい。それよりも、木原蓮は以前ここの病院に通院していたはすだね?」


「はい、ある時から来なくなりましたけど……」


「そうか、分かった。今すぐ木原蓮に関するカルテを全て、空いている診察室

に置いておいてくれないか? それと彼女の病気に関連する資料も全てだ」


「え? 何をされるんです?」


「探すんだよ。彼女を助ける為の糸口を、全力で。大切な人のために走り回って、必死になっている少年に出会ってしまってね。私も全力で取り組むしかないだろう」


「ですけど、大丈夫なんですか? これから交代で執刀もされるというのに」


「私はね、そういえば医者だったんだよ」


「――はあ?」


「医者っていうのは、人の命を助けなければいけない。助けられたらいいな、じゃないんだ。助けなければいけないんだよ。彼に出会って、私はその事を思い出せた。僕は、木原蓮を助けなければいけないんだ」


「先生……」


 二人の会話が終わり、四つの靴の音が響く。数回鳴った後、その音はびたっと止まり「ご家族の皆さん。あなた方は、ぜひ彼を見習うべきです」という言葉が聞こえた。

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