第36話

 僕はようやく顔を上げ、去っていく白衣に身を包んだ男女の後姿を、祈るように見つめていた。


「な~にが、見習えだ。はっ。まったく、下民の分際で無礼にもほどがあるわ」


 一人の男が、声を発した。


 その声の方に振り向くと、声を発していたのはどうやら、僕とは別に残された三人の内の一人だったようだ。


 薄くなった髪の毛を誤魔化しているのが明白なほどに、違和感を感じさせる髪型をしている。


 肥えた身体を無駄に煌びやかな服装に包み、その身を長椅子に預けている。壊れるのではないかと思うほど、長椅子は深く沈みこんでいた。


「本当ですわ。やっぱり、日本なんかに帰って来なければよかったですわね」


 肥えた男の横に腰掛ける、一人の女が言った。


 女は妙に線が細く、男とは対照的に骨と皮しかないように見える。こちらもまた煌びやかな服装に身を包み、扇子で身体を扇いでいる。


「パパ、ママ。もう、帰ろうよ。僕、疲れたよ」


 腰掛ける二人の目前に立つ男が、言った。


 年頃は。僕と同じくらいだろうか。金色に染まった髪と、生粋の日本人といった感じの顔が不協和音を生み出している。


 こちらもた、当然のように煌びやかな服装に身を包んでいる。


 僕は、出会って間もない頃の蓮の言葉を思い出していた。この三人は、恐らく蓮の両親とその養子だろう。

 

 蓮は元々、裕福な家庭に生まれた女の子だった。


 何不自由なく、むしろ贅沢に覆われた生活の中に彼女はいた。けれど、その生活はすぐに終焉を向かえ、あの広い豪華な屋敷の中を一人で暮らす事となったのだ。

 

 それにしても、疎遠であるように思われていた蓮の家族が、どうしてここに? 


 脳裏に、海の日の出来事が映し出される。溺れる我が子の救助を泣きながら懇願する父親、そして助かったときの安堵の表情。

 

 なるほど、この人たちは蓮のことを案じて駆けつけたのだ。我が子が死に直面しているとなると、関係を絶ったかのように見える親でも心配せずにはいられないということか。


 僕は、親から子への愛情というものを少し理解できたような気がした。


 僕が蓮を想うこの気持ちとはまるで別物なのだろうけれど、想っていることには変わりはない。


「――あ、あの」

 

 僕は三人に声をかけた。


 不安だったからだ。自分だけでは、この時間をまともな状態でいられる自身がなかったからだ。


 「蓮の家族の方、ですか?」


 けれど。


 僕は結果として、余計に苦しむことになった。

 

 僕とこの家族とでは、蓮を想う意味合いが、まるで違っていたのだ。


「家族? ふん、あんな者と家族であるわけがなかろう」


 怒り口調で、男は言った。


「そうですわよね。まったく、面倒もいいところですわ」


 隣に座る女が、嘆くように言う。僕は、呆然と立ち尽くしていた。言葉の意味が、分からない。


「すいません、てっきり蓮のご両親かと……」


「血縁上はな」


 僕は首を傾げる。ますます、言葉の意味が分からなくなった。


「本当はな、同じ血が流れていることにも嫌悪感を抱いているのだよ。あんな面倒な幽霊のような者、はやく死んでくれればよいものを」


 僕は目を丸くした。


 この男は一体、何を言っている? 


 血の繋がる実の父親は、一体何を想って言葉を発している?


「まったくですわ。あの子のおかげで、散々苦労させられましたものね」


「そうだな。あいつが病気などになるから、下民たちがこぞってわしのところにやって来おった。「娘さんはだいじょうぶですか」など「この薬はきっと病気を治してくれます」など、わしのご機嫌取りに必死よ。毎日毎日、何十人も来おるものだから、頭がおかしくなるかと思ったわい」


「だから、パパは僕を養子にしたんだよね」


 軽快に金髪の男が笑う。軽快に、そして軽率に。


「おお、そうじゃ。あやつを捨ててのう。何時死ぬかも分からんし、それでい

て生きていれば面倒だしで、疫病神以外の何者でもなかったからな。それに比べてお前は、本当に天使のような子じゃよ」

 

 薄暗い病院の廊下の中を、三人の笑声が木霊する。


 到底、僕の知る人間とは思えない。いや、違う、知っている。僕は、人間がこういう生き物だということを知っていたはずだ。


 人間は欲望の生き物。欲望の家畜。身をもって知っていたはずだ。

 

 なのに。なのに、どうして。

 

 僕は、幻滅している。


 人間の醜さに、心底幻滅している。


 いくら外側を整えようとも、中身は腐敗して、異臭を放っている、それが、人間だ。


 それこそが人間だ。


 蓮と出会って、僕は変わった。変えられた。


 醜いはずの人間をもしかしたら、温かく美しい存在ではないのかと思うようになった。


 蓮と過ごす内に、人間の本質を見たような気がした。けれど、それはすべて幻想だった。

 

 僕は、ケサランパサランという存在として、間違った道を歩んできたのかもしれない。


 ケサランパサランは、人間の望みを叶え幸福をもたらす存在、それ以外にはないのだ。


 けれど、今の僕はその役割を放棄し、蓮の生のために動いている。


 僕は、間違ったのかもしれない。

 

 けれど――。


「たまたま日本におったせいでこんな所に呼びつけられてしまうとは、まるであやつの嫌がらせのようだな」


「きっとそうですわよ、あなた」


「パパとママに嫌がらせするなんて、ひどいやつだね。早く死ねばいいのに」


「そうだな、さっさとわしらを解放してくれ」


「あと少しで、終わりますわ」


 醜い愚かな笑声が交わり、一つの巨大な塊となって廊下を突き抜けていく。そして、その後に一つの音が響き渡る。


 平手打ち。


 以前、僕が蓮にされたものだ。

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