第34話
音楽のように聞こえていた雨音も、ただの不快音となり、彩っていた世界も一瞬にして灰色の世界と化した。
僕が浮かれてしまった罰なのか、それとも必然的に起こりえたものなのか。
罰というのなら償おう。必然的というのなら抗おう。
僕は、屋敷の前で傘を落とし立ち尽くした。
庭園の中に、あの晴れやかな笑顔はない。雨足が強くなる。一向にやむ気はない。全てをなくした僕の頭に、容赦なく降り注ぐ。
屋敷の前には人だかりができていた。僕は、誰にも声をかけない。
かけなくても聞こえてくる。人間どもの、面白がるような会話が聞こえてくる。
「この庭園の中に倒れてたんだって」
「マジかよ、幽霊でも倒れるんだ」
「てか、元々死んでるんだから救急車なんて呼ばなくてよくない?」
「誰が呼んだの?」
「さあ? 幽霊仲間じゃない?」
「それ、超ウケル!」
「幽霊のくせに優遇されすぎだわ。黙って死んでたらいいのにさ」
人々の声が、頭の中で木霊する。
どろどろとした液体のように流れ込み、まとわりついてくる。
誰かが言った。
「早く死ね」
誰かが言った。
「幽霊とかきもいから」
誰かが言った。
「自業自得。金持ちは消えてよし」
誰かが言った。
「生きてる意味なんてないだろ」
激しかった雨が、豪雨に変わる。
痛いほどの雨粒が頭上に降り注ぐ。野次馬たちは、強くなった雨足を気にしてぞろぞろと退散していく。
僕の横を、幾人もの人間が通っていく。
気持ちが悪い。吐き気がする。
僕は逃げ出すかのように豪雨の中、傘もささずに走り出していた。
闇に染まる空間から逃れるため、光を求めて走り出していた。
息を切らしながら、走り続ける。目的地は、蓮が運び込まれた病院だ。
学校の近くに大きな病院が一つある、恐らく彼女はそこにいるだろう。
走りながら、頭の中に蓮の無邪気な笑顔が描かれる。それはゆっくりと闇に包まれていき、やがて輪郭すらぼやけ、何も見えなくなる。
突然の悲劇――ではない。
思えば、こうなることは必然的であったともいえる。そもそも彼女は、出会った時から死と隣り合わせの病だと公言していた。
何時死んでもおかしくないような病を患っている人間が、小規模な範囲とはいえ毎日走り回り、挙句に海で泳ぎ、そして人混みの中を長時間歩いていたのだ。病が一気に悪化したところで、何も不思議はないだろう。
責任は僕にある、などただの思い上がりだろうか。
もしも、僕がいなければ、僕が蓮と出会いさえしなければ彼女は倒れることはなかったのかもしれない。これも、ただの自意識過剰だろうか。
なんにせよ。
今の僕は、少し前の僕とは別の者のように変わっている。蓮と出会うまでの僕なら、蓮が倒れ二度と目を覚まさぬことになっても、幸福をもたらす相手がいなくなった後のことを懸念していただろうが、今の僕はそんな思いを微塵も抱いていない。
ただ。
ただ、蓮に死んで欲しくない、それだけだ。それだけを思っている。
あの笑顔を、あの鼓動を消したくない。ずっと、見て感じていたい。そう思う。これも、ただのエゴなのだろうか。それでもいい。エゴでも何でも、蓮が死にさえしなければ、それでいい。
雨の中を走り続け、僕はようやく病院にたどり着いた。それなりに大きな病院、以前、殴られた田所君を背負って訪れた病院だ。
病院の自動ドアの前に立つ。
ゆっくりと開いていくドアの時間が、苛立ちを覚える。自動ドアを砕いて早く病院内に駆け込みたい衝動を抑えながら、完全に開いた自動ドアを通り、受付まで走っていく。
血相を変えて駆け込んできた僕の存在を認識した為か、受付の女性はすぐさま立ち上がり「どうしました?」と声をかけてきた。息が切れ、言葉を発することができない。
息を整える為の数秒。
何とか言葉を発せるようになり、受付の女性に木原蓮の所在を尋ねた。
女性からの返答は、現在手術中とのこと。
僕は、手術室の場所を尋ねる。待合室に置かれていた病院内のフロアマップを用いて、懇切丁寧に説明をしてくれた。
受付の女性に「ありがとう」と感謝の意を述べ、僕は再び走り出す。
走り出したと同時に、受付の女性から「病院内では走らないで下さい」と声が飛んでくる。僕はしぶしぶその言葉に従い、走から歩へと切り替えた。
後ろから「彼女さんはきっと、大丈夫ですから!」と大きな声が聞こえてくる。
先程の受け付けの女性の声だ。病院内では静かに、何て僕でも知っているというのに、所属する側の人間が半ば叫ぶような事をしてもよいのだろうか。
よいということに、僕がしておこう。
ただの言葉、根拠もないただの言葉であったのに、何故だか僕の心は少しだけ軽くなったのだから。
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