第19話
一人の男が、砂浜で叫んでいる。恐らく少年の父親なのだろう彼は、少年の名を必死に叫び狼狽えている。
気が動転してしまっているあの状態では、到底助けに行くことは不可能だ。行ってしまえば、親子揃って海に捕らわれることになるだろう。
僕の背を押す力が、一層強くなる。
「――どうして!? どうして、助けに行かないの!」
「僕には、関係ないだろ?」
僕の背を押す力がふっと消えたと思うと、視界に蓮が走っていく姿が見えた。息を切らしながら全力で走って行き、そのまま海の中に飛び込む。
早いとは言えない。
むしろ、今にも溺れてしまいそうなほどの頼りない泳ぎで、蓮は少年の下へと向かっていく。ゆっくりと、けれど着実に。
砂浜にいる人々の声が、響き渡る。
「がんばれ」「あと少し」複数の人々が異口同音に唱える。
誰も助けに行こうとする者は、いない。それもそうだろう、皆関係のないことなのだから。
しばらくして蓮は、少年の元へと辿り着いた。
少年の体を抱きしめ、何かを喋っている。落ち着かせようと、なだめているのかもしれない。
効果があったのか、先程まで暴れていた少年は大人しくなり、蓮に掴まった姿で砂浜へと導かれていく。
一件落着――に見えた。
後ほんの少し、それだけで足の着く場所まで来れただろうに、その手前で二人は再び海に捕らわれた。といよりも、蓮の力が尽きた、と言った方が正しいかもしれない。
二人の身体は、ゆっくりと海の中に沈みこんでいく。
父親は、砂浜から大声で息子の名前を叫ぶ。他の人々は、それぞれ何かしら叫んでいる。よく分からない。僕の耳には、既に風を切る音しか聞こえていなかったのだから。
僕は、走り出していたのだ。
海目掛けて、息が切れるほどに全力で走り出していた。そのまま躊躇うことなく海に飛び込み、全力で水をかき泳ぎ進んでいく。
視界に映っていた二人の姿が、完全に海に沈み消えた。
蓮の姿が、消えた。
泳ぎ方など知らないかのように、僕はがむしゃらに海の中を進んでいく。
二人が沈んだポイントに辿り着き、自ら身を沈め二人の姿を探した。
海面から二メートルほど沈んだ先に、一人の少年を抱きしめる少女の姿が見える。僕はその姿目掛けて潜り、二人を抱えて海面から顔を出し、大きく息を吸い込んだ。
さほど海水を飲み込んでいたわけでもないようで、二人はすぐに海水を吐き出し意識を取り戻した。
意識を取り戻した直後は現状が掴めず暴れていた二人だったが、少しして理解したらしく、僕の腕の中で大人しくしていた。
砂浜に戻り着き、拍手やら喝采が降り注いでくる。ひどく鬱陶しい。
蓮はよろめきながら砂浜に立ち、少年はその場に座り込んだ。すぐさまその上に、大きな影が覆いかぶさる。少年の父親だ。
父親は涙を流しながら座り込む我が子を抱きしめ、「よかった」と連呼している。僕はそれを見下ろす。蓮は、「よかったですね」と微笑んだ。
父親は少年を抱き上げ、僕たちに振り向き「ありがとう」と何度も頭を下げてきた。あまりにも鬱陶しかったので、僕は何も反応を示さずにいた。
意外にも、蓮も僕と同様に黙然としたままだった。
やがて父親は去り、辺りにいた野次馬根性丸出しの人間たちの姿も消え去った。
砂浜に残されたのは、着替えを終えた僕と蓮の二人だけとなっていた。真横に位置する太陽が、海を真っ赤に染め上げている。
「帰ろうか」
僕が蓮に言う。
けれど、彼女は未だ黙然としたままだった。
少年救出以来、蓮の様子がおかしい。しかし、それもまたどうでもいいことではある。大方、遊び足らないからふてくされている、といったところだろう。
僕は何も気にせず、駅へと歩を進めようとした。
それと同時に、彼女の口が開いた。
「助けてくれて、ありがとう」
下を向いたまま、彼女は言う。
「だけど――」
ぱちん。
大きな音が、海全体に広がった。蓮は、僕の頬を力いっぱいにひっぱたいたのだ。
「命は……命は消えたら、二度と戻ってこないんだよ」
僕は痛む頬を手で押さえながら、蓮を見つめる。
彼女は一体、どうしてしまったのだろう。涙を流しながら俯く彼女に、僕は何も言えなかった。
叩かれた頬の血液の流れが、ひしひしと感じられる。
蓮は俯いたまま歩き出し、駅の方角へと歩を進め、僕はその跡に続くように歩き出した。
ふと振り返ると、凪いだ海が妙に悲しく憂いを帯びているように見えた。
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