第16話

 僕たちは食事を終えて、ファミリーレストランを出て行った。


 会計は、全額蓮の支払いだ。


 僕は一言「ごちそうさま」と告げる。


 けれど、そこには何の感情も抱いていない。女の子に支払わせてしまった罪悪感も、おごってくれた感謝の気持ちも全く抱いていない。


 僕は人間のように感情豊かではないのだ。というよりか、そもそも僕の手持ちがなくなったのは蓮のせいでもあるのだ、おごられてしかるべきと言える(頭の中に浮んだ『ひんやりクールシャツ』は二度とその姿を見せぬように封印しておこう)。

 

 駅に着き切符を買う。


 十一時発の電車に乗り込み、僕たちは賑わう街を後にした。


 窓の外に移る景色は、人工物から次第に自然のものへと変わっていく。同じ世界でありながら、まるで別世界に迷い込んだような、そんな錯覚を感じた。

 

 僕たちはボックスの席に座りながら、二人して窓の外を眺める。ふと前方に視線を移すと、口を大きく開け、目を輝かせて窓にひっつく一人の少女が視界に入った。


 足をぱたぱたと上下させ、ふおーっと唸っている。その光景に、僕は小さく笑声を漏らした。声に反応して蓮がこちらを向いた。


「初めて笑ったね」


「そうでもないだろ?」


「ううん、初めてだよ」


 これまでの中で、幾度か彼女に笑顔を向けた記憶はあるので、初めて笑ったということは無いと思うのだが、彼女が言うからにはそうなのかもしれない。

 

 ただ自分で笑っているつもりで、笑っている表情をつくっていただけで心が笑っていたことはなかったのかもしれない。いや、かもしれないではない。心から笑うなんてことは、これまでに一度もなかった。


 あるはずがなかった。


「蓮、海が見えてきたよ」


 僕は、窓の外を指差す。


 遥か彼方まで青一色。  


 空と海との境界線が有耶無耶になってしまいそうな、それほどまでに海は青い。

 

 蓮は、額を窓にぶつけるほど勢いよく、再び外の景色に視線を移す。彼女の身体が、小刻みに震え始めている。


 テンションが上がりすぎて、このままでは爆発してしまうのではないだろうか。僕はまたも、微笑を漏らした。

 

 けれど、僕は忘れていた。


「海……はじめて見た……」


 彼女が二つの世界の狭間にいることを、僕は忘れていた。


 この目に映る海と空のように、境界線が交わり、認知することができなくなっていた。


 僕の側にいる木原蓮は、確かにここに存在している。僕には、感じられる。

 

 ガタンゴトン。電車は構うことなく進んでいく。


 

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