第1話

僕は――人間ではない。


 人間の姿をしているけれど、人間ではない。高等学校と呼ばれる場所に所属しているけれど、それは人間の世界の中に溶け込むためにそうしているだけであって、人間であるから、というわけではない。


 人間の世界に溶け込んでいないと、命の危険性があるから、仕方なくだ。


 恐らく、周囲の目から見れば僕の存在は、人間となんら変わらずに見えるだろう。しかし、僕には人間と根本から違う部分がある。


 それは――生物としての存在意義である。


 『幸福をもたらす生物』。それが、僕だ。


 既に僕以外は絶滅してしまったであろうその生物は、古来より人間の望みを叶え、幸福をもたらしてきた。


 金、女、富、名声、権力。望みは各々違ってはいたが、底にあるものはどれも我欲の塊だった。


 自らの欲を満たす。それが、人間の幸福なのである。


 浅ましく、醜い。


 彼らが望む事柄に対して、そう思うわけではない。


 人間たちが見せるその顔を、醜い、と感じるのだ。己の望みが今まさに叶う、となった時の人間の顔。あれは、あまりにも醜悪だ。思わず、目を塞いでしまいたくなる。


 けれど。


 僕は、そんな人間の望みを叶えてきた。


 何故、人間の望みを叶え幸福をもたらさなければならないのか、それは僕にも分からない。だが、それが僕にとっての唯一の生きる意味だと、そう思っている。


『幸福をもたらす生物』


 僕は、ケサランパサランと呼ばれている。今ではその存在を認知する者もいなくなってしまっているけれど、かつてはそう呼ばれていた。


 ケサランパサランは、人間の望みを叶え幸福をもたらす。そして、それによって力を使い果たし、また一から新たな生を始める。


 一から生を始め、再び幸福をもたらし、そしてまた一から生を始める。


 無限のサイクル。


 そのサイクルの中に身を置くことが僕の役割であり、生きる意味なのだ。それ以上も、それ以下もない。


 人間とは、幸福をもたらすための相手。それだけだ。それ以外には、何もない。あるわけが――ない。


 ある夏の日。


 コンクリートさえも溶けてしまうのではないか、と思わるほどの炎天下。


 降り注ぐ蝉時雨の中、僕の通う学校では、幾人もの人間が叫んでいた。歓喜の叫び、である。


 本日より、プールの授業の始まったのだ。


 歓喜の雄たけびを上げている大半は、男子である。僕も一応、雄ではあるのだけれど、残念ながら喜ぶ理由がいまいち分からない。まあ、分かったとしても、こんなみっともない真似は出来やしないが。


 クラスの男子の中で唯一、僕は呆けたまま座っている。


らん君。何を不思議そうな顔をしているのでござるか? プールですぞ? プールの授業が始まったのでござるぞ?」


 クラスメイトの田所たどころ君は、相も変わらずの独特なござる口調で、僕に話しかけてきた。


 彼の眼鏡がきらり、と輝いている。


「それは知っているけれど、分からないんだ。どうして皆、そんなに嬉しそうなんだ?」


「欄君……本気で言っているのでござるか?」


 怪訝な顔を見せてくる。僕も彼に呼応して、眉根を寄せる。


 互いに理解が出来ない、といった感じだ。


 しかしまあ、とは言ってもこの場合、周囲の状況から考えるに田所君の反応の方が正しいのだろう。


 人間ではない僕の反応が、人間社会において正しい可能性は、人間が見せる反応と比べれば雲泥の差である。泥にまみれるのは、僕の方なのだ。


 田所君は目の前にあった僕の椅子の上に立ち、片足をこれまた目の前にあった僕の机の上に乗せた。


 何してくれてんだこの野郎、と思うや否や、彼は天井に向けて拳を突き上げ、声高に叫んだ。


「プールの授業と言えば、何でござる? そうでござる! 水着! 女子たちの露になった珠のような肌を、法に縛られることなくこの双眸そうぼうで見ることが出来る! こんな世紀の一大イベントに、テンションが上がらず何が男子か!? 否、それは男子ではない! ゴミくずである!」


 田所君の叫びが、教室を揺らした。


 彼の言葉に続くように、クラス中の男子が手を叩き始める。音は巨大な波となって、教室を飲み込んでいく。


 そんな中。


 クラスの女子たちはというと、男子の様子を横目で見ながらなんとも言えない表情を見せていた。


 刃物で突き刺してきているような痛みを感じる。

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