再戦へ

 寄せられた唇は、そっと私の額へ落とされました。柔らかな熱はすぐに引き剥がされ、不服そうなストゥーの顔がそこにありました。


「……そういう意味じゃない。」


「あら、ではどういう意味かしら? 」


 にこやかに問いかけると、彼は押し黙りまた沈黙が流れましたが、やがてどさりと、私の左隣へ勢いよく座りました。


 ため息と共になにか言いたそうなじと目を向けられます。しかし口にして貰わないと何を言いたいのかわかりません。


 メガネをはずすと少し幼く見えてしまいますが、不服そうな顔は余計にそれを助長いたします。


「全く、叶わないな……。」


「駆け引きは昔より上手になったのではなくて?」


 うなだれるストゥーに、からかうように口許に手を添えて笑いかけます。彼をこうしてからかうのは、いつもの事です。彼が私に手を出さないのは、知っていますから。


 ーーそれを利用することに、なんのためらいもなくなっている私は、きっと卑怯者でしょう。


「僕がその気になったら、君を破滅させられるんだよ?わかってるのかい」


「えぇ、その時はあなたは確実に道連れにするから、自分を破滅させたいのならどうぞご自由に。」


 彼は私の秘密を握り、私は彼の不正を知っている。


 お互いの首輪の紐を握り合っている仲です。片方が道を踏み外せば、その瞬間紐が引かれ、片方の首を吊る。運命共同体とでも、いうのでしょうか。


「君相手に駆け引きをしたのが間違いだったよ、レイ。安心してくれ、君の願いは叶えるよ。それが、約束だから。」


 ストゥーは完全に脱力したように両手をソファの縁に放り投げ、足を広げております。見た目はインテリの仕事ができる風に装っておりますが、ストゥーは時々抜けている男です。私の前では、気取らずにこうして素の彼になることもしばしば。


 聞きたかった言葉は引き出せたことですし、そろそろ帰りませんと。彼をからかうこともできましたし、満足です。


「それじゃ、追って資料を送るわね。」


「……ん、ちょっとまて!?」


 部屋を出ようとした間際、ストゥーは急いで私を引き留めました。振り返ると、そこには焦ったような、してやられたと言いたそうな、そんな整った顔をやや崩した彼がいました。


「なにかしら?」


「後でって、まさかこれだけじゃないのかっ!?」


 私はにっこり、微笑みます。


「えぇ、これだけとは言っていないわよ。私の願いは、叶えてくれるんでしょう?」


 男に二言はない。これが昔から彼がいっていた言葉です。まさか前言撤回するわけではないでしょう。私にこれで全部か、と聞かなかった彼が悪いのですよ、ふふ。


 その言葉に彼は頭を抱えてうなだれておりました。


「君ってやつは……。」


「それでは、あとはお願いね。」


 彼は呆れながらも軽くひらりと、手を振ってくれました。了解の合図です。いつのまにか、ずいぶん時間が経っていたようですので、帰りませんと。受付嬢に軽く礼をいってから、建物……レディアン自警本部を出ました。


 外に出て一度見上げると、三階の窓からコーヒー片手にこちらを見ているストゥーがいました。こちらが軽く手を振ると、カップをあげて反応してくれます。


 さて、これで再戦の準備は整いました。あとは、この事をお嬢様に知らせて差し上げるのみです。


 お嬢様はお嬢様で、報復をしたいでしょう。私は私で、このままルリーシュ嬢もカタリードも逃すつもりはありません。


 この二人にはそれ相応の報いが下るでしょうから。


 まだお昼を少し過ぎた辺りの街を歩いていると、吟遊詩人の歌声が、広場から聞こえてきました。その広場を走る子供たちや、ベンチに座ってチェスをする殿方、談笑するご婦人達……今日も街は活気に満ちています。


 近くを走り抜けた子供達に、目が向きました。少年二人に、少女が一人。少女の方が足が早いのか、二人より前を走り、それを追いかけている少年達は、とても楽しそうです。


 ふと、その姿が別の誰かと重なります。

 昔は、あぁして兄さん……ストゥーともう一人、大切な人と三人でよく遊んだものです。


 当時の私は、今のように策だなんだと考えるような慎重さはなく、行き当たりばったりで行動する所謂、じゃじゃ馬娘でしたね。


 そんな私をよく瀬戸際で引き留めてくれたのが、ストゥーでした。一度止めきれずに、一緒に川に落ちたことがありましたっけ。もうずいぶん、昔のことですのに、急に思い出してしまいました。


 ーー君はいつになったら、僕を見てくれるんだい


 彼の言葉が、脳裏をよぎります。整った顔が、悲しい顔をしていました。


 あの言葉の意味を理解できないほど、私も子供ではありません。彼が、私をそういう目で見ていたことは、知っていますから。


 けれど、それには応えられない。応える資格も、ないのです。けれど彼は、私の願いを聞いてくれます。それしか、私を引き留められないと思っているから……。


「どちらが、悪女なのでしょうね。」


 世間では、お嬢様を悪女だと罵るものがおります。けれど、私から見れば、お嬢様は可愛らしいものです。だってお嬢様は、親しい誰かを深く傷つけたことは、ありませんから。


 ーー私などもう忘れて、どうか幸せになって……ーー


 一人の兄に向けて、本当ならば言わないといけない言葉を言えず、いつの間にかここまで来てしまった。


 いつになれば、彼は解放されるのか。解放しない私が、一番ダメだというのに。それでも彼にすがる私は、なんと醜いのでしょう。


 首を左右に大きく振ります。いけませんね、今は自分のことを気にかけている場合ではありません。一番に考えるべきは、お嬢様のこれからです。


 大会の仕切り直しは確実として、会場の準備などを合わせると、恐らく二週間ほど大会まで時間的余裕が出てくるはずです。ルリーシュ嬢は後ろ楯がなくなったわけですから、急ぎ準備をするでしょう。


 もちろんお嬢様が負けるはずはありませんし、仕切り直しの大会ということで、審査は公平なものでしょう。つまり、私にできることはもうないのです。ないですが……何かしらお力になれないものか、考えてしまいます。


「……あら。」


 広場を抜け、露店が広がる市場にてひとつのテントの前で立ち止まりました。見るとそこには、色とりどりの糸が吊るされています。露店の店主は初老の女性で、私を見上げて笑いかけました。


「これはこれは、お綺麗なご婦人様。よろしければ、ご覧になりますかい?」


 そうして彼女が差し出したものは、細い糸を編んで作った美しい縄のような物でした。


「これはいったい……?」


「みさんが、という異国のお守りです。」


 なんでも一度つけると切れるまではずしてはいけないお守りのようです。切れたときに願いが叶うとされていて、糸の色やつける場所によって込める意味も変わってくるようです。


 そしてみさんがは、身に付けずともお守りとしてどこかにつけておくことも可能だそう。これでしたら、お嬢様にささやかな贈り物として贈ることはできそうです。


「糸と作り方をくださらないかしら。」


「あら、作り物じゃなくてよいのですか?」


 今はクラリの姿でしたから、不思議に思われてしまいました。貴族婦人が糸を編むことはないでしょうか、当然ですね。


「構わないわ。差し上げたい方がいるの。」


 店主から糸を数種類購入し、露店を後にいたします。作り方も、そこまで難しいものではないようですので、仕事の合間に作りましょうか。


 街まで歩いて1時間。屋敷について報告をしたら、ちょうどご夕食の準備の時間になっているでしょう。いつまでも婦人の姿は疲れますから、早く侍女に戻りたいものです。

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